熱の中で決めるな——菜根譚が教える「境界線」の引き直し方

前回、菜根譚の中巻から「満たすな、余白を残せ」という知恵を受け取った。余白とは、身体に、事業に、他者との間に、意図的に空けておく空間のことだった。では、その余白は、どこまで広く取ればいいのか。真剣に、本を読む会シーズン3の第11回・第12回——菜根譚を読む半年の締めくくり——が扱ったのは、まさにこの問いだったと思う。答えを先に言えば、こうなる。余白は空間だけの話ではない。時間にも余白がいる。そして、その広さを決めているのは、自分がどこに「境界線」を引いているかである。

第12回の冒頭に、論語の一句が掲げられていた。「人、遠きを慮らざれば、必ず近き憂いあり」(衛霊公篇)。遠くを考えない人は、必ず近くの心配事に追われる。境界線を手前に引けば引くほど、目の前のことがすべてになり、判断は狂っていく。菜根譚の下巻的なテーマは、この線を遠くへ引き直す技法だった。

目次

熱の中で決めるな——臨事の痴迷と事後の悔悟

菜根譚の第二十六則は、誰もが身に覚えのある観察から始まる。「飽後に味を思えば、すなわち濃淡の境みな消え、色後に婬を思えば、すなわち男女の見ことごとく絶ゆ」。満腹になってから料理の味を思い返せば、濃いも薄いもどうでもよくなっている。欲が去れば、執着も消えている。つまり——欲の最中に見えている世界は、事実そのものではない。 欲望というレンズは、世界を誇張して映す。

だから人は「事後の悔悟をもって、臨事の痴迷を破る」べきだと菜根譚は言う。臨事の痴迷とは、渦中にあるときの、のぼせ、執着、判断の狂い。事後の悔悟とは、終わったあとに生まれる後悔、目覚め、冷静さ。普通、後悔は後ろ向きな感情として片づけられる。しかし菜根譚の使い方は逆だ。反省は、次の迷いを破るための武器である。 あの熱に浮かされた判断を、冷めた頭で思い返す。その記憶を、いま目の前にある熱に対して差し向ける。「これも、あとで思い返せばのぼせだったと分かるのではないか」と。

講義で紹介された亀井勝一郎の言葉が、この技法の核心を突いている。「ただ一回の愚行は愚行ではない。愚行はそれがくりかえされるがゆえに愚行となる」。一度の失敗は授業料だが、同じ失敗を繰り返すのは、事後の悔悟を武器化できていない証拠だ。そしてこの武器をさらに一段進めたのが、大和信春の言う「予悔」——あらかじめ悔いる、である。まだ起きていない失敗を、先回りして悔いておく。事前に考え抜くことで、熱が来る前に冷却装置を仕込んでおく。時間の境界線を、未来側へ引き直す技法だ。

後悔を「武器」に変える三段階 時間 臨事の痴迷 渦中ののぼせ・執着 世界が誇張されて見える 熱の中 事後の悔悟 終わったあとの目覚め 反省=次の迷いを破る武器 熱が冷めたあと 予悔 あらかじめ悔いる 熱が来る前に冷却を仕込む 熱が来る前 「ただ一回の愚行は愚行ではない。愚行はそれがくりかえされるがゆえに愚行となる」(亀井勝一郎) 悔悟を過去に置き去りにせず、未来へ先回りさせる

図1 臨事の痴迷→事後の悔悟→予悔——後悔は時系列を遡って武器になる

心を見る菜根譚、手順を持つドラッカー

第11回の講義が面白かったのは、この菜根譚第二十六則を、ドラッカーの意思決定論と並べて見せたことだ。ドラッカーは正しい意思決定の要件として、意見からスタートすること、現場を見ることを挙げる。そして意見の不一致が必要であること——全員一致のときには重要事項を決めないこと——を続ける。さらに「成果をあげる決定は苦い」とも言う。

一見、東洋の古典と経営学は別世界のようだが、両者は同じ敵と戦っている。敵の名は、判断の狂いだ。ただしアプローチが違う。菜根譚は、判断を曇らせる「心」を見る。ドラッカーは、判断を誤らせない「手順」を持つ。 内側からの修養と、外側からの仕組み。どちらか片方では足りない。心だけ磨いても手順がなければ属人的な名人芸で終わり、手順だけ整えても心が熱に浮かされていれば、正しいステップを踏みながら間違った結論へまっすぐ進む。稲盛和夫がフィロソフィ(心)とアメーバ経営・会計原則(手順)を必ずセットで説いたのも、同じ構造だったのだと、ここで腑に落ちた。

