この記事でわかること
- 信・解・行・証・入の五段階と、読むことが届く範囲
- 理解より先に「信」がある、という学びの順番
- 社内の読み合わせを定着させる、順番の変え方
前回は、この坐禅会がどうやって始まったかを書きました。経営者たちが自分たちで会をつくり、その必要が一冊の本を再版させた、という話です。
その会は、坐禅のあとに本を輪読しています。一冊を、参加者が順番に声に出して読んでいく。
けれども輪読は、万能ではありません。届く範囲がはっきり決まっていて、その範囲は本の中にきちんと書かれていました。
では、読むことはどこまで届くのか。
読み上げても、分からない
『禅の正門』は、在家の人が読むための入門書として書かれた本です。そう本人が書いています。
それでも、硬い。
録音を聞くと、本文を読み上げたあとで、参加者から率直な声が出ています。いま読んだところは難しい、という趣旨の発言です。著者が旧制の帝国大学を出た人だから仕方がない、という軽口まで出てきます。
そして、もう少しやさしく言い直してほしい、という要望が続きます。
私はこのやりとりが好きです。
声に出して読んだのに、分からなかった。それを隠さずに言える場だと分かるからです。
この場面で、要旨が一言に縮められます。あれは要するに、理屈を言わないで坐れ、と言っているのだ——。
長い時間をかけて読んだ本文が、一言になりました。
この一言も、録音では誰の発言か確定できません。同じ回の別の箇所では、老師がこの要約を参加者の言葉として引き直しています。会の中で共有されている言い方だと考えるのが自然です。
本には、五つの段階が書いてある
では、読んで分からないものを、どう学ぶのか。
その答えが、同じ本の第三章に書かれています。信・解・行・証・入という五段階です。
本の定義を、そのまま引きます。
- 「信とは言うまでもなく確信」
- 「解とは知的理解」
- 「行とは実地の修行」
- 「証とは体験的に悟ること」
- 「入とは入我我入で、悟りが血となり肉となること、すなわち人格化すること、生活化することである」
五つの段階が、はっきり分かれています。
ちなみにこの五段階は、著者の創作ではありません。師にあたる原田祖岳老師の『参禅の秘訣』にある説明を、要点をとって紹介したものだと本人が断っています。
そして本は、こう続けます。
「禅とはこの信・解・行・証・入が一貫し円融している道でなければならない」
これで、輪読の位置が見えてきます。
輪読が担当できるのは、五段階のうち二番目の「解」だけです。知的に理解する段階です。
信は、その手前にあります。まずそうだと信じなければ、理解しようという気も起きません。
行・証・入は、ずっと先です。実際にやってみて、体で分かって、それが生活になる。本を読んでいるだけでは、そこには届きません。
手前にある「信」のほうが、実は難しい
五段階のうち、私がいちばん考えさせられたのは一つ目の「信」です。
順番が意外だからです。
学びというと、まず理解して、納得できたら信じる、という順序を思い浮かべます。理解が先で、信用は後。
ところが本の順番は逆で、信が先、解が後になっています。
これは、考えてみれば当たり前のことでした。
そもそも、そこに何かがあると思っていなければ、人は掘りません。理解しようという気力が湧かないからです。
坐禅で言えば、坐って何かが変わると思えない人は、本文を読んでも頭に入りません。文字を目で追うだけになります。
仕事でも同じです。
その仕組みを入れる意味があると思っていない人に、いくら丁寧な説明資料を配っても届きません。読んでいないのではなく、読んでも入らない。
研修がうまくいかないとき、私たちはつい資料の出来を疑います。けれども止まっているのは、一つ手前かもしれません。
図1 五段階のうち、輪読が届くのは一つだけ——信解行証入と、本の役割
だから、両輪なのだ
本は、この話をもう一歩進めます。
「坐禅修行のためには、参師聞法と功夫坐禅が車の両輪である」
参師聞法とは、師について教えを聞くこと。功夫坐禅とは、自分で坐ることです。
道元禅師の言葉を引いて、どちらか一方を捨ててはならない、という趣旨のことが書かれています。
輪読は、この両輪の片方です。片方だけでは前に進みません。
逆も同じです。坐るだけで本を読まなければ、自分が何をやっているのか分からないまま時間が過ぎます。
この会の形は、そのまま両輪になっています。先に一時間半坐り、そのあとで本を読む。順番も理にかなっています。
先に体を通しているから、本文の言葉が引っかかる場所ができている。何も坐らずに読めば、ただの難しい文章です。
砂糖の味は、説明できない
同じ日の録音に、こんなたとえが出てきます。
フォアグラを食べたことがない人に、フォアグラとはこういうもので、こういう味だ、と説明する。それは理屈である。食べてみなければ意味がない——。
砂糖の話も続きます。砂糖の甘さは、舐めてみれば誰にでも分かる。学問はまったく関係ない。赤ん坊でも母親でも、舐めれば同じように甘いと分かる——。
