京セラとKDDIを創業し、JALを再建した稲盛和夫氏。その経営の中核にあったのが「フィロソフィ」——人生哲学であり経営哲学である考え方の体系です。
前回、稲盛哲学のすべては「心を高める、経営を伸ばす」という一語に帰結するとお話ししました。ではその「心を高める」ための実践知であるフィロソフィを、稲盛氏はなぜあれほど執拗に、従業員に説きつづけたのか。
フィロソフィを社内に浸透させようとして、「社員に響かない」「反発される」と悩む経営者は少なくありません。稲盛氏自身、盛和塾の最後の世界大会に寄せた講話「フィロソフィをいかに語るか」で、この問題を正面から取り上げています。今回はこの講話を手がかりに、フィロソフィの本質を考えてみます。
フィロソフィは「潰れかけた会社の研究ノート」から生まれた
フィロソフィと聞くと、成功者が後付けでまとめた立派な教えのように思えます。しかし、その原点は京セラ創業前——稲盛氏が勤めていた、今にも潰れそうな松風工業時代にあります。
劣悪な環境の中でどういう心構えで仕事に向かうべきか。悩み、考え抜いたことを、稲盛氏は研究ノートの端に書き留めていきました。「仕事に徹し、謙虚な精神のもと、素直に物事に取り組んで、全身全霊を打ち込んでやろう」「我々は苦難を怖れない、正々堂々とやろう」「我々は人一倍やって、人並みのことができると考えよう」。後のフィロソフィの中核は、追い詰められた一人の技術者のメモの中に、すでにあったのです。
つまりフィロソフィとは、机上の倫理ではなく、どん底で「それでも良く生きるにはどうするか」を考え抜いた末の実践知でした。ここを押さえないと、フィロソフィはただの綺麗ごとに見えてしまいます。
前回「二層の故き」という言い方をしましたが、フィロソフィはまさにその実例です。稲盛氏は東洋の古典(第一層)に学びながら、それを自分自身の苦闘の歴史(第二層)で検証し、自分の言葉に鍛え直した。だからフィロソフィには、借り物の思想にはない体温があるのです。
浸透しない最大の原因は「動機の不純」
講話の中で稲盛氏が繰り返し強調するのは、フィロソフィを説く動機です。
フィロソフィを「従業員を働かせるためのツール」「業績を上げる手段」として使おうとする経営者がいる。しかしその打算は、口に出さなくても必ず従業員に伝わり、見抜かれる——稲盛氏はそう断言します。
稲盛氏自身が従業員にフィロソフィを説いた根底にあったのは、「こういう考え方で生きていけば、充実した幸せな人生を送ることができるはずだ」という純粋な思いでした。まず従業員の幸せを願う心があり、その上に「だからこの考え方を伝えたい」という信念が乗る。順番が逆になった瞬間、フィロソフィは浸透しなくなるのです。
実はこのことを、東洋の古典は数千年前から言い当てています。易経・文言伝にある「辞を修め、其の誠を立つ」——修辞立誠。言葉を磨くことと、内なる誠を立てることは一体であり、誠の立っていない言葉は、どれほど巧みでも人に届かない。フィロソフィが浸透するかどうかは、話術の問題ではなく、語る側の内側の問題だということです。ここでも順序は「内→外」——内なる動機が先で、外への浸透は結果にすぎません。
これは経営理念全般に言えることでしょう。額縁に飾られた社是が機能しないのは、内容が悪いからではなく、それを掲げる側の動機を社員が信じていないからです。
純粋な心はなぜ力を持つのか——「他力の帆」のたとえ
では、純粋な考え方がなぜ現実の成果につながるのか。稲盛氏は人生を航海にたとえて説明します。
思い通りの人生を送るには、まず必死に自力で船を漕がなくてはならない。しかし自力だけで遠くへは行けません。世の中に流れる「他力の風」を受けて、はじめて船は未踏の大地へ進める。そして、その風を受けるための帆こそが自分の心である。邪な心で張った帆は穴だらけで風を受けられず、純粋で美しい心で張った帆だけが、追い風をいっぱいに受けられる、と。
