この記事でわかること
- 一本の杖の元をたどると、誰にも特定できなくなるという話
- 「ここにあるけれど、ないとも言える」と「因果無人」の意味
- 元をたどらずにいると「俺中心主義」になりやすい理由
前回は、人の目の話を書きました。人がどう思うかより先に、自分を見る、という話です。
では、その「自分」が持っているもの、自分のものと思っているものは、どこから来たのか。
以前、悪い因果は背負い、いい因果は分け合う、という老師の話を書きました。同じ日の坐禅会で、老師はその少し前に、一本の杖を手に取って話していました。元をたどっていくと、分からなくなる、という話です。
「一体どこに生えたのか。わからないよね」
その杖は、老師に頼まれて職人の方が作ったものです。八か月ほどかけて作ってくれた、と老師は話しています。
立派なものですね、で終わる話です。けれども老師は、そこから問いを立てます。一体これは、どこから来たのか。職人の方は、材料の木を問屋から買った。問屋は、その木を別のところから仕入れた。老師は、こう続けます。
……製材所から。製材所の木は……一体どこに生えたのか。わからないよね。
その木を特定することはほとんど不可能ですよね。
どこかの山の中なのか。それも分からない。老師は、こうも言っています。
ある時鳥が種をポンと落として、そこで木が生えてきて、それが大きくなってこれになったのかもしれない。
たどっていくと、分からなくなる。
目の前の一本の杖も、元をたどれば、どこで生えた木なのか、いつから生えていたのか、誰にも分からない。
図1 一本の杖を、たどっていく——職人、問屋、製材所。その先の木は、誰にも特定できない
「ここにあるんだけれども、ないと言えますよね」
そこから、老師はこう言います。
ということは、これはここにあるんだけれども、ないと言えますよね。普通の人はあるというこの姿しか見えないんだけども、これは一体どこから来たのかと。ちょうど自分がどこから来たのかと同じなんですよ。
ここにある。けれども、ないとも言える。
杖は、確かに目の前にあります。けれども、それが何から、どうやってここまで来たのかは、つかめない。つかめないものを「これだ」と固定して持っている、とは言いにくい。老師はそれを、自分がどこから来たのかと同じだ、と言っています。
杖だけではありません。
この鐘だってそうだしさ、このクッションだってそうだし、一体あることはあるんだけどさ、どこから来たんですかね。
坐禅会の部屋にある鐘も、クッションも、みな同じです。
「俺のものって言ってるんだけど、誰のものかわかんない」
老師は、この杖が自分の手元にあることについて、こう話しています。
だから、これここにあって、しかも僕のものとしてここにあるということは、結局……私の無限の過去の因果の結果として、たまたま今これが僕の手元にあると。
俺が、俺って、俺のものって言ってるんだけど、誰のものかわかんないね。
そして、禅の言葉を一つ挙げています。因果無人(いんがむにん)。老師の言い方では、「因果のみあって、人はない」ということです。物事は、原因と結果の連なりとしてある。そこに「誰々のもの」と固定した持ち主がいるわけではない、という意味です。
老師は、これを自分の杖だけの話にしていません。
だからね、すべてのものは僕だけじゃないです。皆さん方、一人一人の……ここにあるということも含めて……全部因果の結果だけなんですよ。
「空気。誰も作ってないよね」
話の終わりに、老師はもっと身近な例を挙げています。
だってさ、空気。誰も作ってないよね。空気がここにあるんですよ。水があるんですよ。当たり前。水道水出てくる。
当たり前にあるものほど、元をたどらない。
老師は、元をたどらずにいると、何でも俺が偉いんだという「俺中心主義」になってしまう、とも言っています。
図2 「自分のもの」の、二つの見え方——たどらなければ俺中心、たどれば因果の連なり
私の場合——道具・システムと、たまにたどること
仕事の中で「あって当たり前」と思っているもののうち、元をたどると多くの人の手や縁を経ているもの。私にとっていちばん近いのは、使っている道具・システムです。
「自分のもの」だと思っているものの元をたどってみることも、たまにあります。
老師の杖の話に当てはめると、毎日使っている道具やシステムも、誰かが作り、誰かが手を入れ、その先はたどりきれません。私はそう読みました。
経営に置き換えると
経営者の手元には、「自社のもの」がたくさんあります。道具、仕組み、設備、そして人とのつながり。
