この記事でわかること
- 「寝ても醒めても」という問いに、本が場面を分けて答えた中身
- 唱えることと打ち込むことは別、という区別
- 学んだ枠組みを会議中ずっと当てはめてしまう落とし穴
前回は、学んだ直後は語りたくなる、という話を書きました。本の処方は、人知れず、ただ続けることでした。
では、続けるとは、どこまで続けることなのか。仕事中も、なのか。
『禅の正門』に、ちょうどその問いが置かれています。初心の人から、著者が受けることのある質問だそうです。
本の答えは、場面で分けることでした。勉強するときは問いを棚上げして、打ち込む。では、唱えるのをやめているあいだ、修行は途切れているのか。
「寝ても醒めても」と言われた人の、もっともな疑問
坐禅には、公案(こうあん)と呼ばれる問いに取り組むやり方があります。その代表が「無字(むじ)」、つまり「無」の一字を問いとして抱え続けるものです。
本は、取り組み方をこう説明します。
無字に参じている人は、寝ても醒めても立居につけても、無字を離してはならない、ということになる。
すると、初心の人からこんな質問が来る、と本は書きます。
それは四六時中、無字の単提を離さないということになると、道を歩いている時でも、机に向かって勉強している時でも、あるいは職場で仕事をしている時でも、ムームーとやっていなければならないのかという質問である。
単提(たんてい)とは、一つの問いだけを提げ続けることです。
著者は、この質問を退けません。
もっともな疑問であって、それに対して私は次のように答えることにしている。
この一行に、私は少し安心しました。問いを持ち込んだ人を、未熟だと片づけていない。
本の答えは、場面で分けることだった
答えは、場面ごとに分かれています。まず、歩くときです。
人通りの少ない散歩道などを歩いているような時は、無字の拈提をつづけながら歩くことは可能でもあり、もとより結構なことである。
拈提(ねんてい)とは、公案に取り組むことを指します。
静かな道なら、続けてよい。ところが、人混みや車の多い場所では違う、と本は続けます。
けれども人混みの中を歩く時、あるいは自動車などの往来のはげしい場所を横断するような時は、注意深く人にぶっつからないように歩かなければならないし、車に刎ね飛ばされないように横断しなければならない。
そして、勉強と坐禅です。
勉強する時は、無字は棚上げして、一意専心勉強に打ち込まなければならない。そして、一旦蒲団の上に坐を組んで無字の拈提をはじめることになったら、他のことは一切放擲して無字に没入しなければならない。
本はこれを、在家者(家庭と仕事を持ったまま修行する人)にとって実際的な方法だ、と結んでいます。
図1 四六時中ではなく、場面で分ける——どの場面でも、目の前の一つに打ち込む
車道を渡ることが、そのまま修行だった
この答えの中で、いちばん立ち止まったのは次の一文です。
それが即ち無字の活三昧であることがわかるのは、もっと後になってのことである。
「それ」とは、人にぶつからないよう注意深く歩き、車に気をつけて道を渡ることです。
活三昧(かつざんまい)とは、動いている場面で、そのことに集中しきっている状態を指す言葉です。
つまり本は、問いを唱えるのをやめて、道を渡ることに集中していた時間が、実は同じ修行だったと言っています。ただし、それが分かるのは後になってから、と。
これは本の主張です。後で分かる、と約束するものとして読むつもりはありません。私が借りたいのは、唱えることと、打ち込むことは別だという区別のほうです。
以前の「棚上げ」と、逆向きの棚上げ
以前、坐っている間は、それまでの考えをいったん棚上げする、という話を書きました。坐るときに、仕事の頭を置いていく話です。
今回は、その逆向きです。働くときに、坐禅の問いを置いていく。
図2 棚上げは、両方向にある——どちらも「いま、目の前の一つに打ち込む」ためにある
どちらの棚上げも、向いている先は同じだと思います。いま目の前にある一つに、打ち込むことです。
学んだ枠組みを、会議中ずっと当てはめていないか
経営の場に置き換えると、思い当たる形があります。
勉強会で、よくできた枠組みを学んだ。翌週の会議で、議論を聞きながら、頭の中でずっとその枠組みに当てはめている。こういうことは、熱心な人ほど起こりうると思います。
そのあいだ、目の前の議論は半分しか聞こえていません。学びを持ち込んだつもりで、実は会議から抜けている。
