この記事でわかること
- 八つの前提は、別々ではなくセットで効くという構造
- 一つでも引っかかれば、全部が不徹底という厳しさ
- 欠点が見えるのは、前進の証拠という見方
前回は、探しているものは手許にある、という話を書きました。
では、その手許にあるものを、私たちは何を前提にして学んでいるのか。
『禅の正門』第三章の第八節が、そこを扱います。題は大乗仏教の八大信条。
宗教の話に見えますが、読んでみると前提の点検リストでした。しかも、点検のしかたに独特の設計があります。一つでも腑に落ちなければ、全部が不徹底。そういう測り方です。
出どころは、八つの箇条書き
本はまず、出どころを明かします。
江戸期の僧が『十善法語』の中で、仏道から見た邪見とは何かを詳細に説いた。その裏返しとして、正しい見方が明らかになる——。
原田祖岳老師はそれにならい、著書『参禅の秘訣』の中で、大乗仏教の八大信条として八箇条を示した。本はそれを引いています。
そして、こう定義します。
「大乗仏教を正しく信ずるとは、左記の八箇条が正しく信じられることであり、」
「大乗仏教を正しく理解するとは、この八箇条を正しく理解することである」
信じることと理解することを、同じ八つで測っている。ここが面白いところでした。
八つの箇条
挙げられている八つは、次のとおりです。
一 本具仏性。もともと備わっている、ということ。
二 自我迷執。「自分」への執着は事実ではない、ということ。
三 生命持続。いのちは続いている、ということ。
四 因果必然。偶然や運では片づかない、ということ。
五 諸仏実在。導く働きが在る、ということ。
六 感応道交。こちらが向けば、通じる、ということ。
七 自他不二。自分と他は切れていない、ということ。
八 成仏過程。いまは過程の途中にある、ということ。
名前は本のとおりです。添えた短い説明は、本の解説をもとにした私の要約であって、原文の言い回しではありません。
このうち四の因果必然は、前回の因果一如とつながります。自然現象の因果は誰も疑わないのに、人事の吉凶になると偶然や運命で済ませてしまう。本はそこを突きます。
図1 大乗仏教の八大信条
三と五は、宗教の前提そのものです。ここは本の主張として紹介するにとどめます。
私が引っかかったのは、八つの並べ方のほうでした。
八即一、一即八
本は、この八つを独立した項目として扱いません。
「八即一、一即八である」
そして、こう続きます。
「どの一箇条の中にも他の七箇条が完全に備わっているものなのである」
だから、どれか一つが本当に信じられれば、残りの七つも自明になるはずだ、と。
逆も書かれています。
「どの一箇条でもスッキリ納得しかねる箇条があれば、他の七箇条もわかったといっても甚だ不徹底なものである」
ここが、この節のいちばん厳しいところです。
七つ分かっていても、一つ引っかかっていれば、七つのほうも本当は分かっていない。
八割の理解は、八割の理解ではない。そういう検査でした。
本が、読者に点検を求める
もう一つ驚いたのが、この八つを示したあとの一文です。
著者は、ここまで読み続けてきた読者に向かって、この八大信条をどこまで信じられるようになっただろうかと問いかけ、各自で点検してみてほしい、と書きます。
本が、自分の読者に中間テストを出しているのです。
しかも、この節は本の終盤ではありますが、最後ではありません。章の中では、まだ三節を残した位置に置かれています。
答え合わせを、終わる前にやらせる。読み終わってから考えてください、にしない配慮だと読みました。
二百四十ページ余り説明してきたところで、「で、どこまで入りましたか」と聞く。
読む側からすると、逃げ場がありません。私は正直、いくつか引っかかりました。
引っかかったのは、三と五です。信仰の前提だからです。
欠点が見えるのは、良いものが働いている証拠
八つのうち、最初の二つは対になっています。
一の本具仏性は、もともと備わっているという前提。
二の自我迷執は、それを覆っている「自分」への執着は事実ではない、という前提。
本はこう書きます。私たちは五尺の肉体とそこに盛られた心を「自分」と考えて執着しているが、それは一種の迷信であり妄執であって真の事実ではない、と。
この二つをつなぐ一行も、置かれています。
「自我の迷執に気が付くということは、本具仏性の作用がそれだけ顕現したものということができる」
