この記事でわかること
- 只管打坐と公案工夫の長い争いを、結果の一点で判定する見方
- 「道元は公案と無関係」は誤り、という看板と中身の違い
- 分類は本質ではなく、教えるための便宜だという話
前回は、続けるための条件設計の話を書きました。場所、時間、期限。
条件が整ったとして、では坐って何をするのか。
『禅の正門』第三章の第二節が、そこを扱っています。題は只管打坐と公案工夫です。
読んでみると、これは方法論の争いをどう扱うかの話でした。本の答えは、流儀の優劣ではなく、結果の一点で判定することです。
二つの流儀と、長い批判の応酬
禅には、指導の方法が大きく二つあります。
只管打坐は、ただひたすら坐る。別名を黙照禅といいます。
公案工夫は、師から与えられた問いを持って坐る。別名を看話禅といいます。
公案というのは、師が弟子に与える問いです。理屈では解けないように作られています。答えを考えるためではなく、問いそのものになり切るための道具でした。
日本では、曹洞宗が只管打坐を、臨済宗が公案工夫を、それぞれ指導の基本にしてきました。
そして本は、こう書きます。
古来この二つは対蹠的な禅とされ、それぞれの系譜に属する禅者が互いに相手をきびしく批判しあうことが行われてきた。その風潮は今もって続いている、と。
数百年続いている流派争いです。
本は、結論を先に言う
ここで本の書き方が潔い。議論に入る前に、答えを置いてしまいます。
「只管打坐であれ、公案工夫であれ、最後の狙いは真正の禅体験を得せしめるにあるので、これが得られない限りどちらもお話にならない」
どちらが正しいか、ではない。どちらも、結果が出なければ話にならない。
流派の議論を、成果の一点に引き戻しています。私はここで読む姿勢が変わりました。
学ぶ側にとっても、これは楽になる話です。どちらを選ぶかで悩む必要がない。選んだほうを、結果が出るまでやればよい。
選択に時間を使うより、選んだものを深くやるほうが早い。本はそう言っているのだと読みました。
この立場は、本全体を貫いています。前に書いた「玉の色は関係ない」も、入口を広く取る書き方も、同じ一点から来ていました。
図1 二つの流儀は、同じ一点で判定される
ただ坐る、の落とし穴
只管打坐について、本が引くのは道元禅師の言葉です。
「ただし打坐して身心脱落することを得よ」
これが最も大切な要点であり、これを外してはいけないと本は念を押します。
外すとどうなるか。
「中身のない単なる無事禅になりさがってしまう」
ただ坐っているだけで済ませてしまう。只管打坐の陥りやすい病はここにある、と書かれています。
身心脱落とは、道元禅師が最後の関門を破ったときの言葉です。同時に、禅師の境地を表す言葉にもなりました。
本はその中身をこう説明します。人空・法空を徹見した消息の端的な表現であって、他の祖師たちの体験と中身において少しも異ならない、と。
言葉は流儀ごとに違う。体験は同じ。そう言っています。
同時に、この方法の強みも書かれています。只管打坐に徹すれば見性は自然についてくる。だから見性を当面の目標として掲げない、と。
そのうえで、こう評価します。
初中後一貫の大道——初心者から、悟った後、その先まで、どの段階でも通用する。段階を選ばない方法だ、ということです。
「道元は公案と無関係」は、誤り
ここで本は、よくある思い込みを一つ潰します。
道元禅師と公案はまったく関係がない、それが禅師の宗風である——そう考えている人がいるなら、それは大きな誤りである、と。
根拠も挙げられています。
『正法眼蔵』九十五巻には古則公案が縦横に引用されている。しかも道元禅師自身が、三百則の古則公案を集めて序文まで書いた『拈評三百則不能語』を撰集している、と。
本の言い方はこうです。
公案に関係がないどころか、これを縦横無尽に駆使しておられる。
看板の違いが、中身の違いとは限らない。
分類すべきではないが、分類が要る
公案のほうにも、同じ構造の話が出てきます。
「厳密に言えば、公案は分類などされるべき性質のものではない」
理由はこうです。
「表面から見れば千差万別な公案も、内面から見れば同じく悟りの世界の表現である」
ところが実際には、古来いくつもの分類が使われてきました。理致・機関・向上の三種。法身・機関・言詮・難透などの五つ。いずれも修行の段階で公案を分ける分類です。
本はそれを否定しません。むしろ、こう書きます。
実際には修行者を段階的に一歩ずつ引き上げてやる一面が要る。公案を用いて指導する実地の経験が、このような段階的方法を編み出させるに至ったのである、と。
