この記事でわかること
- 坐禅の合間に歩く「経行」が、休憩ではなく稽古である理由
- 「随所に主となる」——環境に主語を渡さないという意味
- 現場で平静を失うのは、気の持ち方より「接点」の問題という見方
前回は、理致・機関・向上という段階の話を読みました。理屈が効く風と、効かない風がある、という話でした。
今回から、同じ書籍の第四章に入ります。坐禅の実行——具体的な作法の章です。
最初に読むのは経行(きんひん)。坐禅の合間に、立って歩く時間のことです。休憩ではありません。静中から動中へ移るための稽古で、書物はこれを接点と呼びます。
では、静かな場所で整えた心は、現場へ持ち出せるのか。
経行は、ただの運動ではない
長めに坐るときは、時間を三つに切って進めます。坐る時間、歩く時間、休む時間。歩く時間が経行です。
では、なぜ歩くのか。体をほぐすためなのか。書物は、そこを先に否定します。
経行というのは、止静のあと、立って静かに歩くことであって、これを先には運動と言ったが、
先に「運動」と呼んだものを、ここで言い直します。
単なる運動が目的ではなく、動的禅(動中の工夫)の練習が主たる目的である。
動中の工夫——動きながらの修行、という意味です。
歩きながらも、坐っているときと同じことを続けます。呼吸を数える方法をとっている人なら、歩きながら数を続ける。切らないというのが要点です。
休憩ではありません。種類の違う稽古が、そこに入っています。
「随所に主となれば立所皆真なり」
なぜ、この時間が大切なのか。
坐禅には三つの目的があり、書物は、その一つである定力の練磨——心を定める力を養うこと——のためだと言います。そして定力とは何かを、こう言い換えます。
定力の練磨というのは「随処に主となる」ことのできる心の力を養うことである。
出どころは、臨済禅師の言葉です。
随所に主となれば立所皆真なり
どんな環境にいても、環境に支配されない。逆に自分が環境の主人公になって、これを扱っていく。それが「随所に主となる」ことだと書物は説明しています。
環境の側に主語を渡さない、ということです。
図1 経行は「接点」である——静中と動中のあいだに置かれた稽古
静かな所では、誰でも落ち着く
この節でいちばん強いのは、次の一節です。
誰でも静かな所では心の落着きも得易いのであるが、一度紅塵万丈の中に巻きこまれると忽ち精神の平静を失い、
紅塵万丈——舞い上がる埃のこと。人ごみ、雑事、騒がしい現場のたとえです。続きはこうです。
環境に振り回されて正しい判断も適切な対処もできなくなる。
そして、この一行が置かれます。
これでは人生の戦場において物の役に相立たないのである。
物の役に相立たない。静かな場所で整っただけでは役に立たない、と言い切っています。
厳しい言い方ですが、筋は通っています。整うこと自体が目的なら、静かな場所で整えば足りる。現場で判断するためなら、現場で崩れたら意味がない。
だから、接点に稽古を置く
静中だけでは足りない。だから事上練磨——ものごとの上で練り磨くこと、つまり動きながらの修行が必要になる、と書物は続けます。
そのうえで、経行の位置づけが示されます。
経行は静中の工夫から動中の工夫に移行する接点に当たるものであるから、
だから歩き方にも注意がつきます。
ただブラブラと散歩でもするようなことではなく、しっかりと心を引き締めて歩行を続けなければならない。
古人の言葉も引かれています。
動中の工夫は静中に勝ること百千億倍
静かに坐るより、動きながらのほうが百千億倍まさる。接点はおまけではないということです。
作法も具体的でした。右手の親指を握って胸に軽くつけ、その上に左手を重ねる。両腕を一文字にする。背骨を真っすぐにし、頭が前にかがんだり後ろにそり返ったりしないよう注意する。自分の爪先よりおよそ二メートルさきに視線を落として、静かに歩く。
速さは宗派によって違い、臨済宗では駈け足をすることもあると書かれています。老師の禅堂では、二、三秒間に一歩くらいを勧めていました。
副産物もあるそうです。足の痛いのも治り、眠気さましにもなる。
区切りは持っている。接点がない
自分の集中が続く時間を、私はだいたい把握しています。三十分を四セットが限界、という感覚です。
区切りは持っているわけです。書物の言い方なら、止静の長さを決めているということになります。
では、一日のなかで頭が切り替わる瞬間はどこか。自分に聞いてみると、答えは一つでした。
坐禅の後。
ここで手が止まりました。区切りは四つあるのに、切り替わりは一つしかない。
セットとセットのあいだに、私は何も置いていませんでした。次の作業に移るだけです。書物の言い方を借りれば、止静はあるが、経行がないということになります。
