前回の結びに、こう書きました。自力を尽くし、従業員に、そして宇宙に応援される——その一切の土台にあるのは、経営者の「心」である。では、心はどうやって高めるのか。まずは坐禅の話から、と。
今回は、その約束の続きです。結論を先に言います。心を高めるために、坐禅をする。これが本記事の答えであり、稲盛哲学の源流をたどった先にある実践です。
取り上げるのは、山田耕雲老師の『禅の正門』。1980年に出版された在家者向けの禅の実践的入門書で、今も入門書の白眉として評価の高い一冊です。著者は一高・東大を出て実業界に身を置きながら、鎌倉で修行を積み、後に三宝教団を率いた「在家禅」の巨人。まさに、働きながら坐る人のために書かれた本です。
本サイトの言い方をすれば、これは第一層の「故き」——先人が残した古典——を温ねる回です。ただし、この古典は書棚の中の教養では終わりません。盛和塾の経営者たちが、実際に歩いた道につながっています。
稲盛と禅は、最初からつながっていた
この本の再版(2010年)の序文に、驚くべきことが書かれています。
著者の娘である下村満子氏は、父の死後、家業の理事長職を継いだ際に盛和塾に入塾し、稲盛哲学を学びます。そして「心を高める、経営を伸ばす」という塾長の教えに沿って、盛和塾の有志経営者たちと東京で「心を高める坐禅の会」を立ち上げました。坐禅の後には、この『禅の正門』の輪読をしていた——手に入らなくなり皆が困ったことが、再版のきっかけになったといいます。
さらに、山田耕雲老師の三雲禅堂(鎌倉)を継いだのが、窪田慈雲老師。仏教をベースにした稲盛哲学と、在家禅の系譜は、こうして現実の場でも一本につながっていました。「心を高める」の方法論を禅に求めるのは、こじつけではなく、盛和塾の経営者たち自身が歩いた道なのです。
図1 稲盛哲学と在家禅の系譜——二つの流れは「心を高める坐禅の会」で一本につながった
禅は何をしてくれるのか——三大目的
『禅の正門』の中核は、第二章「禅の三大目的」です。禅が人間に果たしてくれる役割を、山田老師は3つに整理します。①定力の練磨、②見性悟道、③人格の完成。この3つを知ると、「経営者が坐る」ことの意味が驚くほどクリアになります。
図2 禅の三大目的——「心を高める」の中身を、経営者の言葉に置き換える
目的①:定力の練磨——判断の質は、心の静けさで決まる
定力とは、精神集中の力、言い換えれば環境に引き回されない不動心のことです。
山田老師の説明で印象的なのが、鏡のたとえです。心は鏡のようなもので、波立ち動揺している鏡には外界が正しく写らない。写りが歪んでいれば、そこから正しい判断は出てこない——。同僚の昇給額が自分より少し多いと聞いただけで心が波立ち、悪口を耳にすれば嫉妬や猜疑が起こる。それが凡夫の日常だと老師は言います。経営者の一日など、まさに心を波立たせる出来事の連続でしょう。
本書には、戦時中ラバウルの地下壕で、敵機の来襲を受けながら毎日坐禅をしていた司令長官・草鹿中将の逸話が出てきます。理由を問われた中将の答えは「判断を誤ると困るからね」という一言でした。極限状況で判断を誤らないために坐る——これほど経営者に響く坐禅の効用があるでしょうか。
ただし老師は釘を刺します。定力は「有漏定(うろじょう)」、つまり底に穴のあいた桶の水のように、鍛錬を怠れば漏れて元に戻る。だから坐りつづける必要があるのです。
目的②:見性悟道——羅針盤を手に入れる
二つ目の見性悟道(けんしょうごどう)は、禅の中核をなす「悟り」の体験です。これがなければ禅は単なる思想に堕してしまう、と老師は繰り返し強調します。
