この記事でわかること
- 「内には一物もなく」——自分がないから相手に応じられる理由
- 何も持たないこと自体を持っていた僧と、「担いで帰れ」の意味
- ゼロにして終わらせず、一歩先へのヒントまで渡す応じ方
前回は、災難の逃げ道を聞かれた趙州が返した「恰好」——よし来た、というひと言を書きました。
受けたあと、私たちは何を持って人の前に座るのか。同じ対談に、その話が出てきます。
前回が姿勢の話だったとすれば、今回は持ち物の話です。
前回の結びで予告した「自分の中には何もない」という言い方は、老師と聞き手が『趙州録』から挙げた二つの問答に出てきます。
自分がないから、誰からの問いにも自由自在に応じられる。老師の答えは、そこにありました。では、何も持たないとは、どういうことなのか。
何も持たずに来た、と言いに来た僧
対談の中ほどで、老師が聞き手にこう尋ねています。『趙州録』の中で、これはという問答はありますか、と。
聞き手が挙げたのは、趙州の応じ方そのものでした。
対談の誌面には「口唇皮禅」という呼び方が出てきます。向かってくるものを、さらりとかわしていく。その清々しさに感銘を受ける、と聞き手は語っています。
例として挙がったのが、次の問答です。
ある禅僧が、趙州に問答を挑んできました。「自分は何も持たないでやってきたぞ」
趙州は応じます。「捨ててしまえ」
禅僧は詰め寄ります。「何も持ってないのに何を捨てればいいんだ」
趙州は言いました。「担いで帰れ」
同誌には、ここに(笑)が入っています。
この問答を、私はこう読みました。何も持っていない、ということ自体を、この僧は持っていた。だから趙州は、まずそれを捨てろと言います。
捨てるものがない、と返されると、今度は担いで帰れと言う。持っていないという看板を、そのまま背負って帰れ、ということだと思います。
言い負かしてはいません。相手が握っているものを、握っていると分かる形で返しただけです。
聞き手の説明はこうです。趙州は、頭を知識でいっぱいにした人間が来たら、その知識を逆手にとる。凝り固まった観念をスパッと切り、宙ぶらりんにしてゼロにしてしまう。
ただし、話はそこで終わりません。
ゼロにして終わりでなく、厳しい言葉と共に一歩先に進むための優しさ、ヒントもそれとなく与えてくれている。聞き手は、そう続けています。
だから自分も、趙州の言葉に触れると知識や経験がいったんゼロになり、そこからまた一歩進んでいこうという気持ちになる——と。
図1 口唇皮禅の運び——ゼロにするところまでは知られているが、対談が強調しているのは三つ目である
内には一物もなく、外に求めるものもない
老師がもう一つ挙げたのは、短い問答でした。
問う、「ご老師の家風とは、どんなものですか」。師、「内には一物もなく、外に求めるものもない」。
家風とは、その人のやり方、持ち味くらいの意味です。
老師の解説は、こう続きます。
これは要するに、自分の中には何もないということ。何もないということは、外に何かを求める趙州そのものがいないということですよ、と。
自分がないから、趙州は誰からの問いに対しても自由自在に応じられる。
もし自分というものがあれば、自分の思い通りにしようとか、自分の利益になるようにしようとかいう打算が出てくる——老師はそう語っています。
これこそ趙州の真骨頂でしょうな、と。
ただし老師は、留保も置いています。なかなか趙州のような人にはなれない、と。そのうえで、自分が趙州になる、そういう気持ちで語録に向き合っていくことが大事だと結んでいます。
この留保のところが、私には大事に思えました。
なれる、とは言っていません。なれないと分かったうえで、その気持ちで向き合え、と言っています。到達点ではなく、向きの話として読めます。
図2 何を持って、人の前に座るか——老師の解説を図にしたもの
私は、売りたいものを持って座っていた
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。
商談の席で、私は自分が扱っている製品を前提にして、そこへ向かう会話をしてしまうことがあります。相手の話を聞きながら、頭の中では着地点が決まっている。
ところが、実際に選んでいただけたのは、そういうものを取っ払って、腹を割って話したときだけでした。
製品の話をしているときほど、選ばれていません。
打算が出てくる、という老師の言葉を読んで、私はここに思い当たりました。
内に一物があると、相手の問いがこちらに届かない。届かないまま、こちらの答えに向けて話を運んでしまう。相手は、たぶんそれが分かっています。
ここで言う一物は、悪意のことではありません。
よいものだと思っているからこそ、そこへ運んでしまう。善意で持っているぶん、自分では気づきにくいのだと思います。
腹を割って話したときというのは、その持ち物をいったん脇に置けた回でした。置けたから話が進んだのか、話が進んだから置けたのかは、正直よく分かりません。ただ、順番として先に置いていたことは確かです。
一度、ゼロになったことがある
