この記事でわかること
- 『夜船閑話』が坐禅の入門書ではなく、健康法の指導書である理由
- 名著の用途が読み違えられる、本の側の理由
- 取り違えたまま読むと効かない——「心を高める、経営を伸ばす」の順番
前回は付録二を読みました。同じ一行が七、八年後に届く、という話でした。
今回は付録三です。『新版 禅の正門』を読む連載は、ここで一区切りです。
題がそのまま結論になっています。『夜船閑話』は坐禅の入門書ではない。
『夜船閑話』(やせんかんな)は、白隠禅師が書いた有名な一冊です。その本について、著者はまず用途の話から始めます。読み違えられる理由は本の側にもあり、それは私自身の読書にも当てはまりました。
何の本かを、先に言う
書き出しがこうです。
『夜船閑話』を読まれる方々に、まず第一に知っておいていただきたいことは、
続きが結論です。
この書は坐禅の入門書ではなく、病気治療、或は健康法の指導書であるということである。
健康法の指導書。坐禅の本ではない、と言っています。
念を押すように、もう一度書かれます。
しかし、この書はあくまでも病気治療のための指導書であり、健康を維持するための手引書なのである。
そして、その根拠。
このことは本書の序文、および本文中の随所で、禅師ご自身も語っておられることである。
著者自身が、本の中で用途を言っている。それでも読み違えられてきた、という話です。
誤読する理由は、本の側にもある
ここで、この付録は責める方向に行きません。読み違えるだけの理由があると説明します。
白隠禅師は臨済禅を再興した大禅師である。その人が、禅の指導と同じ筆致で、精神集中の原理と方法を、至るところに禅語を混じえつつ説いた。
だから、こうなる。
従って、一般の方々には、この書が禅書の一種のように思われるのも無理からぬところであろう。
無理からぬところ。誤読を、読者の不注意にしていません。
書き手が誰か。どんな言葉で書かれているか。その二つが、用途の判断を狂わせる。中身の質が高いほど、狂いやすいのです。
図1 同じ一冊が、二通りに読まれる——申告と受け取られ方のずれ
序文は、戯作である
ここから先が、この付録のいちばん強いところです。
『夜船閑話』は序と本文に分かれています。その序の末尾には、書き手の名が置かれています。
窮乏菴主飢凍、炷香稽首して題す
著者は、この人物の実在を疑います。
思うに、この序文は白隠禅師ご自身の手になるものであって、
理由は二つ。内容から言っても、文章の格調から言っても、他人の作とは思えない。そして、こう続きます。
窮乏菴主飢凍などという全く人を喰ったような筆者名は禅師その人の仮称であろう。
つまり、白隠禅師が別名で自分の本の序を書いた。しかも当時流行の黄表紙本——今なら娯楽読み物の様式に倣った、禅師独特の戯作だというのです。
そして、この一行。
本書を事実談のように思い込むことは烏滸の沙汰といわねばならない。
烏滸(おこ)の沙汰——馬鹿げたこと、という意味です。名著の序文を、事実の記録として読むな、と書いてあります。
執筆の動機についても、同じ扱いをします。
弟子たちが健康を損ねて倒れていった、という描写が序文にある。著者はそれを、白隠禅師一流の力強い文章だと認めたうえで、こう書きます。
この描写が与える印象は、事実をかなり誇張したものになっているのではないかと思われる。
そして、老仙人から秘法を授かったという枠組みについて——「という建前になっているのである」と記しています。
建前。名著の成立事情を、建前だと言い切っています。
序文の中で、指示が食い違っている
もう一つ、地味ですが効く論証がありました。
序文には、こういう記述があります。
此の秘要を修せんと欲せば、且らく工夫を抛下し、話頭を拈放して、先づ須く熟睡一覚すべし。
工夫とは坐禅の修行、話頭とは公案のこと。いったん坐禅をやめて、まず眠れと言っています。
ところが同じ序文に、こうもあります。
内観と参禅と共に合せ並べ貯へて、且つ耕し且つ戦ふ云々。
こちらは両方を並行せよと言っています。
前者は中止せよ、後者は併行せよ。著者はここから、この書が参禅工夫の指導書ではないことは明らかだと結論します。
矛盾を欠点として指摘したのではありません。用途が違う本だから、参禅の手順としては読めない、という判定です。
図2 用途を確かめる——読む前の三つの問い
経営の本だと思って読んでいた
私にも、読んだあとで種類を取り違えていたと気づいた本があります。稲盛和夫さんの六つの精進です。
経営の本だと思って読みました。経営者が書いたものなので、そう構えるのが自然だと考えていました。
読んでみて驚きました。経営ではなく、心のことだった。
