この記事でわかること
- 足りないのではなく、持っていることに気づいていない話
- 正しいことを一度に渡すと、受け取ってもらえない理由
- 気づくことと、受け取れるようになることの違い
前回は、光をどちらに向けるかという話を書きました。外へ向けるか、内へ向けるか。同じ「探す」でも、向きが逆でした。
向きの話のあとに、もうひとつ具体的な話が出てきます。
外に探しに出た人は、そのあとどうなるのか。
『禅の正門』第一章第二節の中ほどに、その筋書きが一つ置かれています。本が別の講話から借りてきた、法華経の譬え話です。
読んでみて、これは救いの説明であると同時に、渡し方の説明だと思いました。持っていないのではなく、持っていることに気づいていない。そして、正しいことを一度に渡しても、受け取ってもらえない。
では、譬えの親は、どうやって渡したのか。
家を出た子どもの話
本が引いているのは、法華経にある話です。本に引かれた解説では、「比喩品」にあるたとえ話とされています。
ある大富豪に、子どもがただ一人いました。富豪は、その子を杖とも柱とも頼んで、大切に育てていました。
ところが子どもは、親の心も知らずに家を抜け出してしまいます。
親のほうは半狂乱で、金に飽かせて世界中を探しますが、見つかりません。子どものほうは、自分が長者のただ一人の子であることを忘れて、諸国を流浪して歩いていました。
そして流浪の果てに、我が家とも知らずに、我が家へ残飯をもらいに入って来るのです。
親は一目で我が子と分かり、喜んで番頭を走らせます。
ここで話が動きます。子どもは逃げ出します。
盗人と誤解されて捕まえられるのだと思ったからです。
図1 家を出てから相続するまで——途中に「逃げる」が一度入る
要するに、大金持ちだった
本は、この譬えの結びを、こう置いています。
「要するに、我々は本来世界一の大金持の主人公でありながら、」——それを知らずに、貧しく暮らす夢を見て悩み苦しんでいるようなものだ、と。
さらに、こう続きます。
「本来、完全無欠の仏様の所有者である、否、仏様それ自体でありながら、」
「ただただ自我の迷執のためにその仏様が光らない」
迷執とは、思い込みにとらわれて離れないことをいいます。
持っていないのではない。持っていることに気づいていない。話の骨はここです。
見落としやすいのは、長者のやり方のほう
私がこの譬えで引っかかったのは、子どもの側ではありませんでした。親の側のやり方です。
親は、逃げ出した子を追いかけて捕まえませんでした。
真実を聞く耳がまだないのを見て、番頭を退けます。そして代わりに掃除人夫を行かせて、お前もあの家の掃除夫にならないかと勧めさせるのです。
子どもは、それなら、と引き受けます。そこから職を進め、階級を進めて、やがて大番頭になり、最後に家を相続します。
いきなり「お前は私の子だ」と言わなかった。
言えば一言で済む話です。事実としては、最初から正しい。それでも親は言いませんでした。
正しいことを一度に渡すと、受け取ってもらえない。そう読みました。
図2 一度に渡すか、段を踏むか——譬えの中で親が選んだのは後者だった
「新しい仕組みを入れたい」と言われたとき
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。
「新しい仕組みを入れたい」という相談を受けることがあります。話を聞いていくと、いま使っている仕組みに、その機能がすでに入っているということが少なくありません。
入っているのに、使われていない。存在が知られていない。あるいは、一度使って諦めたまま忘れられている。
これは珍しいことではないと思います。道具は、買った時点がいちばん中身を知っている時期で、あとは知らないまま年数が過ぎていきます。
だから私は、入れ替えの話の前に、棚卸しをお願いするようにしています。
もうひとつ、譬えのほうから学んだことがあります。棚卸しの結果を、一度に全部お見せしないことです。
以前の私は、調べた結果をそのまま出していました。使われていない機能が並んだ一覧です。事実としては正しい。
ところが、これはあまりうまくいきませんでした。受け取る側からすると、できていないことの一覧だからです。
いまは、いちばん手前の一つから渡すようにしています。今の担当の方が、今の権限で、今週動かせるもの。それが回ってから、次を出します。
長者が掃除夫から始めたのは、そういうことだったのだと思います。
「今あるもので足りる」という話ではない
ここは読み違えやすいところだと思いました。
この譬えは、何もしなくてよいとは言っていません。子どもは掃除夫から大番頭まで、実際に働いています。
本の言い方でも、相続に至るのは、段階を経て信解し、悟入したあとです。気づくことと、受け取れるようになることは別でした。
だから経営の側に持ってくるなら、こうなります。探しに出るのをやめる話ではなく、探しに出る前に一度、家の中を見る話です。
見たうえで足りなければ、外に出ればよい。順番の問題です。
まとめ——先に棚卸し、それから一段ずつ
- 持っていないのではなく、持っていることに気づいていない。譬えの子どもは、我が家と知らずに我が家へ来ています
- 正しいことを一度に渡すと、受け取ってもらえない。親は名乗らず、掃除夫から始めました
- 気づくことと、受け取れるようになることは別。だから段階がありました
心を高める、経営を伸ばす。高めるほうは、一足飛びには進まないのだと、この譬えからも読みました。渡す側にも、待つ側の仕事があります。
では、外に探しに出れば、埋まるのか。次回は、同じ本の第一章のいちばん最初に戻って、その話を読みます。
明日、一つだけやってみる
いま使っている仕組みで、使っていない機能を一つ洗い出してみてください。社内に渡すのは、そのうちいちばん手前の一つだけにしてください。
よくある質問
Q. 棚卸しは、どこから始めればよいですか。
私は、いま使っている仕組みで「使っていない機能」を洗い出すところから始めています。導入時の資料が残っていれば、それがいちばん早い手がかりです。
ただ、洗い出した一覧を全部配るのはおすすめしません。渡すのは、いちばん手前の一つからです。
Q. 段階を踏むと、時間がかかりませんか。
かかります。一度に渡すほうが、こちらは早く終わる。
ただ、受け取ってもらえなければ、結局やり直しになります。譬えの中で親が番頭を走らせたときも、子どもは逃げました。早いのと、届くのは別でした。
Q. この譬えは、社員教育の話として読んでよいのでしょうか。
本はそういう読み方はしていません。あくまで仏道による人間救済の原理の説明です。
ただ、すでにある力に本人が気づいていないという見方と、段階を踏んで渡すという手順は、私の仕事のほうでも役に立ちました。借りているのは構図であって、本の主張そのものではありません。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第一章第二節「禅(正しくは禅道仏法=仏道)による人間救済の原理」。本文28〜30ページ
- 「長者窮子」の譬えを、同書はある老師の別の著書の解説から引用して紹介している。「法華経比喩品にあるたとえ話」という記述も、その引用文による(本文28ページ・スキャン原本で確認)。本記事の要約は、同書に引かれた形に基づく
- 譬えの各場面に付された括弧内の対応(妄我の第一歩/転倒妄想/声聞縁覚/大法相続など)は、すべて同書の記載どおり
- 「要するに、我々は本来世界一の大金持の主人公でありながら……」以下は本文30ページ
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像(400dpi)で字句を確認した(本文28・29・30ページ)
- 本文中に人名は記していません。坐禅会の関係者のお名前も記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
- 本記事は特定の宗教を評価するものではありません。譬えの紹介はすべて同書の記述に基づきます
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