この記事でわかること
- 桜の花びらを籠に入れ続ける子供たちと「担雪埋井」の話
- 禅は積み重ねたものを積み下ろす修行だ、という特集テーマの裏返し
- 「自分なき自分が、道なき道を」という老師の言葉の読み方
前回は、仏様を目指す道ではなく、仏様という道という言い方を読みました。
この対談も、これが最後の場面になります。
特集のテーマは「積み重ね 積み重ねても また積み重ね」でした。聞き手はその言葉から、意外なものを思い浮かべます。幼稚園の子供たちです。
そこから聞き手は、特集テーマを裏返していきます。禅は、積み重ねたものを積み下ろす修行ではないか、と。子供たちの遊びが、なぜそこにつながるのか。
桜の花びらを、籠に入れ続ける子供たち
聞き手は、こう語っています。
桜が咲く四月、コロナ禍で幼稚園が休園になったために、子供たちはお寺の境内に集まって遊んでいました。
すると、彼らは下に落ちた桜の花びらを自転車の籠に、繰り返し、繰り返し入れ始めたんです。
結果は、見えています。
当然、籠ですから、風で飛んでいったり、下の隙間からどんどん花びらは落ちていきます。
それでも——
子供たちは、きゃっきゃっと楽しそうに花びらを繰り返し入れていきます。
この光景を見たとき、聞き手はこう思ったといいます。これこそ白隠禅師の「担雪埋井」——雪を担いて井を埋む——そのものだなと。
老師の受けはこうでした。
井戸を雪で埋めるように、無駄に思えることでも一所懸命取り組む。私たちもその子供たちの姿勢を見習いたいものですね。
図1 担雪埋井——雪を担いで、井戸を埋める。溜まらないと分かっていて、それでも続ける
積み重ねるのではなく、積み下ろす
ここから、聞き手は特集テーマを裏返します。
禅はある意味では、積み重ねてきたものを一つひとつ積み下していく修行なのではないかなと思うんです。
積み重ねる話をしていた場で、積み下ろすと言っています。
そして究極的には「我」がない、無我の境地に至る。ただし、と続きます。
それがゴールではなく、そこからまた積み重ねては積み下ろすという修行が続いていくと。
さらに——
それはやはり、自分がない自由な無我の境地であってこそ、初めてできることだと思うんですね。
図2 積み重ねても、また積み下ろす——特集テーマ「積み重ね 積み重ねても また積み重ね」への、聞き手の答え
自分なき自分が、道なき道を
対談の最後に、聞き手が紹介したいと言った言葉があります。
聞き手は以前、老師の講演のあとにこう質問したそうです。我というものが人を苦しめたり、争いを起こしたりするのであれば、皆が無我になれば人類は幸せになるのでしょうか。
老師の答えが、これでした。
自分なき自分が、道なき道を、目的なき目的を目指して生きればよい
聞き手は、この言葉を受けてこう語っています。たとえ目的やゴールがないとしても、それで終わりではなくて、だからこそ日々の修養をコツコツ積み重ね、自分に与えられた役割を精いっぱい果たしていきたい。
そして、老師の返しです。
そんないい言葉を言ったかな(笑)。
老師は、そのうえで最後にこう言っています。お釈迦様の本質は何かと考えると、結局それはあらゆる観念から「ほど(仏)けた人」だと思う、と。
自分は偉い、自分はすごいんだという「私」を中心とした観念からほどけた人。
私が降ろしたのは、この記事だった
積み上げてきたものを自分で降ろした経験はあるか——そう考えて、すぐ思い当たったのが、この記事群そのものでした。
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。二十年以上、自分の方法論を積み上げてきました。
その方法論を、いったん古典の側に預けて読み直す。それがこのシリーズでやってきたことです。温故知新という言い方をしています。
預けると、自分の言葉が通じない場面が出てきます。効率、標準化、定着率。どれもこちらの用語で、向こうには一つも出てきません。
通じないところが、降ろした分でした。
自分の方法論のまま読んでいたら、自分の方法論が確認できただけだったと思います。
温故知新という言葉を、私は長く古いものから学ぶという意味で使っていました。
いまは少し違って読んでいます。古いものに、自分をいったん預ける。預けたあとに戻ってきたものが、新しいほうだと思います。
預けずに学ぶこともできます。ただ、それだと自分の棚に一冊足すだけで、棚そのものは変わりません。
価値があるかは、分からないままやっている
この記事作成が、本当に価値あるものになるかは分かりません。
読まれるかどうかも、誰かの役に立つかどうかも、確かめられていません。それでも、やっています。
籠に花びらを入れ続けた子供たちと、たぶん同じです。溜まっているかどうかは、こちらからは見えません。
ただ、書いているあいだに私の側は変わりました。降ろした分だけ、荷が軽くなっています。
それが成果かどうかは分かりませんが、無駄ではなかった、とは言えます。
これは経営の判断としては、あまり褒められない態度だと思います。測らずに続けているのですから。
