続ける人が持っているもの、三つ——信・疑・憤志という鼎の足

この記事でわかること

  • 続く・続かないは気合いでなく、信・疑・憤志の構造の問題
  • 信じる対象には、自分だけでなく教える人も含まれるという話
  • 止まったときがいちばん近い——「もう一歩」の手前で止まる理由

前回は、どこまで来たかを測る五つの物差しについて書きました。

測り方が分かると、次の問いが出てきます。そもそも、どうすれば続けられるのか。

『禅の正門』第三章の第十節は、そこを扱っています。題は坐禅修行の三大要件です。

読んでみて、これは根性論ではないと分かりました。続くための条件を三つに分解し、一つでも欠ければ立たない、と書いた話でした。では、続かないときは、どの足が欠けているのか。

目次

三つの足がそろって、はじめて立つ

本は、古人の言葉から始めます。

「一には大信根、二には大疑団、三には大憤志、是れはこれ鼎の三足の如し」

鼎は三本足の器です。一本でも欠ければ立ちません。

本はこう続けます。この三足のうち一つを欠けば成就は覚束ない。逆に三つがそろえば必ず徹底に至り、万に一つの外れもない、と。

ずいぶん強い書き方です。ただ、裏を返せばこうも読めます。続かないときは、三つのうちどれかが欠けている。

気合いが足りないのではない。足が足りない。そう考えると、点検のしようがあります。

一本目——信じる対象は、自分の外にない

一つ目の大信根とは何か。本は一言でこう言います。本来成仏を信ずること。つまり「衆生本来仏なり」を徹底して信じ、疑わないことだと。

では、信じる対象はどこに置かれているのか。

見性とは、自分の外にあるものを見つけ出すことではない。自分の内にあって、朝から晩まで絶えず自分が用いているもの。いや、自分そのものを見出すことだ——。

だから、必ずできるということを絶対に信ずることである、と本は書きます。

信の強さについては、こう念を押しています。

「この大信根は普通に言う信念などというなまやさしいものではなく、」

「大木がガッチリと大地に根を張って、如何なる強風にも厳として揺がず動ぜざるが如き大信でなければならない」

もう一つ、見落としやすい一文があります。信じる対象は一つではないのです。

自分が必ず到達する過程にいること。仏の助けがあること。そして——

「最後に師家の教示を絶対に信じなければならない」

自分を信じるだけでは足りない。教える人を信じることまでが、一本目の足でした。

二本目——疑うとは、考えることではない

二つ目は大疑団です。ここがいちばん誤解しやすいところだと思いました。

本はまず、違うほうを否定します。

「この疑は思想的に公案の意味を疑い求めようとする疑ではない」

意味を考えるのは疑ではない、と。もしそれが疑なら、ただ呼吸を数える修行には疑がないことになってしまう。そうではない、というのが本の理屈です。

では何か。一つのことになり切って、全身全霊が一個の団子になることだと書かれています。

考えて分けるのではなく、丸ごと一つになる。それが団という字の中身でした。

そして本は、この二本目が一本目から自然に出てくると書きます。大信根あれば大疑団は必ず起こる、と。

信じているから、分からないことが苦しくなる。信じていなければ、分からなくても平気なのです。

三本足の鼎——一本でも欠ければ立たない 修行が成就する 大信根 必ずできると信じる 教える人も信じる 大疑団 考えることではない 丸ごと一つになる 大憤志 腹の底から盛り上がる 自己激励の意志 信があれば、疑は必ず起こる 信と疑があれば、憤志が起こる 出典:『新版 禅の正門』第三章第十節(本文279〜282ページ)