手順が書いてあると思っていたのに、書いてあったのは心の持ち方でした。経営の技法として取り出そうとしても、取り出せないわけです。
『夜船閑話』の話と、形が同じでした。書き手が経営者だから経営の本だと、私は判断していました。白隠禅師が書いたから禅の本だ、というのと同じ間違いです。
そして、取り違えたまま読むと、効かない。技法として使おうとして使えず、自分の読み方ではなく本のほうを疑いたくなります。
順番が書いてあった
もう一つ気づいたことがあります。
取り違えていたのは種類だけではなく、順番でした。
心を高める、経営を伸ばす。
題にそう書いてあります。心を高めることが先で、経営が伸びるのはそのあと。私は逆から読もうとしていました。経営を伸ばす技法として読み、心の話が出てくると、前置きだと思って飛ばしていたわけです。
飛ばしていたところが、本体でした。
まとめ——用途は、読む前に確かめる
- 著者自身が用途を書いている。序文やあとがきに、たいてい申告があります
- 誤読には本の側にも理由がある。書き手が誰か、どんな言葉で書かれているかが、判断を狂わせます
- 取り違えたまま読むと効かない。そのとき疑うべきは、本ではなく自分の読み方かもしれません
心を高める、経営を伸ばす。
この題を、私は長く後ろから読んでいました。順番のほうが先に書いてあった——そういう読み方をしました。
では、まだ読んでいなかった節には何が書いてあるのか。次回からは同じ本の第一章に戻り、順に読みます。
明日、一つだけやってみる
次に読む本は、本文より先に序文とあとがきを読んでみてください。著者が何の本だと言っているかを確かめてから、読み始めてください。
よくある質問
Q. 名著の序文を「戯作」と言ってよいのですか。
言っているのは私ではなく、書物です。しかも白隠禅師を貶めるためではありません。
何の本かを正しく渡すために、序文の性格を説明しています。敬意の示し方として、私はこちらのほうが誠実だと思いました。
Q. 用途を取り違えても、学びはあるのではないですか。
あります。『夜船閑話』が名著であることは、書物も否定していません。
問題は手順として使おうとしたときです。健康法の手引きを坐禅の手順として実行すれば、噛み合わないのは当然でした。
Q. 読む前に用途を確かめる手立てはありますか。
私がやるようにしたのは一つだけです。序文とあとがきを先に読む。
著者は、たいていそこで用途を申告しています。『夜船閑話』もそうでした。読み違えたのは、そこを飛ばしたからです。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)付録三「『夜船閑話』は坐禅の入門書ではない」。本文374〜376ページ
- 「『夜船閑話』を読まれる方々に、まず第一に知っておいていただきたいことは」「この書は坐禅の入門書ではなく、病気治療、或は健康法の指導書であるということである」「しかし、この書はあくまでも病気治療のための指導書であり、健康を維持するための手引書なのである」「このことは本書の序文、および本文中の随所で、禅師ご自身も語っておられることである」「従って、一般の方々には、この書が禅書の一種のように思われるのも無理からぬところであろう」「思うに、この序文は白隠禅師ご自身の手になるものであって」「窮乏菴主飢凍などという全く人を喰ったような筆者名は禅師その人の仮称であろう」「本書を事実談のように思い込むことは烏滸の沙汰といわねばならない」「この描写が与える印象は、事実をかなり誇張したものになっているのではないかと思われる」「という建前になっているのである」は、同書の記述
- 「窮乏菴主飢凍、炷香稽首して題す」「此の秘要を修せんと欲せば、且らく工夫を抛下し、話頭を拈放して、先づ須く熟睡一覚すべし」「内観と参禅と共に合せ並べ貯へて、且つ耕し且つ戦ふ云々」は、同書が白隠禅師『夜船閑話』の序文から引用しているもの
- 「戯作文学の一種である」「内観と参禅工夫とを混同してはならない」は、同書の小見出し
- 引用はすべて、同書のスキャン原本を400dpiで展開して字句を確認した(本文374〜376ページ)
- 『夜船閑話』そのものは参照していません。本記事は同書の付録三に書かれている内容のみによります
- 稲盛和夫さんの六つの精進についての記述は、筆者自身の読後の実感です。各項目は本記事では列挙していません(原典を直接参照していないため)。引用も行っていません
- 「心を高める、経営を伸ばす」は稲盛和夫さんの著書名です
- 本記事は特定の宗教/宗派を評価するものではありません。記述はすべて同書に書かれている内容です
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