どれも、自分のものだと言えます。けれども老師の話を借りれば、それは多くの手と因果を経て、たまたま今ここにあるものでもあります。
元をたどらずにいると、あることが当たり前になり、自分の力でそうなっていると思いやすくなる。老師の言う俺中心主義です。ときどき元をたどってみる。それだけで、手元にあるものの見え方が変わるのだと私は考えます。
「物を大切にしなくていい」という話ではありません
誤解されやすいところが、二つあります。
一つ目。物は「ない」のだから、大切にしなくていい、という話ではありません。老師は、職人の方が長い時間をかけて杖を作ってくれたことを、大変なことだと話しています。ないとも言えることと、軽く扱うことは別です。
二つ目。「誰のものでもない」のだから、自分に責任はない、という話でもありません。老師は同じ日に、自分の手元に来たものは自分の因果として受け止めるしかない、とも話しています。持ち主が固定していないことと、引き受けないことは別です。
まとめ——ときどき、元をたどる
- 一本の杖も、たどれば元は分からない。どこに生えた木なのか、誰にも特定できない
- ここにあるけれど、ないとも言える。自分がどこから来たのかと同じ
- 因果のみあって、人はない。当たり前にあるものほど、ときどき元をたどってみる
心を高める、経営を伸ばす。手元にあるものの元をたどることは、心の側の話であり、経営の側の話でもあると、この言葉を読み直して思いました。
静かになったあとに落ちやすい、もう一つの穴とは何か。次回は、坐禅会の録音を離れて、『禅の正門』に戻ります。
明日、一つだけやってみる
毎日使っている道具やシステムを一つ選んでみてください。誰が作り、誰が手を入れてきたのか、その元をたどってください。
よくある質問
Q. 「因果無人」とは、どういう意味ですか。
老師の言い方では、「因果のみあって、人はない」ということです。物事は原因と結果の連なりとしてあり、そこに固定した持ち主がいるわけではない、という見方です。
Q. 「ここにあるけれど、ないとも言える」とは、物が存在しないという意味ですか。
杖は、目の前に確かにあります。老師が言っているのは、それがどこから来たのかをつかみきれないということです。つかめないものを「これだ」と固定することはできない、という意味だと私は読みました。
Q. 宗教的な話として受け取るべきですか。
老師は禅の言葉としてこの話をしていますが、この記事が借りたのは、手元にあるものの元を、ときどきたどるという見方です。用語を外しても、見方は残ります。
出典
- 坐禅会(2017年3月)の録音記録。「製材所の木は……一体どこに生えたのか。わからないよね」「その木を特定することはほとんど不可能ですよね」「ある時鳥が種をポンと落として……これになったのかもしれない」「これはここにあるんだけれども、ないと言えますよね……ちょうど自分がどこから来たのかと同じなんですよ」「この鐘だってそうだしさ、このクッションだってそうだし……どこから来たんですかね」は老師の発言(録音の33:33〜35:50前後)
- 同じ録音の「これここにあって、しかも僕のものとしてここにあるということは……たまたま今これが僕の手元にあると」「俺のものって言ってるんだけど、誰のものかわかんないね」「すべてのものは僕だけじゃないです……全部因果の結果だけなんですよ」「空気。誰も作ってないよね……水道水出てくる」は老師の発言(37:03〜45:30前後)
- 話者と、手に取っていた物(杖)は、会に出席していた筆者が確認した(2026年9月)
- 杖を職人の方が八か月ほどかけて作ったこと、材料の木を問屋から買ったこと、「俺中心主義」、自分の手元に来たものは自分の因果として受け止めるしかないこと、職人の方の仕事を大変なことだと話したことは、老師の発言(32:17〜33:54、39:09、44:51〜45:08前後)を筆者が要約したもの
- 「因果無人」の説明は、老師の「因果のみあって人はない」をもとにした筆者の補足です
- 引用は録音の文字起こしから。言いよどみや、意味が取れない部分は「……」で省いた
- 使っている道具・システム、たまにたどる、という記述は筆者自身のものです
- 本文中に坐禅会の関係者・老師・職人の方のお名前は記載していません。杖の由来のうち、老師の師にかかわる部分は記載していません
- 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません
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