面白いのは、あの西田幾多郎のエピソードです。日本を代表する哲学者が、随筆の中で、雲門禅師の「日日是好日」の一句に「死命を制せられる」ように感じる、と告白していた。生涯を思索に捧げた大哲学者でさえ、考えることでは触れられない何かが禅の一句にはある。哲学は対象の周囲を巡ることはできても、そのものに直接触れることはできない——これが老師の見立てです。
そして見性を、老師は書道にたとえます。見性とは、書の善し悪しが見えるようになることだ、と。善し悪しが見えなければ、どこを目指して稽古すればいいかわからない。羅針盤なしの航海になってしまう。だからまず「見える」ようになることが先決なのだと。
経営に引きつければ、これは「判断基準を持つ」ことに相当します。稲盛氏が「人間として何が正しいか」という一点を羅針盤にしたように、ブレない基準が先にあってはじめて、日々の稽古(経営)に方向が生まれるのです。
目的③:人格の完成——「心を高める」の正体
そして三つ目が、人格の完成です。ここで、稲盛哲学との回路が完全につながります。
山田老師は人格をこう定義します。人格とは、人間の本質が、現象としての人間の上に具体的に顕れた度合いである、と。そして私たちが「人格者だ」と直感的に感じるのは、地位の高い人でも大富豪でもなく、自他対立の感情の薄い人だというのです。
書の善し悪しが見えても(見性)、その通りに筆が動くようになる(人格化)には、それからの稽古が大変である。頭で「自他は一つ」とわかっても、条件反射的に対立の感情は頭をもたげる。他人の悲しみを心から一緒に悲しみ、他人の喜びを自分の喜びと感じられるようになるまで、倦まず弛まず坐りつづける。これが悟後の修行です。
お気づきでしょうか。「自他対立の感情の薄い人」とは、稲盛氏の言葉で言えば「利他の心」の人です。稲盛哲学の「心を高める」とは、禅の言葉に翻訳すれば「自他の対立を薄め、人格を完成に近づけること」。二つの体系は、同じ山を別の登山口から登っていたのです。
まとめ:経営者にとっての坐禅
三大目的を経営者の言葉に置き換えると、こうなります。
- 定力——心の波を鎮め、判断の質を上げる(ただし漏れるので、続けること)
- 見性——思考では届かない次元で、ブレない羅針盤を得る
- 人格の完成——利他を「知っている」から「そのように生きられる」へ
修養書をいくら読んでも心は言うことを聞いてくれない、坐禅の実行こそ最善最良の捷径だ——と山田老師は言い切ります。フィロソフィを「知識」から「見識」へ、さらに「胆識」へ高める具体的な方法を、私たちはここに見つけることができます。
心を高めるために、坐禅をする。まずは朝晩15分、坐ってみる。「心を高める、経営を伸ばす」への道は、この一炷の坐から始まるのだと思います。
次回は、この系譜の実例集です。三雲禅堂を継いだ窪田慈雲老師と、坐禅会に通った経営者たちの実話——大難を「よし来た!」と正面から受けた人たちの記録を読みます。
よくある質問
Q. 坐禅は、何から始めればよいですか。
まずは朝晩15分、坐ってみることです。修養書をいくら読んでも心は言うことを聞いてくれない、坐禅の実行こそ最善最良の捷径だ、というのが山田老師の結論です。「心を高める」は、知識ではなく実行の話です。
Q. 坐禅の効果は、続けないと消えてしまうのですか。
消えます。定力は「有漏定」、つまり底に穴のあいた桶の水のようなもので、鍛錬を怠れば漏れて元に戻ります。だからこそ坐りつづける必要がある、と老師は釘を刺しています。一度の体験ではなく、日々の習慣として組み込むことが前提です。
Q. 禅と稲盛哲学は、どう関係するのですか。
稲盛哲学の「心を高める」を禅の言葉に翻訳すれば、「自他の対立を薄め、人格を完成に近づけること」です。実際、盛和塾の有志経営者たちは「心を高める坐禅の会」で坐り、『禅の正門』を輪読していました。二つの体系は、同じ山を別の登山口から登っています。
