水の尽きるところまで行って、坐って雲を見る——九年かけた一冊の、最後の一行

この記事でわかること

  • 九年かけた連載を「未熟」と「第一歩の手前」で閉じた結語
  • 文脈を追うだけでは表面を撫でるだけ、という読み方の二層
  • 「行到水窮所 坐看雲起時」——行き止まりで坐るという締め方

前回は、八つの前提を自分に点検する話を書きました。

ここまでで、本の中身はほぼ終わりです。残るのは最後の章、第五章 結語だけになりました。

この章を読んで、私はしばらく本を閉じられませんでした。一冊を書き終えた人が、これから登り始めると書いているからです。九年かけた人が、なぜ最後に自分を未熟と書いたのか。

目次

九年かかった一冊

結語は、書かれた時間の話から始まります。

この本は、教団の機関誌に連載されたものでした。書き始めたのが昭和四十四年の七・八月号。約九年間、連載が続きました。

その九年に何があったかも、著者は書き添えます。

書き出した当時は大学紛争の盛んなころだった。その後、日本はオイルショックという大きな試練を受け、後遺症を残しながらどうにか切り抜けた。そのあと円高という思いがけない事態に追い込まれ、世界中から責められている最中に筆を擱くことになった——。

顧みて多少の感慨なきを得ない、と書かれています。

九年です。時代が三つ変わっています。連載の一回一回を書いていたときには、それが一冊になるとは決まっていなかったはずです。

もう一つ、結語の冒頭で著者は、現代の禅をどう位置づけるかという問いを立て直します。自分の師も、そのまた師も、当時の禅のありように対しては極めて厳しい批判者だった、と。

内側にいる人ほど、厳しく見ていた。外から言うより、はるかに難しいことだと思います。

なお、批判の具体的な中身は宗派に関わる話なので、ここでは立ち入りません。

文脈を追うだけでは、表面を撫でるだけ

結語で、著者はもう一度言を見て察するという言葉を持ち出します。

これは前に書いた正師の見分け方の節に出てきた、道元禅師の言葉です。本物かどうかは、その人の言葉を見て察するしかない——。

著者はそれを、自分が道元禅師を読むときにも当てはめます。

そして、こう書きます。

「単にその文意を探り、文脈を追うだけでは、禅師の世界の皮膚面を撫でさするに過ぎない」

「到底その骨髄に参到することはできないのである」

文意を追うこと、文脈をたどること。私が仕事でやっている読み方は、だいたいこれです。

それは表面を撫でているだけだ、と言われています。

では骨髄に至るにはどうするのか。自らその事実を体験しなければならない、と書かれています。

読むだけでは足りない、というこの本の主張が、最後に自分自身に向けられていました。

読み方の二層——表面と骨髄 文意を探り、文脈を追う = 皮膚面を撫でさするに過ぎない 自らその事実を体験する = 骨髄に参到する 見分ける方法は「言を見て察する」——それは、読む側にも返ってくる 一冊書いた著者が、最後に自分の読み方を点検している 出典:『新版 禅の正門』第五章(本文344ページ)

図1 読み方の二層——表面と骨髄

日暮れて道遠し

ここからが、この章のいちばん静かなところです。

著者は、自分がこれから取り組もうとしている課題を挙げたうえで、こう書きます。

自分の道業の未熟と年齢を思う時、日暮れて道遠しの感なきを得ない。

九年かけて一冊を書いた人が、未熟と書いています。

それでも、なお余生をこの仕事に捧げようと思う理由も書かれています。一つは、止むに止まれぬ内奥からの突き上げがそうさせるから。もう一つは、受けた恩に酬いる所以だと思うから。

やりたいからでも、やるべきだからでもない。返したいからという理由でした。

登るべき山は、まだ登っていない

そして、この一冊で最も印象に残った一節が来ます。

著者はこう振り返ります。道元禅師は、自分にとって最後に登破すべきエベレスト峰であると思ってきた、と。

いつの日か登り始める日が来るだろう。その日に備える足慣しのようなつもりで、公案の一則一則に参じていた——。

続きはこうです。

さて、いよいよここへ来て、この巨峰に向かって第一歩を踏み出そうとして気がついてみると、日はようやくたそがれ時になっている。

三百五十ページ近い本を書き終えた人が、まだ第一歩を踏み出していないと書いている。

しかも、踏み出そうとしたところで日が暮れていることに気づいた、と。

九年かけて書いて、まだ第一歩の手前 登るべき山 いま、ここ 第一歩を踏み出す手前 これまでの九年=足慣し 公案の一則一則に参じた日々 出典:『新版 禅の正門』第五章(本文344〜345ページ)