録音には話者の名前が残っていないため、この発言が誰のものかまでは確定できません。会の中で出た説明として書いています。
このたとえは、五段階の話とぴったり重なります。
説明は「解」です。舐めるのは「証」です。そのあいだには、言葉で埋められない距離があります。
ただし、説明が無駄だという話ではありません。
砂糖を舐めたことがない人に、舐めてみようと思わせるのは、説明の仕事です。
社内の読み合わせが、効かない理由
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。ERPと呼ばれる、会社の業務を一つの仕組みに載せる種類のものです。
この仕事では、資料を読み合わせる場面がよくあります。要件定義書、業務フロー、操作マニュアル。関係者が集まって、順番に読んでいく。
輪読とまったく同じ形です。
けれども、読み合わせただけでは定着しないことも、何度も見てきました。
理由は、五段階で説明がつきます。読み合わせが届くのは「解」までだからです。
「解」で止まった知識は、翌週には消えます。画面を触っていないからです。
だから私は、読み合わせのあとに必ず操作を入れます。一件でいいから、その場で自分の手で登録してもらう。
順番も、この会と同じにしています。先に触ってもらってから、説明する。触っていれば、説明の言葉が引っかかる場所ができています。
一件の登録には、十分もかかりません。それでも、読み合わせだけの会とは残り方がまるで違います。
よく見かけるのは、全部を説明し終えてから触ってもらう進め方です。丁寧に見えますが、順番が逆だと思います。
説明を聞いているあいだ、聞き手には引っかかる場所がない。だから、言葉がそのまま流れていきます。
もう一つ、この会から借りていることがあります。
分からないと言える空気です。
読み合わせの場で誰も質問しないとき、全員が理解していることは、まずありません。分からないと言いにくいだけです。
坐禅会では、本文を読んだ直後に「難しい」と口に出る。それが出るから、その場で言い直しが起きます。
図2 社内の学びも、同じところで止まる——順番を変えるだけで届く範囲が変わる
まとめ——読む係と、やる係を分けない
今回の話を、三つに絞ります。
- 輪読が届くのは「解」までである。本は、信・解・行・証・入という五段階を立てています。読むことで進むのは、そのうち一つだけです
- 読むことと、やることは車の両輪である。どちらか一方を捨ててはならない、と本は書いています
- 順番は、やってから読むほうが効く。先に体を通していれば、言葉が引っかかる場所ができています
社内の勉強会でも、研修でも、同じことが起きていると思います。
資料を配る係と、実際に手を動かす人が別々になった瞬間に、学びは「解」で止まります。
心を高める、経営を伸ばす。その「高める」も、聞いて分かるものではなく、やってみて分かる側に属しているのだと思います。
では、大勢で読む輪読とは逆に、一対一で向き合うと何が起きるのか。次回は、この本が一節を割いて説明している独参という仕組みの話です。
明日、一つだけやってみる
次の資料の読み合わせでは、説明の前に一件だけ、参加者に自分の手で操作してもらってください。読んだ直後には、分からないところを口に出せる時間も取ってみてください。
よくある質問
Q. 輪読は意味がないということですか。
そうではありません。本は、信・解・行・証・入の五つが一貫していなければならない、と書いています。「解」も五つのうちの一つです。
意味がないのではなく、そこで止めてはいけない、という話だと私は読みました。
Q. 難しい本を読む会は、どう運営すればいいですか。
この会の形が一つの答えだと思います。先に一時間半坐り、そのあとで本を読む。そして、分からなかったときに分からないと言える空気があります。
読み上げたあとで、誰かが要旨を一言に縮めることも効いていると感じます。
Q. 信・解・行・証・入は、禅だけの話ですか。
本自身が、そうではないと書いています。正しい宗教である限りこの五つを備えていなければならない、という趣旨です。
私は、仕事の学びにもそのまま当てはまると考えています。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第三章第七節「信解行証入」。五段階の定義と、参師聞法・功夫坐禅の記述はこの本文による
- 車の両輪の説明は、同書が道元禅師『学道用心集』第十を引いて述べているもの
- 坐禅会(2017年11月)の録音記録。輪読のやりとりとたとえ話はこの記録による
- 録音には話者の名前が残っていない。誰の発言か確定できない箇所は、発言者を特定せずに書いた
- 本文でお名前を記したのは、同書の著者、道元禅師、原田祖岳老師の三名のみです。会の関係者のお名前は記載していません
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