この記事でわかること
- 同じ一行が、年月を経てから届くことがあるという話
- 「待てば分かる」ではなく、続けていたから届くという順番
- 戻る先の一冊を持つことと、温故知新の実際のかたち
前回は付録一を読みました。報告への評語——承認と距離を同じ場所で渡す、という話でした。
付録二は、同じ付録でも性格が違います。著者自身が、自分の体験を手紙の形で報告したものです。
書物の本文は、終始おだやかな説明の調子で書かれています。この付録だけは、書いている人の側が動いています。七、八年前にも読んだはずの一行が、電車の中で急に届いた。変わったのは句ではなく、読む側でした。では、その年月のあいだに何があったのか。
「再」という字
付録の題は「再見性の大歓喜」です。
再、と書いてあります。一度目があって、二度目があるということです。
ここで少し驚きました。この書物は、坐禅のしかたを最初から順に教える本です。その本の著者が、自分はもう一度分かり直したと巻末に書いている。
教える側の人が、学ぶ側として報告しているわけです。しかも手紙の形で、かつての同輩に宛てて書いています。
一度分かったら終わり、という形になっていない。この一点だけでも、読んでおいてよかったと思いました。
電車の中で
場面は電車の中です。
著者は読みかけの本を開いていました。『損翁禅話』——元禄時代、仙台にいた曹洞系の尊宿の禅話だと書かれています。
そこで、この句に出会います。
あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり
心とは、山や川や大地であり、日や月や星である。著者は付記で、この句が『正法眼蔵即心是仏』の巻にあると記しています。
そして、次の一行が置かれます。
この文字は決して初めてお目にかかった訳ではないのですが、何かしらハッと固唾を呑む思いでした。
初めてではない。
以前に読んでいます。文字も、意味も、通り過ぎたことがある。それが、このとき初めて届いた。
「ようやくこの一句がわかるようになったか」
続く一文に、年数が書かれています。
謂えらく「自分も禅に参じて七、八年。ようやくこの一句がわかるようになったか」と。
七、八年。
同じ句を、七、八年前にも読んでいる。変わったのは句ではありません。
図1 変わったのは、どちらか——文は不変、読む側とあいだの年月が変わっている
人中で、涙が出た
そのあとの描写を、書物はそのまま載せています。
そう思うと急に涙のこみ上げて来るのをおさえることが出来ません。人中なのできまりがわるく、ソッとハンカチで眼をぬぐって居りました。
電車を降りたあとの会話も残っています。
「今日はなんだか大変すがすがしいよ」
「それはようございましたね」
「何となく、僕はえらくなれそうな気がする」
最後の一言で、少し笑ってしまいました。
大きなことが起きた直後の言葉が、「えらくなれそうな気がする」です。気取っていない。
書物の本文は整った文章で書かれています。この付録の手紙は、整っていないまま残されています。そこが読み物として効いていました。
十年ぶりに、腹落ちした
私にも、何度も読み返している本があります。ドラッカーの『経営者の条件』です。
一度読んで終わりにならない本で、何年かおきに戻ります。
それとは別に、はっきり覚えていることがあります。ドラッカーの動画を、十年ぶりに見直したときです。
腹落ちすることが多かった。
初めて見たときも、分かったつもりでいました。メモも取ったと思います。それが十年後に見直すと、同じ話が別の重さで入ってきました。
内容は増えていません。足されたのは、こちらの側の十年です。
初めて見たときに引っかからなかった箇所が、十年後には止まる場所になっていました。逆に、一度目に線を引いたはずのところは、あまり覚えていません。どこが効くかは、その時の自分が決めているということだと思います。
だから、分かったつもりだった記憶のほうを疑うようになりました。「あれは読んだ」で終わらせると、二度目が来ません。
「待てば分かる」ではない
気をつけたいのは、これを「いずれ分かる」という話にしないことです。
書物の著者は、七、八年のあいだ参禅を続けていました。待っていたのではありません。続けていたから、句が届く側に回ったわけです。
私の十年も、ドラッカーを寝かせていた十年ではありません。その間ずっと経営をやっていた十年です。だから同じ話が別の重さで入った。順番はそちらです。
戻る先を持っていることも要ります。何度も読み返す一冊があるから、十年後に比べられます。一度きりで終わった本とは、比べようがありません。
図2 あとから届くための三つ——戻る先・あいだの継続・来る日は選べない
温故知新の、実際のかたち