図1 三本足の鼎——一本でも欠ければ立たない

三本目——腹の底から盛り上がってくるもの

三つ目は大憤志です。定義が明快でした。

「大憤志というのは腹の底から盛り上がってくる自己激励の力強い意志である」

自己激励という言葉に、私は立ち止まりました。誰かに励まされるのではありません。自分で自分を励ますのです。

本は、それが必要になる場面まで具体的に書いています。

信じて、まっすぐ続けている。それでもつかめない。銀山鉄壁が眼前に立ちはだかって、どうしてもブチ抜けない——。

そして、こう書きます。この時、実は宝所近きにあるのである。

いちばん動かないと感じているときが、いちばん近い。だからそこで、自分を叱咤せよと言います。

「人に出来たことが自分に出来ないはずがあるか」

本はさらに、抜隊禅師の言葉を引きます。

「誰がかくしたる悟ぞや、只自ら無道心なる故と思い知りて猛く精彩をつくべし」

誰かが隠したわけではない。自分に道心がないだけだと思い知って、猛然と精を出せ。そう読みました。

そして本は、三つのうちどれが最後に効くかを、はっきり書いています。

「勇猛の憤志が最後の決め手であることをよくよく心得ておかねばならない」

三本足だと言いながら、最後に体重がかかるのはここだ、という書き方でした。

六年、疑い続けた人

本は、この三つを地でいった人として、『無門関』を書いた無門慧開和尚を挙げます。

師から一つの公案を与えられ、六年それを疑い続けた。惨憺たる苦修練行の末に、ようやく底が抜けた人だと。

だから『無門関』第一則の提唱には実感がある、と本は書きます。そこにはこうあります。

「昼夜提撕して、虚無の会を作すこと莫れ。有無の会を作すこと莫れ」

「箇の熱鉄丸を吞了するが如くに相似て、吐けども又吐き出さず」

熱した鉄の玉を飲み込んでしまい、吐こうにも吐き出せない。その状態のまま六年——。

もう一歩のところで、止まる

この節でいちばん刺さったのは、最後に出てくる話です。本はこう書いています。

「随分いいところまで来るのだが、もう一歩というところで足踏みしていて、」

「どうしてもそれ以上進めない、という訴えを聞くことがしばしばある」

しかも、その止まり方が独特です。フッと何かおそろしくなって、それ以上踏み出せなくなる。

こわいものは何もないはずなのに、そのあとどうなるのだろうと思うと、こわくなる——。

本は、そこが成否の分かれ目だと言います。

そして、こう書き添えています。

「無字の拈提を続けたために死んだという話は聞いたことがない」

理屈ではなく実績で不安を打ち消す。実務的な励まし方だと思いました。

止まるのは、いつも「もう一歩」の手前 はじめ 突破 ここで足踏みする 止まる人の言い分 これ以上どうしても進めない フッと何かおそろしくなる 本が示す見立て この時、実は宝所近きにあり そこが成否の分かれ目である いちばん動かないと感じるときが、いちばん近い 出典:『新版 禅の正門』第三章第十節(本文283ページ)

図2 止まるのは、いつも「もう一歩」の手前

止まる場所は、だいたい決まっている

私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。

この仕事で、プロジェクトが止まる場所は、だいたい決まっています。最後の一歩の手前です。

新しいやり方はほぼ見えている。あとは切り替えるだけ。ところが、そこで動きが止まる。

理由を聞いても、明確な反対は出てきません。何となく不安だ、という言い方になります。

長いあいだ、私はこれを準備不足だと思っていました。もっと資料を、もっと説明を、と。

この節を読んで、見方が変わりました。足りないのは情報ではなく、三本目の足かもしれない。

三つの足で点検すると、手当てが変わります。

一本目(信)が欠けているなら、そもそもできるはずがないと思われています。これは説明では動きません。似た規模の会社でできた例を一つ見せるほうが早い。

二本目(疑)が欠けているなら、他人事になっています。自分の仕事がどう変わるかを、一件だけ手を動かして体験してもらう。

三本目(憤志)が欠けているなら、情報は足りていて、あと一歩が踏み出せないだけです。ここで必要なのは資料ではありません。

本の言葉を借りるなら、「人に出来たことが自分に出来ないはずがあるか」に当たるものです。

そして、止まっているそのときが、いちばん近いのでした。

まとめ——続けることは、三つの部品でできている

  1. 続く/続かないは、気合いではなく構造の問題。信・疑・憤志の三本足で、どれが欠けているかを見ます
  2. 信じる対象には、教える人も含まれる。自分だけを信じていても、一本目は立ちません
  3. 止まったときが、いちばん近い。銀山鉄壁の前が宝所の近くだと本は書きます

私は、この三つを会議で使うことにしました。止まっている案件を前に、どの足が欠けているかを先に決める。それから手を打つ。

心を高める、経営を伸ばす。高めるための力は外から供給されるものではなく、腹の底から盛り上がってくるものなのだと読みました。

他の宗教を信じている人が坐禅に来るとき、本は何と書いているのか。次回は、同じ章の第十一節の話です。

明日、一つだけやってみる

止まっている案件を一つ選び、信・疑・憤志のどの足が欠けているかを先に決めてみてください。手を打つのは、それを決めてからにしてください。

よくある質問

Q. 三つのうち、どれから手をつければよいのですか。

本は順番を明示していません。ただ、大信根から大疑団が自然に起こり、その二つがあれば大憤志が起こる、という流れで書かれています。

この順で読むなら、まず信です。できると思えていない人に、頑張れと言っても三本目は立ちません。

Q. 「疑う」のに「信じる」のは、矛盾しませんか。

矛盾しないと読みました。ここでの疑は、疑わしいと思うことではないからです。

本ははっきり、意味を考え求める疑ではないと否定しています。信じているからこそ、分からないままでいられなくなる。その状態を疑団と呼んでいます。

Q. 仕事のチームにも、そのまま当てはめられますか。

そのままではないと思います。修行は一人でするものですし、目的も違います。

ただ、止まっている原因を「情報不足」以外の場所に探すという発想は、私の仕事でも役に立ちました。三本足は、その探し方の枠として使っています。

出典

  • 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第三章第十節「坐禅修行の三大要件」。本文279〜283ページ
  • 「一には大信根、二には大疑団、三には大憤志、是れはこれ鼎の三足の如し」は、同書が古人の言葉として引いているもの
  • 『無門関』第一則の提唱の引用、および無門慧開和尚が六年疑着したという話は、同書が引いて示しているもの
  • 「誰がかくしたる悟ぞや、只自ら無道心なる故と思い知りて猛く精彩をつくべし」は、同書が抜隊禅師の言葉として引いているもの
  • 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像で字句を確認した(本文279・280・281・282・283ページ)
  • 本文でお名前を記したのは、無門慧開和尚と抜隊禅師のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
  • 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません

関連記事

  • どこまで来たかを、どう測るか——五つの物差しと、途中で反転する向き
  • 見えてきた、と思ったときに現れる——魔境という、進歩の証拠であり落とし穴
  • 言葉を見て、察する——本物の指導者を、素人が見分けられるか
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

Takuomi Mochidaのアバター Takuomi Mochida 株式会社ベンチャーネット代表取締役

株式会社ベンチャーネット 代表取締役
2005年に株式会社ベンチャーネットを設立後、SEOをはじめとするデジタルマーケティング領域のコンサルティングサービスを展開
広告・SNS・ウェブ・MA・SFAと一気通貫で支援を行っています
著書に『普通のサラリーマンでもすごいチームと始められる レバレッジ起業 「バーチャル社員」があなたを救う』(KADOKAWA、2020年)

目次