言志四録の総論で、書を読むことは我が心を読むことだ、という一行を見ました。では、読むのではなく、書くこと、話すことは何を決めているのでしょうか。今回は「言葉」の話です。佐藤一斎は言志録の十五で、それを四つの字にまとめています。修辞立誠——辞を修めて、誠を立つ。
二千年前から、言葉は誠の入口だった
修辞立誠の出典は易経です。十ある解説書のうち、文言伝という一書。乾と坤の二つの卦だけを扱う、かなり特殊な解説書です。その乾の三爻の解説に、この言葉が置かれています。佐藤一斎はそこから四字を借り、言志録に据えました。四十二歳から書き継がれた語録です。
森信三はこの一行を、こう訳しています。人間が誠というものを身につけるには、まず言葉を修めることから始めなければならぬ。順序が明快です。誠が先にあって言葉が整うのではない。言葉を整えることのほうが、誠の入口になる。
同じことを、まったく別の伝統も言っています。仏典のスッタニパータは、神々がブッダに、最高の幸せとは何かを問う場面から始まります。答えは段階に分かれていて、第一段階は愚かな者に親しまないこと。第二段階は適切な場所に住むこと。そして第三段階に、良き言葉を話すことが挙がります。
洋の東西を問わず、言葉はたしなみとしてではなく、人が人になるための条件として扱われてきた。まずはそこを押さえておきます。
私たちは、言葉に縛られている
では、その言葉を私たちはどれだけ自分で選んでいるのでしょうか。ここで一度、フランスに寄り道します。
ロラン・バルトは、言葉を三つの層に分けました。
一つ目がラング。母語のことです。日本人として生まれた瞬間に、私たちは日本語という枠の中に入れられます。バルトはこれを外的規制と呼びました。
二つ目がスティル。癖です。話し方の癖、方言。抜こうとしても抜けません。抜いた途端に、その人らしさのほうが壊れてしまう。こちらは内的規制です。
三つ目がエクリチュール。あえて訳せば、振る舞いでしょうか。同じ人が、会議では経営者の言葉を使い、部下と話せば上司の言葉になり、家に帰れば父親の言葉になる。誰にも命じられていないのに、そうなります。無意識の縛りです。
図1 言葉の三層——外から母語に、内から癖に、そして無意識の振る舞いに縛られている
つまり私たちは、思ったことを言葉にしているのではありません。持たされた言葉の枠の中で、思っている。バルトが言いたかったのはそこでした。
時間の向きが、逆だった
ここまでなら、人は構造に縛られている、という話で終わります。ところが、その先に思考の逆転が待っていました。
「言語は未来から現在を通して過去に流れる」
読んだだけでは意味が取れないと思います。理屈はこうです。私が話し始めた時点で、話し終わりはすでに想定されている。文を書き始めた時点で、その文の終わりも想定されている。まだ起きていないもの、つまり未来のほうが、いま口に出す言葉を規定している。デリダはこのずれを差延と呼びました。まだない先と、いま起きていることの、要素の違いです。
そこから、こういう定式が出てきます。
「現在が過去に構造を与えて、未来が現在に構造を与える」
図2 時間の向きの逆転——過去に縛られているのではなく、今日の言葉が未来から構造を与えている
構造主義は、過去の構造が私たちを縛ると言いました。ポスト構造主義は、その構造そのものが未来から来ると言ったわけです。順番が入れ替わります。
岡本吏郎先生は、この理屈をこう言い直しています。「今現在、ここでお前が使う言葉、それが構造を決めてるんだ」。もっと踏み込めば、それが人生を決めてしまう、と。
過去に縛られて人生が決まっているのではない。今日どんな言葉を使うかが、これからの構造をつくっている。学ぶことに意味があるのは、時間の向きがこちらだからです。
古代中国は、これを四字で言った
面白いのは、この結論が二千年以上前にすでに出ていたことです。
バルトはラング、スティル、エクリチュールと分類しました。デリダは差延という造語までつくりました。そうしてようやく、言葉が人生に構造を与えるというところに着いています。古代中国は、同じことを修辞立誠の四字で言い切っていました。
