この記事でわかること
- 地図を持っていることと、行ったことがあることの違い
- 分かれ目は「あの角に何があるか」を事実として言えるかどうか
- 首から上だけで語らないための、自分の分野の分け方
前回は、自分の範囲は五尺の体ではない、という老師の話を書きました。社員とその家族までが「自分」の範囲に入っている、という話です。
読んで「なるほど」と思った方もいるかもしれません。では、そう思ったとき、私たちはそれを知ったのでしょうか。それとも、そこへ行ったのでしょうか。
以前、読んで分かることとやって分かることの違いを、本に書かれた五つの段階から書きました。今回は録音から、もっと身近な例を借ります。坐禅会で老師が、ニューヨークを例に話していたのです。
「ニューヨークの地図は俺知ってるから」
この例は、頭で信じていることと、実際にそう行動できることは別だ、という話の流れで出てきました。老師はこう話しています。
例えばニューヨークの映画とか写真見て、ニューヨークはこうですって言って、それで満足して、それっきり行くっていうことをしないで、それで満足するかどうか。
ニューヨークの地図は俺知ってるからニューヨーク行く必要ねえと。こういうこと同じですよね。
映画や写真を見れば、ニューヨークのことは分かります。ガイドブックを読めば、知識はいくらでも増えます。老師は、こうも言っています。
五番街はこうだとこう言えるんだけども、行ったことねえからさ。
五番街は、ニューヨークの有名な大通りです。地図を持っていれば、その通りのことは説明できます。けれども、行ったことはない。
「ところが言えない」
では、行ったことのある人と、地図だけの人は、どこで分かれるのか。老師の答えは具体的でした。
行ったことのある人は、あの角にとてもいいフランス料理の店がある、もう一度行きたい、と言える。老師はそう例を挙げたうえで、地図だけの人について、こう続けます。
ところが言えない。あなたが頭で描いたニューヨークの地図だけを言う。
ニューヨークの気候とか温度とか、その時の雰囲気だとか、風とか……そういうのは全然。
気候、温度、雰囲気、風。どれも地図には載っていません。行った人だけが持って帰ってくるものです。
図1 地図で言えること、行った人だけが言えること——分かれ目は、細部を事実として言えるかどうか
「観念に過ぎない」
同じ回の少しあとで、老師はこの例にもう一度戻っています。
だから、先ほどのニューヨークのあのコーナーにはものすごいうまいフランスレストランがあると、この事実が問題ですよね。ニューヨーク全体のことを言ったってしょうがないんだよね。
それも全体も必要なんだけどね。あそこには何があって、ここをちゃんと言えなきゃいけない。それが言えなくて、概念的に頭で描いた地図で喋ってる分には観念に過ぎない。
観念とは、ここでは、頭の中で組み立てた考えのことです。
見落とせないのは、老師が「全体も必要なんだけどね」と添えていることです。地図を捨てろ、とは言っていません。ただ、地図で喋っているあいだは、それは観念だ、と言っています。
「首から上だけで」
この話は、経営者にそのまま届きます。同じ回の終わりに、世話人の方が、稲盛さんの「心を高める、経営を伸ばす」の意味を、こう説明していました。
屁理屈だけ理屈だけじゃダメだよということですよね。
ただ本だけ読んで知識として稲盛フィロソフィーをいくら頭の中に入れても、それが自分の体の一部、心の一部にならないと、首から上だけで一生懸命……
社員に向かって、覚えた言葉をいくら語っても、自分が黙ってでもそう行動できるようにならないと、説得力がない。世話人の方は、そう続けています。
首から上だけで語る。それは、地図だけでニューヨークを語るのと同じ形をしています。
私の場合——資金調達と、会社経営
私が「地図は持っているが、行ったことはない」と感じる分野を一つ挙げると、資金調達です。
逆に「行ったことがある」と言い切れる分野は、起業と会社経営です。
老師の物差しに当てはめると、この二つを分けているのは、知識の量ではありません。あの角に何があるかを、自分の言葉で言えるかどうかです。私はそう読みました。
図2 自分の分野を、二つに分けてみる——地図の分野と、行ったことのある分野
経営に置き換えると
経営者は、たくさんの地図を持っています。本、セミナー、他社の事例。どれも役に立つ地図です。
私が気をつけたいと思うのは、地図を持っていることと、行ったことがあることを、自分の中で混ぜてしまうことです。