ただ、測れるものだけを続けていると、手元の判断が短くなるのも確かです。今期に効くかどうかで並べ替えているうちに、来年の話が落ちていきます。
だから一つくらい、測らずに続けるものを持っておく。そういう置き方をしています。
まとめ——降ろせるのは、自分がないときだけ
このシリーズで受け取ったことは、三つです。
- 溜まらないと分かっていて、続ける。担雪埋井。子供たちは、落ちることを知って入れ続けていました
- 積み重ねのあとに、積み下ろしがある。無我はゴールではなく、そこからまた往復が続きます
- 降ろせるのは、自分がないときだけ。誌面は、そこをはっきり条件にしています
心を高める、経営を伸ばす。
このシリーズを通して、高めるというのは足し算ではないと分かってきました。持ち物を減らし、手柄の欄を小さく数え、目標を空けたまま待つ。どれも引き算でした。
そして最後に残ったのが、老師のこの一語です。
自分なき自分が、道なき道を、目的なき目的を目指して生きればよい。
目的を持つな、ではありません。目的なき目的を目指す。矛盾したままの言い方で、それでも動き方は決まっています。
『致知』の対談は、ここで読み切りました。次からは、いったん老師の書籍と坐禅会の記録に戻ります。使い切っていない教えが、まだ残っています。
明日、一つだけやってみる
今期に効くかどうかでは測れないものを、一つだけ選んでみてください。それを、測らずに続けるものとして手元に置いてください。
よくある質問
Q. 「積み下ろす」とは、成果を捨てることですか。
捨てるというより、手放すだと読みました。
誌面は、無我のあとにまた積み重ねると言っています。捨てて終わりではなく、往復です。降ろしたぶん、次を載せられる、という順番だと思います。
Q. 無駄に見えることを続けるのは、ただの非効率ではありませんか。
効率で測れば、非効率です。誌面もそれを認めていて、無駄に思えることでもと書いています。
私が読み取ったのは、測れないものを測らずに続けられるかという話のほうでした。測れる仕事だけを選んでいると、手元の判断は短くなります。
Q. 「目的なき目的」は、結局どう動けばいいのですか。
私の理解では、目的を置く位置を変えるということです。
遠くに置いて、そこへ向かう手段としていまを使うのではない。いま踏んでいる一歩の中に置く。このシリーズで読んだ「目標にして求めると外れる」「道そのものが仏様」という言葉と、同じことを言っているように思います。
出典
- 『致知』2021年8月号「修養の道、限りなし」(特集「積み重ね 積み重ねても また積み重ね」)本文17ページ。対談形式
- 「桜が咲く四月、コロナ禍で幼稚園が休園になったために、子供たちはお寺の境内に集まって遊んでいました」「彼らは下に落ちた桜の花びらを自転車の籠に、繰り返し、繰り返し入れ始めたんです」「当然、籠ですから、風で飛んでいったり、下の隙間からどんどん花びらは落ちていきます」「子供たちは、きゃっきゃっと楽しそうに花びらを繰り返し入れていきます」「禅はある意味では、積み重ねてきたものを一つひとつ積み下していく修行なのではないかなと思うんです」「それがゴールではなく、そこからまた積み重ねては積み下ろすという修行が続いていくと」「それはやはり、自分がない自由な無我の境地であってこそ、初めてできることだと思うんですね」「たとえ目的やゴールがないとしても、それで終わりではなくて、だからこそ日々の修養をコツコツ積み重ね、自分に与えられた役割を精いっぱい果たしていきたい」は、いずれも同誌の対談で聞き手が語っているもの
- 「自分なき自分が、道なき道を、目的なき目的を目指して生きればよい」は、老師の言葉として聞き手が同誌で紹介しているもの
- 「井戸を雪で埋めるように、無駄に思えることでも一所懸命取り組む。私たちもその子供たちの姿勢を見習いたいものですね」「そんないい言葉を言ったかな」「あらゆる観念から『ほど(仏)けた人』」「自分は偉い、自分はすごいんだという『私』を中心とした観念からほどけた人」は、老師の発言として同誌に載っているもの
- 「担雪埋井(雪を担いて井を埋む)」は、同誌が白隠禅師の言葉として紹介しているもの
- 「無我」の語釈は、一般的な意味をもとにした筆者の補足です
- 自分の方法論を古典の側に預けて読み直したこと、この記事作成の価値が分からないままやっていることは、いずれも筆者自身のものです
- 老師の実名、聞き手のお名前、幼稚園やお寺の固有名は、本記事では記載していません(固有名は同誌にも記載がありません)
- 引用はすべて、同誌のスキャン原本を400dpiで展開して字句を確認した(本文17ページ)
- 本記事は『致知』の対談のみを素材としており、坐禅会の録音および『禅の正門』は使用していません
- 本記事は特定の宗教/宗派を評価するものではありません。記述はすべて同誌に載った発言によります
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