図2 九年かけて書いて、まだ第一歩の手前

最後の一行

本は、二つの出来事を並べて終わります。

この本は、大学騒動のはなやかなころに稿を起こし、成田空港が開港する日に筆を擱こうとしている。

そして、最後に漢詩の一行だけが置かれます。

「行到水窮所 坐看雲起時」

歩いていって水の尽きるところまで来た。そこで坐って、雲の起こるのを見ている——。

行き止まりに着いた、という嘆きの句ではありません。水が尽きたところは、雲が生まれるところでもある。

九年の連載を、この一行で閉じています。解説はありません。読み方は、読む側に預けられています。

手引きを書き終えたときに、何を書くか

私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。

この仕事を長くやっていると、手引きや標準の類が溜まります。作り終えると、少し分かった気になります。

この章を読んで、その気分が恥ずかしくなりました。

九年かけて一冊を書いた人が、最後に「未熟」と「第一歩の手前」と書いている。

しかも、文脈を追う読み方は表面を撫でるだけだ、とまで自分に言っています。私が資料を読んで分かったつもりになるときの読み方は、まさにそれです。

もう一つ、恩に酬いるという理由の置き方が残りました。

続ける理由を、やりたい・やるべきの二つでしか考えていませんでした。返したいから、という三つ目があると知ったのは収穫です。

しかも、その恩は師から受けたものです。返す先は、教えてくれた本人ではなく、次に来る人になります。

時代の話も残りました。九年のあいだに、大学紛争があり、オイルショックがあり、円高が来た。

環境が三度変わっても、書いているものの芯は変わらなかった。私の仕事でいえば、道具は何度も変わりましたが、現場が困っている場所はあまり変わっていません。

そして最後の一行。行き止まりに見えるところで、坐って雲を見る。

進めないときにやることは、引き返すことでも突破することでもなく、坐ることだった。この本の最初から最後まで、それだけを言っていたのだと思いました。

十六本かけて読んできて、最後に残ったのはその一点でした。

まとめ——終わりは、入口だった

  1. 文脈を追うだけでは、表面を撫でるだけ。体験しなければ骨髄には届きません
  2. 一冊書いた人が、第一歩の手前だと書く。九年は足慣しでした
  3. 水が尽きたところは、雲が生まれるところ。行き止まりで坐る、という締め方です

心を高める、経営を伸ばす。この本は、高め方を教えて終わるのではなく、書いた本人がまだ登っていないと書いて終わりました。

次回からは本を離れます。この会で教えていた老師ご自身が、なぜこの道に入ったのか。原点の話です。

明日、一つだけやってみる

最近「分かった」と思った資料や手引きを一つ選び、その時点を疑ってみてください。文脈を追っただけで分かった気になっていないかを、確かめてください。

よくある質問

Q. 「未熟」と書くのは、謙遜ではないのですか。

謙遜の形はしていますが、中身は点検だと読みました。

同じ章で著者は、読む側としての自分の限界も具体的に書いています。謙遜だけなら、そこまで書く必要はありません。

Q. 「行到水窮所 坐看雲起時」は、どういう意味ですか。

歩いていって水の尽きるところまで来た。そこに坐って、雲が起こるのを見ている——という漢詩の一行です。

本は解説を付けずに、これだけを置いて終わります。だから読み方は読者に委ねられています。私は行き止まりが終わりではないという意味に読みました。

Q. 仕事で、ここまで自分に厳しくする必要がありますか。

必要とは思いません。厳しさそのものが目的になると、ただ苦しいだけです。

私が持ち帰ったのは厳しさではなく、分かったと思った時点を疑う習慣のほうでした。

出典

  • 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第五章「結語」。本文335〜346ページ
  • 本書は教団機関誌『暁鐘』に昭和四十四年七・八月号から約九年にわたって連載されたものである、と同書が記している
  • 「言を見て察する」「流れを酌んで源を訪ぬるが如し」は、同書が道元禅師の言葉として引いているもの
  • 「行到水窮所 坐看雲起時」は、同書が結語の末尾に置いている一行。表記は同書のとおり
  • 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像で字句を確認した(本文335・344・345ページ)
  • 本文でお名前を記したのは道元禅師のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
  • 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
  • 同章には、当時の禅界や特定宗派に対する批判が含まれるが、本記事では扱っていない。本記事は特定の宗派を評価するものではない

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この記事を書いた人

Takuomi Mochidaのアバター Takuomi Mochida 株式会社ベンチャーネット代表取締役

株式会社ベンチャーネット 代表取締役
2005年に株式会社ベンチャーネットを設立後、SEOをはじめとするデジタルマーケティング領域のコンサルティングサービスを展開
広告・SNS・ウェブ・MA・SFAと一気通貫で支援を行っています
著書に『普通のサラリーマンでもすごいチームと始められる レバレッジ起業 「バーチャル社員」があなたを救う』(KADOKAWA、2020年)

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