地図の分野で判断するときは、それが地図だと知っておく。行ったことのある人の話を聞くか、自分で行ってみる。老師の話を借りれば、まず、どちらの分野なのかを自分で分けておくことが、学び方の出発点になるのだと私は考えます。
「知識は要らない」という話ではありません
この話には、誤解されやすい点が二つあります。
一つ目。知識は要らない、本は読むな、という話ではありません。老師は「全体も必要なんだけどね」と言っています。地図は、行くためにも役に立ちます。
二つ目。行ったことのない分野について、口を閉じろ、という話でもありません。問題にしているのは、地図で語っていることに気づかないまま、行ったつもりで語ることです。地図だと分かって語るなら、それは誠実な語り方だと私は読みました。
まとめ——地図と、行ったこと
- 地図を持っていることと、行ったことがあることは違う。地図があれば、全体は説明できる
- 分かれ目は、あの角に何があるかを言えるかどうか。言えないまま語れば、観念に過ぎない
- 首から上だけで語らない。まず、自分の分野を地図の分野と行った分野に分けてみる
心を高める、経営を伸ばす。地図と、行ったことを分けて学ぶことは、心の側の話であり、経営の側の話でもあると、この言葉を読み直して思いました。
老師は、修行に終わりはない、と言います。終わりがないとは、どういうことなのか。次回は、次の玉手箱の話です。
明日、一つだけやってみる
判断にかかわる分野を、地図だけの分野と、行ったことのある分野に分けて書き出してみてください。分かれ目は、あの角に何があるかを自分の言葉で言えるかどうかです。
よくある質問
Q. 行ったことがあるかどうかは、どう見分けますか。
老師の例では、あの角にいい店がある、と言えるかどうかです。全体の説明ではなく、細部を事実として言えるか。それが分かれ目だと私は読みました。
Q. 坐禅でなければ、身につかないのですか。
世話人の方は、坐禅を心を高める方法の一つとして紹介しつつ、これだけが唯一無二で、これ以外はダメだというのではない、と話しています。
Q. 宗教的な話として受け取るべきですか。
坐禅会で悟りの体験について話す中で出てきた例ですが、この記事が借りたのは、知っていることと、行ったことがあることを分けるという見方です。用語を外しても、見方は残ります。
出典
- 坐禅会(2016年3月)の録音記録。「例えばニューヨークの映画とか写真見て……」「ニューヨークの地図は俺知ってるからニューヨーク行く必要ねえと」「五番街はこうだとこう言えるんだけども、行ったことねえからさ」「ところが言えない。あなたが頭で描いたニューヨークの地図だけを言う」「ニューヨークの気候とか温度とか……」は老師の発言(録音の15:22〜16:30前後)
- 同じ録音の「先ほどのニューヨークのあのコーナーには……」「それも全体も必要なんだけどね……観念に過ぎない」は老師の発言(20:15〜20:40前後)。書籍の朗読のあとの、老師自身の説明の部分
- 同じ録音の「屁理屈だけ理屈だけじゃダメだよ」「ただ本だけ読んで知識として……首から上だけで一生懸命」「これだけ唯一無二で、これ以外はダメだっていうんじゃない」は世話人の方の発言(51:58〜54:16前後)。稲盛さんの言葉の逐語ではなく、坐禅会での世話人の方の説明として引いた
- 話者はいずれも、会に出席していた筆者が確認した(2026年9月)
- 「あの角にとてもいいフランス料理の店がある、もう一度行きたい」は、老師が挙げた例を筆者が要約したもの(16:02前後)
- 引用は録音の文字起こしから。言いよどみや、意味が取れない部分は「……」で省いた。「上手い」は「うまい」と表記した
- 「五番街」「観念」の説明は、筆者の補足です
- 資金調達、起業・会社経営、という記述は筆者自身のものです
- 本文中に坐禅会の関係者・老師・世話人の方のお名前は記載していません
- 本記事は坐禅会の録音のみを素材としており、朗読された書籍の本文は引用していません
- 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません
関連記事
- 自分の範囲は、五尺の体ではない——社員と、その家族までが「自分」になる
- 学ぶなら、現役のうち——「リタイアした後に」を、待たない
- 読んで分かることと、やって分かること——輪読という学び方の、効きどころ
