この記事でわかること
- 目指す道ではなく「道そのもの」と捉えると、いまが本番になる話
- 自分の仕事がいずれ消えることを、失敗と数えない見方
- 機嫌は気分ではなく、悪い知らせが集まるための条件だという話
前回は、中身を決めず、向きだけを示すという設計を書きました。
では、その向かう先はどこなのか。
この問いに、対談の聞き手は少し意外な答えを出しています。先はない、という答えです。
一粒でも播くまい、ほほえまなくなる種は
聞き手が紹介している超訳があります。
ある随筆家が、前回読んだ七仏通誡偈をこう訳し替えた、というものです。
冒頭の一行を引きます。
一粒でも播くまい、ほほえまなくなる種は
悪いことはするな——が、こうなります。
続く行は、ほほえみの芽はどんなに小さくても大事に育てようという趣旨です。
そして、この二つを絶え間なく実行していけば、人が生まれながらに持っているほほえむ心が輝きだすと続きます。結びは、人生で一番大切なことのすべてがこの言葉に含まれている、という一行です。
老師は、素晴らしい超訳ですねと受けました。
同じ教えが、命令から種と芽の話に変わっています。
播くか播かないか、育てるか育てないか。動作が具体になりました。
そして、対象が自分の外に置かれています。善い人になれ、ではありません。種を播くな、芽を育てよ。自分の性格ではなく、手元の行いを見ろという形です。
表面の難しさを、全部取り除いてみると
聞き手は、こう続けます。
仏教の教えは哲学的で難しいものだと思われがちだが、そうした表面的な難しさを全部取り除いてみれば——
日々をニコニコ微笑んで生きましょう、これに尽きるのではないかなと。
軽く見える言い方です。ただ、ここまでの流れを踏まえると、軽くはありません。
前回の「向きだけを言う」を受けて、その向きをほほえむほうと言い換えただけです。中身は相変わらず決めていません。
難しさを取り除く、という言い方も効いています。難しくしていたのは教えの側ではなく、受け取る側だったとも読めます。
仏様を目指す道ではなく、仏様という道
この節でいちばん効いたのは、次の言葉でした。
仏道修行でも、私は仏様を目指す道があるのではなくて、仏様という道があるのだと考えているんです。
いま歩いている道は仏様に向かう手段ではなく、道そのものが仏様である。
聞き手は、こう捉えればどうなるかも書いています。
いつもお釈迦様が一緒に歩んでくださっているのだから、いろんな道があったとしても、微笑みながら安心して歩んでいけばいいんだという気持ちになれる、と。
図1 「目指す道」と「という道」——聞き手は後者を取っている
手段として歩いているあいだ、いまはまだ本番ではないことになります。本番は着いた先にあります。
道そのものだと捉えると、いまが本番になります。着く先がないぶん、遅れも外れもありません。
前に読んだ「目標にして求めると外れる」という言葉と、同じことを言っているように思いました。
自分の仕事は、最終的に消滅すると思っている
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。
いまの仕事を、私はAIによって時代が変わる手助けだと考えています。会社の中の仕組みを整えることが、その一部になると思います。
最終的に、自分の仕事も消滅すると感じています。
整える仕事は、整え終われば要らなくなります。AIが進めば、いま人が介在している部分の多くは残らないでしょう。
これを手段として見ると、しんどい話になります。着く先のために働いているのに、着く前に自分の役目が消える。手段としては、割の悪い仕事です。
道そのものとして見ると、話が変わります。
消えることは、失敗ではありません。整える仕事がなくなるのは、整ったということです。いま踏んでいる一歩が、それ自体として成立しているなら、先に自分がいなくても構いません。
これは強がりではなく、順番の話だと思っています。
自分が残ることを先に置くと、残るための仕事が混ざってきます。手放せる作業を手元に留めたり、自分しか分からない状態をわざと残したり。私にも、思い当たるところがあります。
先に自分を置かないと決めておけば、その混ざりものが減ります。
図2 機嫌は、内側の話に見えて、全部外に出る——だから整える対象になる
