この記事でわかること
- 学んだ直後の語りすぎが、教えそのものを嫌わせる理由
- 問題は話すことではなく「やたらに」「むりやり」という話し方
- 語るより、人知れず続けることを大事にする意味
前回は、本当に見えたあとに起きる慢心の話を書きました。白隠禅師でさえ、二十四歳で起こしたという話です。
『禅の正門』は、見えたあとの魔境をもう一つ挙げています。法執(ほうしゅう)です。
法執とは、得た教えや体験そのものに執着することを指す言葉です。慢心が「止まる」危うさだとすれば、法執は「語りたくなる」危うさだと私は読みました。
本が挙げている、三つの例
本はまず、法執にも段階があると断ります。修行の最後まで残るような細かいものではなく、もっときめの荒い法執の話をする、と。
そして例を挙げます。
例えば、やたらに人前で坐禅の話を得々と弁じたてたり、あるいは自分の見性体験を誇示して大口をたたいたり、あるいは無闇と坐禅の宣伝をして、その気もない人をむりやり坐禅会に引っぱって来たりといった類のことである。
見性(けんしょう)とは、自分の本質を体験として見ることです。
三つを並べると、こうなります。
- 人前で、得々と語る
- 自分の体験を、誇示する
- その気のない人を、むりやり連れてくる
どれも、悪意から出るものではありません。本もそこは分かっていて、こう続けます。
真の求道者ならば頼まれてもそのようなことはできないはずであるが、血の気の多いうちは得てしてその弊に陥りやすい。
熱があるうちほど、やりやすい。ここが、この節のいちばん痛いところだと思います。
害は、自分より先に「教え」に出る
では、何がいけないのか。本はこう書きます。
これも魔境の一つであって、自分の徳を傷つけることになるのはもちろん、人に禅を誤解せしめ、あるいは禅に対する嫌悪、嘲笑の感を起こさしめ、つまるところ仏道の徳を傷つけることになる。
害は二段になっています。
一段目は、語った本人の徳が傷つくこと。これは分かりやすい。
重いのは二段目のほうだと、私は読みました。聞かされた人が、教えそのものを誤解し、嫌い、笑うようになる。語った人ではなく、語られた中身の評判が落ちるのです。
図1 語りすぎた害は、二段で出る——傷つくのは、語った人より、語られた中身のほう
経営者が、朝礼で語りたくなるとき
これを経営の場に置き換えると、すぐに浮かぶ場面があります。
研修や勉強会で、手応えのある学びを得た。翌朝、社員にその話をしたくなる。これ自体は、自然なことだと思います。
ただ、本の三つの例に当てはめると、危うい形が見えてきます。
- 社員が求めていないのに、学んだ話を得々と語る
- 「自分はここまで分かった」と、到達を示す
- 興味のない社員を、同じ研修にむりやり参加させる
そして二段目の害が、そのまま起こりえます。社員が嫌うのは、社長ではなく、その学びのほうになる。次に同じ言葉が出たとき、「また始まった」と受け取られてしまう。
熱心な経営者ほど、やりやすい。本の言う「血の気の多いうち」は、年齢の話ではないと私は読みました。学んだ直後の熱のことです。
本が問題にしているのは、副詞だった
では、黙っていればよいのか。そうではないと思います。
もう一度、本の例を読み直すと、問題になっている言葉があります。
やたらに。得々と。無闇と。むりやり。
本が戒めているのは、話すことそのものではない、と私は読みました。問題は、話し方に付いている、この副詞のほうです。
そして処方は、こう書かれています。
修行はあくまで人知れず行なう心がけでなければならない。
本は、禅の古典から一句を引いて締めます。洞山大師の『宝鏡三昧』の最後の句です。
潜行密用は愚の如く魯の如し、但能く相続するを主中の主と名づく
本はこの句に解説を付けていません。私なりに言い換えると、人知れず行い、愚か者のように目立たず、ただ続けられることこそ、いちばん大事なこと、という意味だと読みました。
図2 熱の向け先が、二つある——外へ出すか、内で続けるか
この記事も、例外ではない
私はいま、この記事で、人前で坐禅の話をしています。本の言う法執に当たらないとは、言い切れません。
だから、この記事でしていることを限っておきます。本の紹介と、私の読み方まで。坐禅会へのお誘いは書きません。
前回の慢心の話と合わせると、見えたあとの危うさは二つになります。止まることと、語りすぎること。どちらも、本の処方は同じ方向を向いていました。続けることです。
まとめ——語るより、続ける
- 法執の荒い形は三つ:得々と語る/体験を誇示する/むりやり連れてくる。どれも熱心さから出る
- 害は二段で出る:本人の徳より先に、語られた教えのほうが嫌われる
- 問題は話すことではなく、話し方の副詞。処方は、人知れず、ただ続けること
心を高める、経営を伸ばす。学んだ直後の熱は、外へ出すより、内で続けるほうに使いたいと、この節を読んで思いました。
次回は、同じ第三章の少し前に戻ります。続けるとは、仕事中も続けることなのか。本に、そういう問いが置かれています。
明日、一つだけやってみる
研修で得た学びを朝礼で話したくなったら、まず社員がそれを求めているかを確かめてください。求められていなければ、話す代わりに自分で一つ続けてみてください。
よくある質問
Q. 学んだことを社員に共有してはいけないのですか。
本はそこまでは言っていません。戒めているのは「やたらに」「むりやり」といった形です。
私の読みでは、相手が求めているかどうかが分かれ目です。求められていないのに渡すと、二段目の害が出やすくなります。
Q. 良いものなら、勧めるのは親切ではないですか。
気持ちとしては、そうだと思います。ただ本は、その気のない人を連れてくると、教えそのものが嫌われると書いています。
親切のつもりで、勧めたいものの評判を下げてしまう。勧めたいものほど、勧め方に気をつけたいと私は読みました。
Q. 宗教的な話として受け取るべきですか。
本は仏教の言葉で書いていますが、この記事が借りたのは、熱心さが、語られた中身の評判を下げることがあるという構造だけです。用語を外しても、構造は残ります。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社、1986年)第三章第六節「魔境」の「三 見性後の魔境」第三=法執。本文218〜219ページ
- 「一口に法執といってもいろいろな段階があるが……いわば粗笨な法執である」の要旨は本文218ページ
- 「例えば、やたらに人前で坐禅の話を得々と弁じたてたり……といった類のことである」は本文218〜219ページ
- 「真の求道者ならば頼まれても……その弊に陥りやすい」「これも魔境の一つであって……仏道の徳を傷つけることになる」「修行はあくまで人知れず行なう心がけでなければならない」は本文219ページ
- 洞山大師『宝鏡三昧』の句「潜行密用は愚の如く魯の如し、但能く相続するを主中の主と名づく」は、同書本文219ページの引用による。同書はこの句に解説を付けておらず、本文中の言い換えは筆者の読みである
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像(400dpi)で字句を確認した
- 本文中に人名として記したのは白隠禅師・洞山大師(いずれも歴史上の人物)のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
- 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません。同書の主張の紹介であり、その内容を保証するものではありません
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