自分の執着に気づけたのは、良いものが働き出した証拠である。
欠点が見えることを、後退ではなく前進として読む。これは前に書いた魔境の話と同じ構造でした。
図2 欠点が見えるのは、良いものが働いている証拠
理念が八つ並んでいる会社
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。
伺った会社の壁に、行動指針が箇条書きで貼ってあることがあります。五つだったり、七つだったり、十だったり。
社員の方は、たいてい全部言えます。言えるのに、どれも行動に出ていないことがあります。
この節を読んで、その理由が一つ分かった気がしました。
八つを別々に覚えているからです。
本が言っているのは逆でした。一つの中に他の七つが入っている。だから一つでも本当に腑に落ちれば、残りは自明になる。
そう考えると、点検のしかたが変わります。全部を等しく浸透させようとするのではなく、どれか一つが本当に腑に落ちているかを見る。
そして、引っかかっている一つを探す。七つ分かっていて一つ引っかかるなら、その一つが全体の理解を止めている。
また、指針を作る側にいると、全部を等しく大事だと言いたくなります。順番をつけると、後ろのものが軽く見えるからです。
本の書き方は違いました。八つに序列はつけない。けれども、どれか一つから入れと言っています。等しく扱うことと、等しく着手することは別でした。
もう一つ持ち帰ったのが、気づけたことを前進として扱う姿勢です。
導入の途中で、現場から問題が噴き出す時期があります。前は後退だと受け取っていました。今は、見えるようになった分だけ前に進んだと読むようにしています。
まとめ——前提はセットで効く
要点は三つです。
- 八つはセットで効く。どの一つの中にも、他の七つが備わっています
- 一つでも引っかかれば、全部が不徹底。八割の理解は八割の理解ではありません
- 欠点が見えるのは、前進の証拠。明るくなるほど、暗いところが見えます
心を高める、経営を伸ばす。高まったかどうかは、引っかかっている一つが減ったかで測るのだと読みました。
この本は、最後をどう結ぶのか。次回は最後の章、第五章の結語を読みます。一冊の締めくくりです。
明日、一つだけやってみる
自社の行動指針を並べ、自分がいちばん引っかかっている一つを探してみてください。そこが突破口になるかもしれません。
よくある質問
Q. 宗教の前提を、そのまま仕事に持ち込めますか。
持ち込めないと思います。三の生命持続や五の諸仏実在は、信仰に属する前提です。
私が使えると思ったのは中身ではなく、八つがセットで効くという構造のほうです。本自身も、八即一・一即八という構造を要点に置いています。
Q. 「一つでも分からなければ全部不徹底」は、厳しすぎませんか。
厳しいと思います。ただ、本はそれを脅しとして書いていません。
引っかかっている一つを見つければ、そこが突破口になる、という読み方もできます。どこが分からないかが分かることは、進歩です。
Q. 会社の行動指針は、減らしたほうがよいですか。
数の問題ではないと思いました。本も八つを立てています。
問題は、別々に覚えられていることです。一つを掘ると他が見えてくる形になっていれば、数は多くても構わないのだと読みました。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第三章第八節「大乗仏教の八大信条」。本文241〜270ページ
- 八大信条は、同書が原田祖岳老師『参禅の秘訣』から引いているもの
- その原田老師が「例にならわれたものであろうか」として、同書は葛城慈雲尊者『十善法語』第十不邪見戒の章を挙げている
- 図1の各項目に付した短い説明は、同書の解説に基づく筆者の要約であり、原文の語句ではない
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像で字句を確認した(本文242・243・244ページ)
- 本文でお名前を記したのは原田祖岳老師のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
- 本記事は特定の宗教を評価するものではありません。八箇条の内容は同書の主張の紹介であり、記事が使っているのはその構造のみです
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