知識や経験がいったんゼロになる、という聞き手の言い方についても、思い当たることがあります。
私は長いあいだ、お金を稼ぐことがビジネスの正解だと思っていました。
それが変わったのは、稲盛和夫さんの考え方に出会ってからです。お金を追うだけではだめなのだ、ということを理解しました。
そのときに起きていたのは、新しい知識が一つ増えた、ということではありません。それまで積み上げてきたものの土台のほうが、いったん空になったという感じでした。
ゼロにして終わりでなく、一歩先へのヒントもある。聞き手のこの言い方が、私にはよく分かります。
まとめ——持ち物を減らすという高め方
- ゼロにして終わらせない。観念を切るだけなら突き放しです。一歩先のヒントまでが一組でした
- 自分がないから、応じられる。通したい答えがないほうが、相手の問いはそのまま入ってきます
- なれないと知りながら、向き合う。老師自身が、なかなか趙州のようにはなれないと言っています
心を高める、経営を伸ばす。高めるというのは、持ち物を増やすことではなく、減らすことでもあるのだと読みました。
なれないと分かっているものに向き合う、という形です。私も同じで、内を空にして商談に出たことなど一度もありません。それでも、座る前に何を持っているかを見るくらいはできます。
では、趙州自身が師のもとで悟りを開いたのは、どんな問答だったのか。次回は、その問答を読みます。平常心是道——ふだんの心が、そのまま道である、という言葉です。
明日、一つだけやってみる
次の商談や面談の前に、どの答えに着地させたいと思っているかを一行書き出してみてください。準備した案は、相手の問いを聞いてから出しても間に合います。
よくある質問
Q. 何も持たずに商談へ行け、ということですか。
準備の話ではないと読みました。
調べることは調べ、案も作ります。持たないほうがよいのは、この答えに着地させたいという構えのほうです。準備した案は、相手の問いを聞いてから出しても間に合います。
Q. 自分を空にするというのは、意見を持たないことですか。
違うと思います。趙州は、はっきり答えています。「捨ててしまえ」も「担いで帰れ」も、意見がなければ出てこない言葉です。
空にするのは、自分の得になるように運びたいという向きのほうだと読みました。
Q. 「担いで帰れ」は、相手を突き放しているだけではありませんか。
対談の聞き手は、そうは読んでいません。ゼロにして終わりではなく、一歩先へ進むためのヒントがそれとなく添えられている、と語っています。
私の仕事で言えば、できませんと言って終わるのか、できない理由と、この先どこを見ればよいかまで渡すのか、の差だと思います。前者は、ただの突き放しです。
出典
- 『致知』2021年8月号「修養の道、限りなし」(特集「積み重ね 積み重ねても また積み重ね」)本文11〜12ページ。対談形式
- 「ご老師の家風とは、どんなものですか」「内には一物もなく、外に求めるものもない」は、同誌が『趙州録』の問答として紹介しているもの
- 同誌は、引用した『趙州録』の言葉について『心に甦る「趙州録」』(春秋社)および『生きる力になる禅語』(致知出版社)を参照したと注記しています(本文17ページ下部)
- 「自分は何も持たないでやってきたぞ」「捨ててしまえ」「何も持ってないのに何を捨てればいいんだ」「担いで帰れ」は、同誌の対談で聞き手が紹介している問答
- 「自分がないから、趙州は誰からの問いに対しても自由自在に応じられる」「打算が出てくる」「趙州の真骨頂」は、老師の発言として同誌に載っているもの
- 「口唇皮禅」「凝り固まった観念をスパッと切り、宙ぶらりんにしてゼロにしてしまう」「ゼロにして終わりでなく、厳しい言葉と共に一歩先に進むための優しさ、ヒントもそれとなく与えてくれている」は、同誌の対談で聞き手が語っているもの
- 「家風」の語意の説明は、一般的な意味をもとにした筆者の補足であり、同誌の語句ではない。「口唇皮禅」の語釈は同誌に書かれていないため、本記事では説明を加えていません
- 引用はすべて、同誌のスキャン原本を400dpiで展開して字句を確認した(本文11ページ、および本文12ページの冒頭)
- 聞き手のお名前、老師の実名、老師の師匠のお名前は、本記事では記載していません
- 商談に関する記述は、すべて筆者自身の経験です。相手先の社名・業種・案件の内容は記載していません
- 稲盛和夫さんに関する記述は、筆者自身が受けた影響の範囲にとどめており、同氏の発言を引用したものではありません
- 本記事は『致知』の対談のみを素材としており、坐禅会の録音および『禅の正門』は使用していません
- 本記事は特定の宗教/宗派を評価するものではありません。記述はすべて同誌に載った発言と、同誌が紹介している語録の内容です
関連記事
- 「よし来た」と、ひと言だけ——災難の逃げ道を聞かれた禅僧の答え
- 六百の公案を終えて、最初からやり直した——十六歳の問いが解けるまで
- 玉の色は、転がり方に関係ない——立場の違う人が、同じ方法を学べるか