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。導入の打ち合わせでも、同じことが言えそうです。正しい型を頭の中で唱えるより、いま話している人の言葉を注意深く聞くほうが先になる場面があります。
本の答えに沿えば、会議のときは会議に打ち込む。学んだことを確かめるのは、別の時間に取る。それで学びが途切れるわけではない、というのが本の立場です。
「仕事と学びは関係ない」という話ではありません
読み違えやすい点が、二つあります。
一つ目。本は、分けろと言っているのではありません。打ち込むこと自体が同じ修行だと、後で分かる、と書いています。分けているのは、唱えることと、打ち込むことです。
二つ目。本の答えは、厳密には「勉強」の例です。質問には「職場で仕事をしている時」も含まれていますが、答えの中に仕事の例は出てきません。仕事も同じ扱いだと読んだのは、私です。
まとめ——唱えるより、打ち込む
- 「寝ても醒めても」の問いに、本は場面で分けて答えた。静かな道なら続けてよい。人混みでは注意深く歩く
- 勉強するときは問いを棚上げし、坐るときは他を置く。在家者にとって実際的な方法だ、と本は言う
- 道を注意深く渡ることが、そのまま修行だったと後で分かる。唱えることと、打ち込むことは別
心を高める、経営を伸ばす。高めるための問いを、伸ばす場面で唱え続ける必要はない。目の前の一つに打ち込むことが、両方をつないでいるのだと、この節を読んで思いました。
『禅の正門』の第三章から読んできた三本は、ここで一区切りです。止まらず、語りすぎず、唱えるより打ち込む。どれも、続け方の話でした。
明日、一つだけやってみる
会議では、学んだ枠組みを頭の中で当てはめるのをいったん棚上げしてみてください。そのぶん、いま話している人の言葉を注意深く聞くことに打ち込んでください。
よくある質問
Q. 仕事中に、学んだことを思い出してはいけないのですか。
本はそこまでは言っていません。静かな散歩道なら続けてよい、とも書いています。
問題にしているのは、注意が要る場面で、唱えることに気を取られることです。人混みで道を渡るときのように。
Q. 分けてしまったら、学びが仕事に生きないのではないですか。
本の答えは逆でした。道を注意深く渡っていた時間が、そのまま修行だったと後で分かる、と書いています。
私の読みでは、生きるのは唱えた言葉ではなく、打ち込む力のほうです。
Q. 宗教的な話として受け取るべきですか。
本は仏教の言葉で書いていますが、この記事が借りたのは、唱えることと打ち込むことを分けるという構造だけです。用語を外しても、構造は残ります。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社、1986年)第三章第四節「悟りの深浅について」。本文177ページ
- 「無字に参じている人は、寝ても醒めても立居につけても、無字を離してはならない、ということになる」は本文177ページ
- 「それは四六時中、無字の単提を離さないということになると……という質問である」「もっともな疑問であって、それに対して私は次のように答えることにしている」は本文177ページ
- 「人通りの少ない散歩道などを……もとより結構なことである」「けれども人混みの中を歩く時……横断しなければならない」「それが即ち無字の活三昧であることがわかるのは、もっと後になってのことである」は本文177ページ
- 「勉強する時は、無字は棚上げして……無字に没入しなければならない」、および在家者にとって実際的な方法だとする記述は本文177ページ
- この問答は、同書が修行の段階を説く古い頌(詩)を解説する途中に「念のため」の注意として置いているもの。本記事は段階論には立ち入っていない
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像(400dpi)で字句を確認した
- 本文中に坐禅会の関係者・老師のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
- 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません。同書の主張の紹介であり、その内容を保証するものではありません
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