心をフラットに保つために、坐っている
もう一つ。
私は坐禅を、いつも心をフラットに保つために使っています。
悟りのためではありません。フラットに戻すため、という実用です。
ニコニコ微笑んで生きましょう、という言葉を読んで、これは気分の話ではなく条件の話だと思いました。
機嫌が悪い日は、悪い知らせが上がってきません。そして、上がってこなかったことにはこちらは気づけません。
だから、機嫌は自分の内側の問題ではなく、情報が集まるかどうかの条件です。整える対象になります。
坐っているあいだ、私は何も得ていません。ただ、戻しています。手段として坐っているというより、坐っている状態そのものが要るという感じです。
得るために坐ると、成果が出ない日に続かなくなります。戻すために坐るなら、戻せた時点で今日の分は済んでいます。
これも、道そのものという言い方と同じ形だと思いました。先に置くものがないほうが、毎日が完結する。
まとめ——いまを、本番にする
今回の話を、三つに絞ります。
- 命令が、種と芽に変わる。悪いことはするなが、ほほえまなくなる種を播くまい、になります
- 道そのもの。仏様を目指す道ではなく、仏様という道。いまが手段でなくなります
- 機嫌は条件。整えておかないと、悪い知らせが上がってきません
心を高める、経営を伸ばす。
高めるというのは、着く先を遠くに置くことではないようです。いま踏んでいる一歩を、手段から降ろすこと。そういう読み方をしました。
では、積み重ねてきたものは、最後にどうするのか。次回は、この対談の最後を読みます。積み重ねたものを、積み下ろす——シリーズの結びです。
明日、一つだけやってみる
悪い知らせが上がってきたら、まず平らな機嫌で受け取ると決めておいてください。そのために、出社前に数分、心をフラットに戻す時間を取ってみてください。
よくある質問
Q. 着く先を置かないと、経営は進みませんか。
計画は立てます。立てないという話ではありません。
変わるのは、いまやっている仕事の位置づけです。着く先のための準備だと思って踏むか、それ自体として踏むか。同じ一歩でも、手の入れ方が変わります。
Q. 自分の仕事が消えると分かっていて、続ける意味はありますか。
私はあると思っています。
整える仕事は、整ったら要らなくなります。要らなくなるのは、うまくいった形です。それを失敗と数えなければ、続ける理由は残ります。
Q. ニコニコしていれば、厳しいことが言えなくなりませんか。
逆だと思っています。
機嫌が悪い人に、悪い知らせを持っていく人はいません。こちらが平らでいるほうが、厳しい話が集まってきます。言う側ではなく、集まる側の話として読みました。
出典
- 『致知』2021年8月号「修養の道、限りなし」(特集「積み重ね 積み重ねても また積み重ね」)本文17ページ。対談形式
- 「一粒でも播くまい、ほほえまなくなる種は」は、ある随筆家による『七仏通誡偈』の超訳として同誌が紹介しているもの。訳文は全文を引用せず、冒頭の一行のみを引き、以降は要旨で記しています
- 「素晴らしい超訳ですね」は、老師の発言として同誌に載っているもの
- 「日々をニコニコ微笑んで生きましょう」「仏道修行でも、私は仏様を目指す道があるのではなくて、仏様という道があるのだと考えているんです」「いま歩いている道は仏様に向かう手段ではなく、道そのものが仏様である」「いつもお釈迦様が一緒に歩んでくださっているのだから、いろんな道があったとしても、微笑みながら安心して歩んでいけばいいんだ」は、いずれも同誌の対談で聞き手が語っているもの
- 自分の仕事が最終的に消滅すると感じていること、坐禅を心をフラットに保つために使っていることは、いずれも筆者自身のものです
- 老師の実名、聞き手のお名前は、本記事では記載していません
- 引用はすべて、同誌のスキャン原本を400dpiで展開して字句を確認した(本文17ページ)
- 本記事は『致知』の対談のみを素材としており、坐禅会の録音および『禅の正門』は使用していません
- 本記事は特定の宗教/宗派を評価するものではありません。記述はすべて同誌に載った発言によります
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