佐藤一斎は言志後録の十でも、同じ主題に戻っています。天地の間で霊妙不可思議なものといえば、人の言葉に及ぶものはない。講義では、この一行で十分だとして先へ進みました。
この重なりが、このサイトで繰り返している温故知新です。第一層の故き、つまり人類の古典が骨格を先に示し、後から来た理屈がそれを長い言葉で言い直す。順路が違うだけで、着いている場所は同じでした。
経営者は、いちばん言葉を配る人である
ここからが第二層、自分と自社の話になります。
経営者は、社内でもっとも多く言葉を配る人です。朝礼、面談、会議、チャット。その言葉が組織の構造をつくっている、というのが今日の話の帰結になります。
問題は、配る言葉が借り物になりやすいことです。
岡本先生はこれをクリシェと呼びます。使い古された言葉のことです。とりわけ流行り言葉が危ない。流行り言葉はすぐ古びます。それを使うということは、自分の人生の一部を、誰かの支配に差し出す行為だというのです。
厳しい言い方ですが、思い当たる場面はあるはずです。よそで聞いた言葉を、そのまま社内で使う。中身を確かめないまま、響きのよさだけで配ってしまう。
図3 借り物の言葉と、自分の言葉——選び直す作業は地味だが、順序は内から外
対処は地味です。辞書を引く。類語辞典を見る。多用されている言葉を避けて、自分の言葉を選び直す。岡本先生がライティング道場で受講者に求めているのも、この一点でした。糸井重里の言葉が刺さります。「つまらない文章を書く人は、やはりつまらない」。
ただし、ここで順序を間違えないことです。上手い言葉を探すのが目的ではありません。修辞立誠の順序は、言葉を修めることが誠の入口になる、でした。外向きの表現技術ではなく、内側を整えるための作業です。
稲盛和夫が生涯かけて説いたのも、結局この順序でした。心を高める、経営を伸ばす(稲盛00)。心が先で、経営は結果です。言葉は、その心のいちばん外側に出てくるところにあります。だからこそ、言葉から手をつけられる。
むすび
島崎藤村の一行を置いておきます。「新しき言葉はすなわち新しき生涯なり」。新しい言葉が、そのまま新しい生涯になる。今日使う言葉がこれからの自分を決めるという話を、藤村はこの短さで言い切っています。
言葉を修めるとは、語彙を増やすことではありません。よそから来た言葉を疑い、自分の中を通してから配る。それだけのことを、毎日繰り返すという話です。
さて、天から与えられた本質を、どう伸ばしていくのか。その法則のことを、東洋では道と呼んできました。次回は、その道の話に進みます。道とは道徳のことではなく、目標に到達するための変わらないルールである——そういう定義から始めましょう。
よくある質問
Q. 修辞立誠とは、どういう意味ですか。
辞を修めて、誠を立つ。言葉を整えることが、誠を身につける入口になる、という意味です。出典は易経の文言伝で、佐藤一斎が言志録の十五に据えました。森信三は、人間が誠を身につけるには、まず言葉を修めることから始めなければならぬ、と訳しています。誠が先にあって言葉が整うのではなく、順序が逆である点が要点です。
Q. 「今使う言葉が構造を決める」とは、具体的にどういうことですか。
私たちはふつう、過去の経験が現在の自分をつくったと考えます。ポスト構造主義はその向きを逆に見ました。話し始めた時点で話し終わりが想定されているように、言葉は未来のほうから流れてくる。だから、今日どんな言葉を使うかが、これからの構造をつくっているという理屈です。過去に縛られて決まっているのではない、という点が経営者にとっての要点になります。
Q. 社内で使う言葉を見直したいのですが、何から始めればよいですか。
まず、よそから借りてきた言葉を洗い出すことです。流行り言葉や、どこかで聞いて響きがよかっただけの言葉。それを社内で配っていないか点検します。そのうえで、辞書や類語辞典を使い、多用されていない言葉に置き換えていく。地味な作業ですが、上手い表現を探すためではありません。内側を整えるための作業だと考えると、続けやすくなります。
