この記事でわかること
- 一日三十分より毎日五分——オールオアナッシングにしない続け方
- 続ける工夫は、長さより「置き場所」にあるという話
- 定着の目安を、回数ではなく「忘れ物」の感覚で測る意味
前回は、迷ったら、まず坐る、という老師の話を書きました。
同じ日に、老師はもう一つ勧めていました。
たとえ五分でも十分でもいいですから、毎日、あの、お座りになってから会社へいらっしゃるというふうにしていただきたいなというのが一つ。
五分でいい、という話は、この会で何度も出てきます。翌年の坐禅会では、会の世話人の方が、同じことを別の角度から話していました。続け方の話です。世話人の方の答えは、長さではなく置き場所でした。
では、五分をどこに置けばよいのか。
一日三十分より、毎日五分
世話人の方は、まずこう言います。
毎日5分でいいから毎日座る。1日30分座って1ヶ月座らないよりは5分でも何でもいいから継続する。
同じ日の別の箇所では、これを一言でまとめています。
オールオアナッシングじゃなくて
全部やるか、何もしないか。忙しい人ほど、この二択に追い込まれます。まとまった時間が取れないなら、やらない——。その考え方が、坐禅をする人の数を狭めていると、世話人の方は見ていました。
長さを削ってでも、途切れさせない。五分は妥協ではなく、続けるための入口の高さです。
図1 長く一回か、短く毎日か——世話人の方は、途切れないほうを取った
置き場所は、歯磨きの隣
では、どうすれば途切れないのか。世話人の方の答えは、時間の長さではなく、置き場所でした。
生活の朝の生活習慣っていうか、生活の中に入れ込んじゃって、やらないと何となく忘れ物したようになったら締めたもんで、朝歯磨いたりとか、顔洗ったりするでしょ。……五分時間がないとは言わせませんと。どんなに忙しくても。
「締めたもの」とは、しめたもの、つまりうまくいった証拠だ、という意味です。
歯を磨く。顔を洗う。朝食をとる。すでに毎朝やっていることの並びに、五分を差し込む。新しい時間を作るのではなく、もうある流れの隣に置く、という発想です。
図2 もうある流れの、隣に置く——定着の目安は、回数ではなく「忘れ物」の感覚
定着の目安は、回数ではなく「忘れ物」の感覚
この話でいちばん効いたのは、定着したかどうかの測り方でした。
何日続いたか、ではありません。やらないと、何となく忘れ物をしたような気がするか。
歯を磨き忘れたまま家を出ると、落ち着かない。あの感覚が五分の坐禅にも出てくれば、もう習慣の側に入っています。
数えるのをやめて、感覚で測る。続けることを、意志の問題から外す言い方だと私は読みました。
私の場合——朝に二つ置いている
私には、やらないと落ち着かない習慣が二つあります。坐禅と、日記・日報を書くことです。どちらも、朝に置いています。
以前書いたとおり、私の坐禅は朝五分を週に数回で、毎日ではありません。抜けた日は数えない、と決めています。
これは、世話人の方の「毎日」と食い違うように見えるかもしれません。ただ、私はこう整理しています。
置き場所を決めることと、抜けた日を責めないことは、両立する。
置き場所が決まっているから、抜けた朝には「忘れ物」の感覚が残る。その感覚は自分を責める材料ではなく、翌朝に戻るための合図として使えばいい。私はそう考えています。
仕事にも、同じ形があると思います。基幹システムの入力も、月末にまとめてやろうとすると重くなりがちです。毎日の業務の流れの隣に置いたほうが、続きやすい場面が多いように感じます。
伸ばすのは、あとから自然に
世話人の方は、長さについてはこう言っています。
継続していくうちに、自然に自分がもっと座りたくなる。5分が10分になる。
朝でも夜でもいい、自分の生活の中に組み込んでいけばいい、とも付け加えていました。
最初から長くしない。続けているうちに足りなくなったら、そのとき伸ばす。順番が逆にならないことが大事なのだと思います。
「五分で十分」という話ではありません
誤解されやすい点が、二つあります。
一つ目。五分は入口であって、到達点ではありません。世話人の方も、続けるうちに自然に十分になると言っています。
二つ目。「毎日できないなら意味がない」という話でもありません。それこそが、世話人の方の言うオールオアナッシングです。
まとめ——長さより、置き場所
- 一日三十分より、毎日五分。オールオアナッシングにしない
- 既存の習慣の隣に置く。歯を磨く、顔を洗う、その並びに差し込む
- 定着の目安は「忘れ物」の感覚。数えるより、やらないと落ち着かないかで測る
心を高める、経営を伸ばす。続ける工夫は、心の側でも経営の側でも、長さより置き場所から始まるのだと、この日の話を読み直して思いました。
次回は、坐禅会で語られた、ある比喩の話です。大きな波と、小さな波。
明日、一つだけやってみる
続けたいことを一つ選び、歯を磨く・顔を洗うなど、毎朝すでにやっていることの隣に五分だけ置いてみてください。抜けた日は失敗として数えず、翌朝また同じ場所に戻ります。
よくある質問
Q. 朝は時間がありません。夜ではだめですか。
世話人の方は、朝でも夜でもいい、と言っています。時間帯より、毎日やっていることの隣に置くことのほうが肝心です。
Q. 五分で、本当に意味がありますか。
効果を約束することは、この記事ではしません。ただ、坐禅会では「今日教わった坐禅を明日から五分ずつやって。それだけ」という言葉も出ています。始めるための長さとして五分が勧められている、ということは言えます。
Q. 抜けてしまった日は、どう考えればいいですか。
私の考えは、抜けた日を失敗として数えないことです。「忘れ物」の感覚が残っていれば、置き場所はまだ生きています。翌朝、同じ場所に戻ればいい、と私は考えています。
出典
- 坐禅会(2017年3月)の録音記録。冒頭の「たとえ五分でも十分でも……」は老師の発言(録音の03:51前後)
- 坐禅会(2018年5月)の録音記録。「毎日5分でいいから毎日座る……継続する」(11:23前後)、「オールオアナッシングじゃなくて」(17:06前後)、「生活の朝の生活習慣っていうか……どんなに忙しくても」(56:05〜56:33)、「継続していくうちに……5分が10分になる」(11:32前後)、朝でも夜でもよいという趣旨(57:00前後)は、会の世話人の方の発言
- 坐禅会(2017年10月)の録音記録。「今日教わった坐禅を明日から五分ずつやって。それだけ」(37:41前後)。会話の中の発言で、話者を確定できないため、発言者を特定せずに書いた
- 引用は録音の文字起こしから。言いよどみや、意味が取れない部分は「……」で省いた
- 坐禅を朝五分・週に数回・毎日ではなく続けていること、坐禅と日記・日報を朝に置いていることは、筆者自身のものです
- 本文中に坐禅会の関係者・老師のお名前は記載していません。世話人の方の経歴なども記載していません
- 本記事は坐禅会の録音のみを素材としており、書籍は使用していません
- 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません
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