この記事でわかること
- 空見=自分一個の平安に満足する、見えたあとの落とし穴
- 見える前も後も、執着する先が変わるだけという指摘
- 静けさを捨てず、慈悲心を足すという処方
前回は、一本の杖の話を書きました。元をたどると分からなくなる。あるのは因果だけで、固定した持ち主はいない、という話です。
坐禅会の録音を離れて、『禅の正門』に戻ると、この本にも「因果」という言葉が、少し違う角度で出てきます。
以前、見えたあとの魔境について二つ書きました。一つ目の慢心と、三つ目の法執です。飛ばしていたのが、二つ目でした。静かになったこと自体を、本は否定していません。危ないのはその静けさに腰かけてしまうことだ、と書いています。では、腰かけないために、本は何を勧めているのか。
「自分一個の平安に満足して」
本は、二つ目をこう始めます。
第二は空見である。
空見(くうけん)とは、すべては平等で区別がない、という面だけに執着することを指す言葉です。
本はまず、見えた人に起きる良いことを書きます。見性(けんしょう)とは、自分の本質を体験として見ることをいう禅の言葉です。
とにもかくにも一応見性すると、浅いは浅いなりに、深いは深いなりに、程度に応じた安心を得ることになる。
それまで見えていたのは、自分と他人が向かい合う世界だけだった。そこに、区別の消えた平等の世界が見える。成る程このままでよかったんだな、と落ちつく。
問題は、その次です。
すると、平等の世界に腰かけて自己陶酔に陥り、自分一個の平安に満足して他人の苦悩に無関心になりがちである。
静かになったこと自体は、本物です。本はそれを否定していません。危ないのは、その静けさに腰かけてしまうことだと書いています。
見える前も、見えたあとも
本はこの状態を、見える前と並べて説明します。
見性以前は主客対立の二面観に執着し、見性すると今度は平等の一面観、すなわち空見に執着する。
見える前は、自分と他人を分ける見方に縛られている。見えたあとは、今度は「分けない」見方に縛られる。そして本は、こう言い切ります。
どちらも魔境であることに変りはない。
執着する対象が変わっただけ、という見立てです。
図1 執着する先が、変わるだけ——分ける見方から、分けない見方へ。縛られていることは同じ
「不落」と「不昧」の一字違い
本はここで、『無門関』第二則の「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」を引いています。要旨はこうです。
昔の百丈は、因果についての問いに「不落因果」、因果に落ちない、と答えた。その答えのために、五百生のあいだ野狐の身に落ちた。今の百丈は、そこに「不昧因果」という一語を与えた。本はこれに「因果の法則一厘一分の狂いもなし」と言い添えています。
平等の世界に腰かけると、因果まで消えたように見えてしまう。本がこの話を引く意図は、そこにあると私は読みました。
本は、こうも書いています。
釈尊も大覚を成ぜられて後、一週間ほどはこの境界に止まっておられたという。
釈尊でさえ、一度はここに止まった。落ちること自体を責める書き方ではありません。
人の苦しみを見て、何も起こらない
本は、空見の例として、苦しいときは苦しいになり切ってしまえ、という教えの一面だけに捉われる場合を挙げます。そうなると、人の苦しみを見ても、早く楽にしてあげたいという心が起こらない。
これは悟りの一面に捉われているのである。
古人はこれを「解脱の深坑(じんきょう)」と呼んで戒めた、と本は書きます。抜け出したつもりの場所が、深い穴になっている、という言い方です。
私の場合——落ち着くと、気づきやすくなる
私自身は、落ち着いているときほど、周りの困りごとに気づきやすくなるほうです。社員の困りごとには、様子の変化で気づくことが多いです。
本が書く空見は、静けさが内側に閉じた状態です。私の実感とは、向きが逆になります。
そう考えると、この節は「静かになるな」という話ではありません。その静けさが、外に向いているか、内に閉じているかを点検する話だと、私は読みました。
図2 静けさの、二つの向き——同じ落ち着きでも、内に閉じれば空見、外に向けば気づきになる
本の処方は、静けさに足すことだった
では、どうするか。本の処方はこうです。
見性後も入室参禅を怠らず、坐禅の最後には必ず四弘誓願文を誠心をこめて拝誦して慈悲心の培養と道眼の錬磨に努める
入室参禅(にっしつさんぜん)とは、師と一対一で向き合う修行の場です。四弘誓願文(しぐせいがんもん)とは、四つの誓いを述べた文を指します。
本は、静けさを捨てろとは書いていないのです。静けさはそのままに、慈悲心を育てることを足す。それが本の処方です。
