前回は、坐禅会に通う経営者たちの実話を読みました。3.11の翌日に福島へ戻った佐藤社長。全社員と面談して会社が一変した千田社長。どちらも、坐りつづけた人の話でした。
読んでくださった方から見れば、次に出てくる問いは一つだと思います。では、明日の朝、具体的にどう坐るのか。
今回はその話です。教える立場では書けません。私自身、10まで数えられるようになるまで1〜2年かかった人間だからです。同じところでつまずいている人に、その1〜2年の中身をお渡しするつもりで書きます。
私の坐禅は、朝5分
先に、いまの私の実際を書いておきます。立派な話ではありません。
- 時間——朝。1回5分
- 場所——自宅か、会社
- 頻度——週に数回
これだけです。毎日ではありません。会社で坐ることもあります。
なぜこの程度のことを最初に書くかというと、坐禅の記事を読んで多くの人が脱落するのは、たいてい「そんな時間はない」という一点だからです。
習ったのは「吸って吐いて1つ」を10回
私が窪田老師の坐禅会で習った数息観(すそくかん)は、単純です。数息観とは、自分の呼吸を数えることで心を一つにする坐禅の方法をいいます。
吸って、吐いて、1つ。また吸って、吐いて、2つ。
これを10まで数えたら、また1に戻る。10まで数えて1に返る、その繰り返しです。それだけです。
やってみるとわかりますが、これが続きません。
私の場合、最初は20とか30まで数えていました。10で1に返るはずが、気づくと数字だけが先へ進んでいる。
10でちゃんと返せるようになるまで、1〜2年かかりました。
数週間で変わりました、とは書けません。私の実感では年単位です。ただ、その1〜2年は「できない自分」に耐えた期間ではありませんでした。理由は次の節にあります。
同じつまずきが、本の巻頭に書かれていた
前々回に取り上げた山田耕雲老師の『禅の正門』を、あらためて開いたときのことです。
この本の巻頭「序にかえて」は、著者の娘である下村満子氏が1986年の新版に寄せた一文です。前々回にも登場した方です。小学校五年の夏休み、父に坐り方を教わったときの回想が、そこにあります。
父はこう言ったそうです。「朝晩、十五分ずつでいいから、みんな一緒に坐禅しよう」
そして、家族で坐り始めた当初のことを、こう書いています。
初心者向きの数息観をやっていても、いつの間にか、二十とか三十まで数えていたりする
——二十とか三十。
私が数十年後にやっていたことと、数字まで同じでした。
さらに第四章「坐禅の実行」には、こう書かれています。十まで行って一に返るつもりが、そのまま十一、十二、十三と続けていたり、いつの間にか妄想や雑念を追っていることがしばしばある。そんなときは、気づいたらいくつからでもよいから、すぐ一つに返って数え出せばよい。そして——「間違ったり、途中で途切れたからと言って別に気にすることは要らない」
1980年に出た本の第四章に、これが書いてあるわけです。
つまり私は、初心者が必ず通る道をそのまま通っていただけでした。自分だけができなかったのではない。そのことを、原典が保証してくれます。
坐禅がうまくいかないと感じている方に、まずお渡ししたいのはこの一点です。
図1 同じ教えが三度届いた——本に書かれたことを、法系を継いだ老師が語り、私が1〜2年かけて身につけた
本には、三つの数え方が書かれている
ここで、正確を期すために書いておきたいことがあります。
私が習った「吸って吐いて1つ」は、実は『禅の正門』の記述とは数え方が違います。
本によれば、数息観には三通りのやり方があります。
| 名称 | 数え方 | 10まで数えたときの呼吸 | 本が挙げる用途 |
|---|---|---|---|
| 出入息観 | 吸う息で「ひとつ」、吐く息で「ふたつ」 | 5回 | 最初に修練する基本 |
| 出息観 | 吐く息だけを数える | 10回 | 昏沈(眠気・ぼんやり) |
| 入息観 | 吸う息だけを数える | 10回 | 散乱(考えが止まらない) |
本は「出入息観から始めるのが一番自然でやりやすい」とし、三つに慣れたら症状に応じて使い分けよと説きます。「散乱の病を除くには入息観、昏沈の病を治するには出息観」——考えごとが止まらないときは吸う息を、眠いときは吐く息を数える、というわけです。
図2 数え方の違い——本の出入息観と、私が習ったやり方では、10まで数える間の呼吸数が違う