本質から見れば分類は成り立たない。それでも、教えるためには分類が要る。
坐禅の五分類のときと同じ構えでした。分類を立てておいて、分類にとらわれるなと言う。
この二重構造は、教える側の誠実さだと思いました。便宜であることを、隠さない。隠すと、分類が事実に見えてしまいます。
図2 本質では分けられない。教えるためには分ける。
方式の議論に、時間を使わない
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。
この業界にも、流派があります。手法の名前、進め方の名前、方法論の名前。どれが正しいかの議論は、いくらでも長くできます。
そして議論は、たいてい中身ではなく看板についてのものです。
提案の場で方式の名前が出た瞬間に、話が抽象的になるのを何度も見ました。名前で語れる話は、名前だけで反論もできてしまいます。
この節を読んで、自分に一つ禁じ手を作ろうと思いました。方式の優劣から入らない。
代わりに、本の書き方を借ります。結論を先に置く。どの方式であっても、現場が使える状態にならなければ話にならない。そこから逆算する。
もう一つ持ち帰ったのが、看板と中身は別だということです。
道元禅師が公案を縦横に使っていたように、只管打坐を掲げる会社が細かい手順書を持っていることも、手順重視を掲げる会社が現場の裁量に任せていることもあります。掲げているものだけで中身を判断しない。
そして、分類の扱い。段階に分けるのは本質の要請ではなく、教えるための便宜でした。
だから段階表は作ります。ただし、それを守ることが目的にならないよう、作った側が言い続けるしかないのだと思います。
まとめ——看板ではなく、結果で判定する
要点は三つです。
- 流儀の優劣ではなく、結果で判定する。どちらも得られなければ話になりません
- 看板と中身は別。道元禅師と公案は無関係、というのは誤りでした
- 分類は本質ではなく、教えるための便宜。必要だが、目的ではありません
心を高める、経営を伸ばす。高め方の名前を競っても、高まらないのだと読みました。
では、すでに持っているものを、外に探しに行くとはどういうことか。次回は同じ章の第五節、因果一如の話です。
明日、一つだけやってみる
会議で方式や手法の名前が出たら、どちらが正しいかから入らず、「この会社で結果が出るのはどちらか」から話を始めてみてください。
よくある質問
Q. 只管打坐と公案工夫、初心者はどちらから入るべきですか。
本は一方を勧めていません。どちらも真正の体験に至る道だ、という立場です。
ただし只管打坐については、集中の焦点がないぶん初心の人には難しい面がある、とも書かれています。判断は師に委ねる、というのが本の一貫した構えです。
Q. 「ただ坐るだけ」なら、誰でもできそうに思えます。
そこが落とし穴だと本は書いています。要点を外すと「中身のない単なる無事禅」になりさがる、と。
ただ坐ることと、ただ坐っているだけで済ませることは違う、という指摘だと読みました。
Q. 仕事でも、方法論の議論は無駄ですか。
無駄とは思いません。方法が違えば向き不向きも変わります。
ただ、議論の順番は変えました。どちらが正しいかから入らず、この会社で結果が出るのはどちらかから入る。本が結論を先に置いたのと同じ順番です。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第三章第二節「只管打坐(黙照禅)と公案工夫(看話禅)」。本文128〜159ページ
- 「ただし打坐して身心脱落することを得よ」は、同書が道元禅師『正法眼蔵弁道話』から引いているもの
- 『拈評三百則不能語』および『正法眼蔵』九十五巻の記述は、同書が示しているもの
- 公案の分類(理致・機関・向上/法身・機関・言詮・難透ほか)は、同書が禅文化研究の記述を祖述して紹介しているもの
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像で字句を確認した(本文128・129・138・146ページ)
- 本文でお名前を記したのは道元禅師のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
- 本記事は特定の宗派を評価するものではありません。記述はすべて同書の主張の紹介です
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