経営に置き換えると
経営者が自分の心を整えることは、大切なことだと思います。
ただ、整ったあとに自分だけ満足して止まっていないか。本の問いは、そこに向いています。
社員の様子の変化は、見ようとしていないと見えません。整えた心を、どこに向けているか。経営者にとって、この節はそういう問いになると私は考えます。
「自分を整えるのは身勝手だ」という話ではありません
この節には、誤解されやすい点が二つあります。
一つ目。自分の心を整えることを否定する話ではありません。本は、見性によって得られる安心を、はっきり良いものとして書いています。問題にしているのは、そこに腰かけることです。
二つ目。自分をすり減らしてでも人の世話をせよ、という話でもありません。本の処方は、坐禅と入室を続けながら慈悲心を育てることです。しんどいときは、一人で抱え込まないでください。外に向く静けさは、自分を空っぽにすることとは違います。
まとめ——静けさの向きを見る
- 空見は、見えたあとの魔境の二つ目。平等の世界に腰かけ、自分一個の平安に満足して、他人の苦悩に無関心になる
- 見える前も、見えたあとも、執着する先が変わるだけ。どちらも魔境であることに変りはない
- 処方は、静けさに慈悲心を足すこと。静けさを捨てるのではない
心を高める、経営を伸ばす。高めた心が内に閉じれば、伸ばすほうには届かないと、この言葉を読み直して思いました。
お釈迦様は、出家していない人に何を説いたのか。次回は坐禅会の録音に戻り、その三つの教えの話です。
明日、一つだけやってみる
自分が落ち着いている時間に、その静けさが内に閉じているか、外に向いているかを見てみてください。向きを確かめるだけで構いません。
よくある質問
Q. 「空見」とは、どういう意味ですか。
本の言葉では、「平等の一面観」に執着することです。すべては平等で区別がない、という面だけを見て、人の苦しみに心が動かなくなる状態を指しています。
Q. 自分の心の平安を求めるのは、悪いことですか。
本は、見性によって安心を得ることを悪いとは書いていません。問題にしているのは、その平安に満足して、他人の苦悩に無関心になることです。
Q. 宗教的な話として受け取るべきですか。
本は仏教の言葉で書いていますが、この記事が借りたのは、落ち着きが内に閉じるか、外に向くかという見方だけです。用語を外しても、見方は残ります。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社、1986年)第三章第六節「魔境」の「三 見性後の魔境」第二=空見。本文216〜218ページ
- 「第二は空見である」「とにもかくにも一応見性すると……程度に応じた安心を得ることになる」「すると、平等の世界に腰かけて自己陶酔に陥り、自分一個の平安に満足して他人の苦悩に無関心になりがちである」は本文216ページ。「成る程このままでよかったんだな」も同ページの字句
- 「百丈野狐」の話は本文217ページの記述を筆者が要約したもの。「不落因果」「不昧因果」「因果の法則一厘一分の狂いもなし」は同ページの字句
- 「釈尊も大覚を成ぜられて後、一週間ほどはこの境界に止まっておられたという」「これは悟りの一面に捉われているのである」「解脱の深坑(じんきょう)」「見性以前は主客対立の二面観に執着し、見性すると今度は平等の一面観、すなわち空見に執着する」は本文217ページ。苦しいになり切れという教えの一面に捉われる例は、同ページの記述を筆者が要約したもの
- 「どちらも魔境であることに変りはない」「見性後も入室参禅を怠らず……慈悲心の培養と道眼の錬磨に努める」は本文218ページ
- 同書はこの節で、ほかの例や永嘉大師『証道歌』の句も挙げているが、本記事では扱っていない
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像で字句を確認した
- 落ち着いているときは周りの困りごとに気づきやすくなる、社員の困りごとには様子の変化で気づく、という記述は筆者自身のものです
- 本文中に人名として記したのは百丈・釈尊(いずれも歴史上の人物)のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
- 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません。同書の主張の紹介であり、その内容を保証するものではありません
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