図2 主語がどちらにあるか——随所に主となるとは、環境に主語を渡さないこと
想定が崩れたとき
もう一つ、自分に聞いたことがあります。現場で平静を失うのはどういう場面か。
これははっきりしていました。想定が崩れたときです。
並べてみると、書物の記述にそのまま重なりました。想定が崩れて平静を失うというのは、環境に振り回されている状態です。書物が「随所に主となる」の反対として挙げていたのが、まさにそれでした。
しかも私は、これを気の持ち方の問題として扱ってきました。落ち着こう、冷静に見よう、と。
書物は、そうは書いていません。接点に稽古を置けと書いてあります。静中と動中のあいだに、移行のための時間をつくる。経行がそれです。
気合いの話ではなく、置き方の話でした。
まとめ——整えることと、持ち出すこと
- 静かな所では、誰でも落ち着く。そこで整ったことは、現場での落ち着きを証明しません
- 経行は接点である。静中から動中へ移るための稽古で、休憩でもおまけでもありません
- 平静を失うのは、気の持ち方の問題ではない。接点が置かれていない、という見方があります
心を高める、経営を伸ばす。
高めた心は、持ち出せなければ現場では働きません。持ち出すための時間をどこに置くか——そういう読み方をしました。
次回は、同じ書籍の付録に入ります。付録一は、一人の在家の修行者が師に送った手紙と、師が付けた評語の記録です。
明日、一つだけやってみる
集中して働くひと区切りと次の区切りのあいだに、切り替えの時間を一つ置いてみてください。歩くことでなくてもよく、切り替えを偶然に任せないことが要点です。
よくある質問
Q. 経営者が歩行禅をやる必要があるのですか。
書物は修行の作法として書いています。私が読み取ったのは、その手前の構造でした。
静中と動中のあいだに何かを置くという考え方です。歩くことでなくてもかまいません。要点は、切り替えを偶然に任せないことだと受け取りました。
Q. 「想定が崩れると平静を失う」のは、当たり前ではないですか。
当たり前です。書物もそれを前提にしています。
分かれ目は、そのあとです。気合いで直そうとするか、置き方を変えるか。私は長く前者をやっていました。
Q. 三十分を四セットで足りないなら、セットを増やせばよいのでは。
書物はその方向を勧めていません。長く坐れば坐るほどよいというものではない、と書かれています。
増やすより、あいだに何を置くかの話でした。私にとってはこちらが宿題です。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第四章「坐禅の実行」のうち「七、経行」。本文318〜321ページ
- 「経行というのは、止静のあと、立って静かに歩くことであって、これを先には運動と言ったが、単なる運動が目的ではなく、動的禅(動中の工夫)の練習が主たる目的である」「定力の練磨というのは『随処に主となる』ことのできる心の力を養うことである」「誰でも静かな所では心の落着きも得易いのであるが、一度紅塵万丈の中に巻きこまれると忽ち精神の平静を失い、環境に振り回されて正しい判断も適切な対処もできなくなる」「これでは人生の戦場において物の役に相立たないのである」「経行は静中の工夫から動中の工夫に移行する接点に当たるものであるから、ただブラブラと散歩でもするようなことではなく、しっかりと心を引き締めて歩行を続けなければならない」は、同書の記述
- 「随所に主となれば立所皆真なり」は、同書が臨済禅師の言葉として引用しているもの
- 「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍」は、同書が古人の言葉として引用しているもの
- 同書は「随処に主となる」と「随所に主となれば立所皆真なり」で表記が異なります。本記事は同書の表記のまま引用しています
- 手の組み方・視線・歩く速さ・副産物(足の痛みと眠気)の記述は、すべて同書によるもの
- 曹洞宗の歩き方の呼び名は、本記事では書いていません。スキャン原本で字が判読しきれなかったため、歩き方の内容のみを書きました
- 引用はすべて、同書のスキャン原本を400dpiで展開して字句を確認した(本文318〜321ページ)
- 「三十分を四セットが限界」「頭が切り替わるのは坐禅の後」「平静を失うのは想定が崩れたとき」は、筆者自身の実感です。顧客名・案件名は記載していません
- 本記事は特定の宗教/宗派を評価するものではありません。記述はすべて同書に書かれている内容です
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