成功の中に山林を持て——空間の境界線

第二十六則が時間の話だとすれば、第二十七則は空間の話である。「軒冕の中に居りては、山林的の気味なかるべからず。林泉の下に処りては、すべからく廊廟的の経綸を懐くを要すべし」。軒冕とは地位・名誉・出世の場、山林・林泉とは自然と自由の場、廊廟とは政治と社会を担う責任の場。つまり——責任の場にいるときこそ、静けさを内側に持て。自由の場にいるときこそ、世の中を担う視点を忘れるな。

片方だけではどうなるか。山林だけなら現実逃避になる。廊廟だけなら消耗と傲慢になる。両方を内側に持つことで、はじめて偏りが消える。忙しい経営者ほど意図的に余白を持ち、自由な立場の人ほど責任ある視点を持つ。これは前回の「余白」の議論と、そのままつながっている。坐禅が経営者にとって単なる休息ではなく「軒冕の中の山林」であることも、この則を読むとよく分かる。

軒冕と山林——両方を内側に持つ(第二十七則) 山林(静けさ・自由)あり 山林なし 廊廟なし 廊廟(責任)あり 偏りが消える 責任の中に静けさを持ち 自由の中に世を担う視点を持つ 現実逃避 山林だけ——世から降りてしまう 消耗と傲慢 廊廟だけ——余白を失い燃え尽きる どちらもない(漂流)

図2 軒冕×山林の四象限——片方だけでは逃避か消耗、両方持つと偏りが消える

初心を尋ね、末路を観る——時間の境界線を最大に引く

そして第三十則。菜根譚を読む半年の、事実上の到達点がここだと思う。「事窮まり勢い蹙まるの人は、まさにその初心を原ぬべし。功成り行い満つるの士は、その末路を観んことを要す」。追い詰められている人を見るときは、その人の最初の志を見よ。成功の絶頂にいる人を見るときは、その人の終わり方を見よ。「今」だけで人を判断するな、ということだ。

宿題は、この二つの視点を現実の人物で試すことだった。私が「苦悩中の人」として挙げたのは、旧マイクロストラテジー(現ストラテジー)のフォン・レー氏である。BIツールの老舗を率いるソフトウェアの人だった同社CEOは、いま会社を事実上のビットコイン投資会社へと変貌させた。急落によって一四半期で2兆円規模の評価損を計上する渦中にある。これが臨事の痴迷なのか、初心に根ざした冷静な判断なのかは、末路を見るまで誰にも分からない。ただ、「どう始めた会社で、どう始めた人なのか」という視点を持つだけで、同じニュースの見え方がまるで変わった。

「活躍中の人」はイーロン・マスク氏を挙げた。スペースXの上場で人類史上初のトリリオネアとなった、まさに「功成り行い満つるの士」の極みである。興味深いのは、上場書類に彼への報酬条件として「火星に百万人が住む恒久的なコロニーを作ること」が書き込まれていることだ。この人は、自分の末路をあらかじめ火星に置いている。壮大な予悔なのか、史上最大の臨事の痴迷なのか——終わり方に本性が出るという言葉を胸に、観察を続けたい。

宿題を書きながら気づいたのは、こういうことだった。目の前の成功や苦境という「今」だけを見ていると、境界線はどんどん手前に寄ってくる。 初心を尋ねるとは、境界線を過去の遠くへ引くこと。末路を観るとは、未来の遠くへ引くこと。二十年後の自分の末路から今日を観れば、「あのとき、あれをやっておくべきだった」と思わないための一手が、今日打てる。冒頭の論語がここで回収される。遠きを慮ることは、近き憂いへの最強の予防なのだ。

境界線をどこに引くか(第三十則) 線が手前 「今」がすべてになる → 熱で決める → 必ず近き憂いあり 線が遠く 初心 どう始めたか 末路 どう終わるか 初心を尋ねる 末路から今日を観る 「人、遠きを慮らざれば、必ず近き憂いあり」(論語・衛霊公篇) 遠きを慮ることが、近き憂いへの最強の予防になる