正直に書きますが、私はこの使い分けを意識したことがありません。散乱のときも眠いときも、吸って吐いて1つを10回、それだけです。
ですからこの三法は、本にそう書かれているという紹介にとどめます。私の実感としては語れません。
ただ、この「違い」を隠さずに書いておきたかったのには理由があります。坐り方を調べると、流派によって作法が少しずつ違います。そこで「どれが正しいのか」を確かめようとすると、たいてい坐る前に力尽きます。大事なのは、自分が習った一つを続けることのほうです。
「5分でいい」は、本にも書いてある
10年ほど前、坐禅会で窪田老師がその場の全員に向けて言われた言葉があります。
「1日5分でもいいので、坐禅を続けなさい」
私に個別に授けられた言葉ではありません。全体への話です。ただ、この一言が残りました。
そして『禅の正門』第四章を読むと、同じことが書かれています。
坐る時間の長短よりも、熱心か不熱心かのほうが効果に差をもたらす。仮に同じ熱心さで坐るなら、五分間なら五分間程度、一時間なら一時間程度、一日実行すれば一日相当の効果が得られる。だから——「短時間の坐禅は意味がないと思うのは間違い」
始め方についても具体的です。初心の人が自宅で独りで坐り始めるときは、まず五分くらいから始めるとよい。そこから七分、十分と延ばしていって、一坐はせいぜい三十分くらいが無難だ、と書かれています。
前々回は、私は「まずは朝晩15分」と書きました。矛盾しているように見えるかもしれません。そうではありません。15分は目標で、5分は入口です。私自身、いまも5分のままです。
つまずきの型——3つ
私が通ってきた道と、本の記述から、つまずきやすい型を3つ挙げます。
① 数えられないから、自分には向いていないと思う
いちばん多い脱落理由だと思います。しかし、二十とか三十まで数えてしまうのは、著者の娘も、私も通った道です。原典は「気にすることは要らない」と書いています。気づいた地点から1に戻る。それだけで十分です。
② 長く坐ろうとして、続かなくなる
30分で始めると、坐れない日が「失敗」になります。5分で始めれば、坐れない日はほとんど作らずに済みます。本も、五分から七分、十分へ延ばすことを勧めています。
③ やり方を調べすぎて、坐らない
私も、本の三法を知ったのは坐り始めてからずっと後です。順番が逆でも構いません。まず10回数えることです。
まとめ——1日5分を、次の人へ
今回書いたことは、これだけです。
- 吸って吐いて1つを、10まで。10まで行ったら1に戻る
- 数を間違えても気にしない。気づいた地点から1に返ればよい
- 5分でいい。短時間の坐禅は意味がない、というのは間違い
1980年の本に書かれていたことを、その法系を継いだ老師が坐禅会で語り、それを聞いた私が1〜2年かけて身につけました。いま私は、それを次の人に渡そうとしています。
先人の智慧を受け取り、自分の時代に合わせて実行する——本サイトがやろうとしているのは、要するにこういうことです。故きを温ねるとは、書棚を増やすことではなく、朝の5分を変えることでした。
心を高める、経営を伸ばす。その入口は、驚くほど地味な10回の呼吸です。
さて、ここまでの3回で、坐禅——「内」を修める道を見てきました。次回は目を「外」へ向けます。変化しつづける世界の構造を、どう読むか。易は「人生の構造」を読む地図である、という話です。
よくある質問
Q. 坐禅は何分から始めればよいですか。
5分で構いません。『禅の正門』第四章は、初心の人が自宅で独りで坐り始めるときは最初五分くらいから始め、七分、十分と延ばしていくのが無難だとしています。短時間の坐禅は意味がないと思うのは間違いだ、とも書かれています。私自身、いまも朝5分です。
Q. 数がすぐわからなくなります。向いていないのでしょうか。
向き不向きではありません。私は最初、20とか30まで数えていました。10で返せるようになるまで1〜2年かかっています。『禅の正門』の巻頭にも、著者の娘が家族で坐り始めた当初、二十とか三十まで数えていたという回想があります。原典は、間違ったり途切れたりしても気にすることは要らない、と書いています。気づいた地点から1に戻るだけです。
Q. 坐る場所や道具は、決めたほうがよいですか。
決めなくても始められます。私は朝、自宅か会社で坐っています。専用の部屋はありません。場所や道具を整えることが目的化すると、坐る前に力尽きます。まず10回数えることのほうが先です。