図1 他力の帆——同じ風が吹いても、帆(=心)の状態で行き先がまるで変わる
フィロソフィを学び実践することは、この帆を繕い、心を磨く営みそのものだというのが稲盛氏の確信でした。二度の受験失敗、肺結核、就職難という不遇から始まった自身の人生が想像を超えて開けたのは、能力でも運でもなく、考え方の力だった——稲盛氏はそう総括しています。
「知っている」では何も起きない——知識・見識・胆識
もうひとつ、この講話で重要なのが、東洋思想家・安岡正篤の「知識・見識・胆識」という枠組みです。
フィロソフィを本で読み、話を聞いて「知っている」——これは単なる知識にすぎません。それが「こうしなければならない」という信念にまで高まって見識となり、さらに「何があろうが絶対に実行する」という決意に裏打ちされて胆識となる。そこまで高まってはじめて、語る言葉が人の心に届くようになります。
図2 知識・見識・胆識——「知っている」と「信念として実行する」の間にある決定的な距離
稲盛氏は、フィロソフィを学んだつもりで語る経営者の多くが「フィロソフィ読みのフィロソフィ知らず」に陥っている、と指摘しました。知識のまま語るから、従業員に伝わらないのです。
耳の痛い話です。私たちは本を読み、セミナーに出て、「知っている」ことを増やしがちです。しかし問われているのは、そのうちのいくつを信念にまで高め、実行しているのか、ということなのです。修辞立誠の言葉に戻れば、胆識とは「誠が立った」状態のこと。言葉が届くかどうかは、この段をどこまで上がったかで決まります。
まとめ:フィロソフィとは「生き方の実験」である
整理すると、稲盛フィロソフィの本質は次の3点に集約できます。
- フィロソフィは苦境の中の実践知——潰れかけた会社で考え抜かれた「良く生きるための技術」であって、成功者の飾り物ではない。古典(第一層)を自分の歴史(第二層)で検証した「温故知新」の産物である
- 動機の純粋さがすべての土台——従業員の幸せを願う心なくして、フィロソフィは一行も浸透しない。修辞立誠——誠の立たない言葉は届かない
- 知識ではなく胆識まで高める——読んで知ることと、信念として実行することの間には、決定的な距離がある
フィロソフィとは、暗記する教典ではなく、自分の人生で検証しつづける「生き方の実験」なのだと思います。稲盛氏が80年を超える人生をかけて実験し、「間違いではなかった」と結論づけたその考え方を、次は自分の人生と経営で試してみる。それがフィロソフィを学ぶということではないでしょうか。
そして、心を磨くことがこれほど重要なら、その心は経営の「数字」にどう現れるのか。次回は、フィロソフィから最も遠く見えて実は地続きの世界——会計に分け入ります。「会計がわからんで経営ができるか」。数字は、経営者の心を映す鏡です。
よくある質問
Q. フィロソフィが社員に浸透しません。何が原因ですか?
稲盛氏は動機の問題だと断言しています。フィロソフィを「働かせるためのツール」として使う打算は、口に出さなくても従業員に見抜かれます。まず従業員の幸せを願う心があり、その上に「伝えたい」という信念が乗る——この順番が逆になると一行も浸透しません。
Q. フィロソフィは、成功者の綺麗ごとではないのですか?
原点は京セラ創業前、潰れかけた松風工業時代の研究ノートです。どん底で「それでも良く生きるにはどうするか」を考え抜いた実践知であって、後付けの飾り物ではありません。
Q. フィロソフィを勉強しているのに、経営が変わらないのはなぜですか?
「知っている」(知識)に留まっているからです。信念に高まって見識となり、「何があろうが絶対に実行する」決意に裏打ちされて胆識となる——そこまで高まってはじめて、行動が変わり、語る言葉が人に届きます。