図3 境界線が手前だと「今」がすべてになる。初心と末路まで線を引き直すと、今日の一手が変わる

根を深くする——無意識の水位を満たす

前回の末尾に「根をどこまで深く張れるか」と書いた。その答えの手がかりが、第12回で紹介された探検家・角幡唯介の言葉にあった。彼は言う。きっかけは偶然だとしても、中身は必然だ。思いつきは、無意識の中ですでに胎動していたものが、あるきっかけで、コップの表面で張力を保っていた水があふれ出すように意識にのぼってきたものだ。そして——何かきっかけがあればすぐにあふれ出すように無意識の層を満たしていないと、思いつきを実行に移すことはむずかしい。

根を深くするとは、この水位を日々満たしておくことだと思う。古典を読み、坐禅を組み、宿題を書く。すぐに役立たない学びの一つひとつが、無意識の層に水を注いでいる。水位が満ちていれば、機会というきっかけが来たとき、ためらいなくあふれられる。ニーチェの言うとおり、人は完成した存在ではなく、生成の途中にある存在だ。苦境のレー氏も、絶頂のマスク氏も、そして自分も、まだ途中にいる。だからこそ心を高めることをやめない——それが経営を伸ばす水位を、見えないところで満たしつづける。

まとめ——半年の菜根譚から持ち帰るもの

  • 欲の最中に見えている世界は、事実そのものではない。だから熱の中で決めない(第二十六則)
  • 反省は武器である。事後の悔悟を先回りさせた「予悔」で、熱が来る前に冷却を仕込む
  • 心を見る菜根譚と、手順を持つドラッカー。修養と仕組みはセットで効く
  • 責任の中に静けさを、自由の中に責任を。両方持つと偏りが消える(第二十七則)
  • 初心を尋ね、末路を観る。境界線を過去と未来の遠くへ引き直す(第三十則)
  • 根を深くするとは、無意識の水位を日々満たすこと。学びはその注水である

染まるな、淡くせよ(上巻)。満たすな、余白を残せ(中巻)。そして、熱の中で決めるな、遠くに線を引け(下巻)。三冊分を貫いていたのは、世間の熱からほどよい距離を取り、自分の判断力を守り抜く技法だった。二周目「読む」の菜根譚はここでひと区切りとなる。次に開くのは、佐藤一斎『言志四録』——一斎が四十代から八十代まで書き継いだ語録である。菜根譚が「距離の取り方」の書だとすれば、言志四録は「志の立て方」の書だ。線を遠くに引いたその先に、何を目指して歩くのか。続けて読んでいきたい。

よくある質問(FAQ)

Q. 「予悔」とは何ですか?

大和信春の言葉で、あらかじめ悔いる——事前に考え抜くことです。まだ起きていない失敗を先回りして悔いておくことで、熱が来る前に冷却装置を仕込みます。菜根譚の第二十六則が説く「事後の悔悟をもって、臨事の痴迷を破る」を、未来側へ一段進めた技法です。

Q. 「初心を尋ね、末路を観る」とはどういう意味ですか?

菜根譚の第三十則の教えです。追い詰められている人を見るときはその最初の志を見よ、成功の絶頂にいる人を見るときはその終わり方を見よ——「今」だけで人を判断するな、ということです。初心を尋ねるとは境界線を過去の遠くへ、末路を観るとは未来の遠くへ引き直すことでもあります。

Q. なぜ「熱の中で決めるな」なのですか?

欲の最中に見えている世界は、事実そのものではないからです。欲望というレンズは世界を誇張して映すため、渦中の判断は狂います。だから熱が冷めたあとの反省を武器にし、さらに予悔で熱が来る前に手を打つ。時間の境界線を遠くへ引くことが、判断力を守ります。

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この記事を書いた人

Takuomi Mochidaのアバター Takuomi Mochida 株式会社ベンチャーネット代表取締役

株式会社ベンチャーネット 代表取締役
2005年に株式会社ベンチャーネットを設立後、SEOをはじめとするデジタルマーケティング領域のコンサルティングサービスを展開
広告・SNS・ウェブ・MA・SFAと一気通貫で支援を行っています
著書に『普通のサラリーマンでもすごいチームと始められる レバレッジ起業 「バーチャル社員」があなたを救う』(KADOKAWA、2020年)

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