温故知新という言葉を、私はこのシリーズで何度も使ってきました。
古いものを温めて、新しいものを知る。言葉としては分かりやすいのに、実際にどう起きるのかが書きにくい言葉でもありました。
この付録に、その実際が書かれていました。
同じ句に、七、八年後にもう一度出会う。そのとき新しい情報は一つも足されていません。足されたのは年月と、そのあいだの行いだけです。
新しきを知るというのは、新しいものを取ってくることではなかった。同じものが違って見えるところまで、こちらが動くことでした。
そう考えると、付録の題に「再」と入っている理由も分かります。温めるとは、同じものに二度目を許すことです。一度で使い切ってしまえば、温める対象が残りません。
まとめ——足されたのは、こちらの側
- 同じ一行が、あとになって届くことがある。変わったのは文ではなく、読む側です
- 待てば分かるのではない。著者は七、八年のあいだ続けていました。順番を崩さないこと
- 戻る先を持っていること。何度も読み返す一冊があるから、十年後に比べられます
心を高める、経営を伸ばす。
高めるというのは、新しいものを増やすことではないようです。同じものに戻れる状態を保つこと。そういう読み方をしました。
次回は、同じ書籍の付録三、白隠禅師の『夜船閑話』です。ただしこれは、坐禅の入門書ではない。では、何の本なのか。
明日、一つだけやってみる
何度も戻る一冊を決め、「あれは読んだ」で棚に戻していた箇所を開き直してみてください。どこで手が止まるかを、一行だけ書き留めてください。
よくある質問
Q. 何度も読み返すより、新しい本を読んだほうが効率的ではないですか。
両方やればよいと思います。
ただ、あとから届く経験は、戻る先がないと起きません。一度きりで通り過ぎた本は、十年後に比べる相手になりません。私の場合、戻る先は一冊だけです。
Q. 一度目に分からなかったのは、読み方が悪かったからですか。
そうは読めませんでした。
著者は一度目に通り過ぎています。それでも通り過ぎたことは無駄になっていません。二度目に「初めてではない」と気づけるのは、一度目があったからです。
Q. 腹落ちする瞬間を、早めることはできますか。
私にできているのは、戻る先を決めておくことだけです。
来る日は選べませんでした。著者の場合は電車の中です。私の場合も、そういう予定を組んだ日ではありませんでした。
早める方法は分かりませんが、遅らせない方法はありそうです。「あれは読んだ」で棚に戻してしまうと、次の機会がなくなります。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)付録二「再見性の大歓喜」。本文362・365ページ
- 「この文字は決して初めてお目にかかった訳ではないのですが、何かしらハッと固唾を呑む思いでした」「謂えらく『自分も禅に参じて七、八年。ようやくこの一句がわかるようになったか』と」「そう思うと急に涙のこみ上げて来るのをおさえることが出来ません。人中なのできまりがわるく、ソッとハンカチで眼をぬぐって居りました」「今日はなんだか大変すがすがしいよ」「それはようございましたね」「何となく、僕はえらくなれそうな気がする」は、同書の著者自身が手紙の形で書いた記述
- 「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり」は、同書の著者が『損翁禅話』を読んでいて出会った句として引いているもの。著者は付記で、この句が『正法眼蔵即心是仏』の巻にあると記しています
- 『損翁禅話』および『正法眼蔵』そのものは参照していません。本記事は同書の付録二に書かれている内容のみによります
- 損翁について「元禄時代、仙台に居られた曹洞系の尊宿なる由」という記述は、同書によるもの
- 手紙の宛先の僧、付録二に登場する諸老師、著者の学歴・勤務先・赴任地、および地名は、いずれも記載していません。シリーズを通して第三者のお名前を出さない方針によります
- 会話の相手は同書では「家内」と書かれています。本記事では続柄も書かず、会話のみを引きました
- 引用はすべて、同書のスキャン原本を400dpiで展開して字句を確認した(本文362・365ページ)
- ドラッカー『経営者の条件』を何度も読み返していること、およびドラッカーの動画を十年ぶりに見直して腹落ちすることが多かったことは、筆者自身の実感です。同書からの引用は行っていません
- 本記事は特定の宗教/宗派を評価するものではありません。記述はすべて同書に書かれている内容です
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