この記事でわかること
- 効く方法は相手の立場を選ばない、という玉突き台のたとえ
- 「まず信者になれ」と入口を高くするのは、教える側の問題である理由
- 捨てるのではなく「棚上げ」すると、人が手放せる理由
前回は、修行を続けるための三つの要件について書きました。信・疑・憤志の三本足です。
三本そろえば続く。では、そもそも自分がその道の人間でなかったらどうなのか。
『禅の正門』第三章の最後、第十一節がその問いを扱っています。題は他の宗教信者の参禅についてです。
宗教の話に見えますが、読んでみると、方法と立場の関係についての話でした。本の答えは短く、効く方法は相手の立場を選ばない、というものです。
本が引き受けた、居心地の悪い問い
本によれば、当時すでに、他の宗教の信者で坐禅を志す人が増えていました。
しかもその多くは、神父やシスターといった、生涯を宗教活動に捧げている人たちだったと書かれています。
つまり、いちばん立場のはっきりした人たちが来ていた。
本には外道という語が出てきます。
今の感覚では強い言葉ですが、本はわざわざ断りを入れています。
「外道というのは、初期仏教徒が、仏教以外の宗教を信ずる人たちを総称して言ったものであり、」
「今日の如く一種の軽侮排斥の気持を含んだ語ではない」
もともとは、単に外側の人という区分だったわけです。
心を持っている限り、できる
著者のところには、実際にこういう質問が来ていたそうです。
いまの信仰を保ったまま、坐禅の修行ができるでしょうか。
本人にとっては切実な問いだ、と本も認めています。ところが答えは、そっけないほど短い。
「心配しなさるな。あなたが心を持っている限り間違いなくできる」
理由も一行です。
「坐禅は、キリスト教が宗教であるという同じ意味では宗教ではないから」
坐禅は、信じる対象を取り替える行為ではない。そういう線の引き方でした。
玉突き台の玉
著者はこれを、玉突き台の玉で説明したといいます。
一定の力で一定の方向に突けば、玉は必ず一定のコースを一定の角度で転がる。そして——
「その玉の色が白かろうが黒かろうが、赤かろうが緑であろうが一切関係ない」
坐禅も同じで、人間の心に一定の条件を与えれば、必然的に一定の結果があらわれる。その人が何を信じていても関係ない、と。
では、その一定の条件とは何か。本はこう書きます。
「形のない何物かに心を集中して自己を忘ずることである」
ここは大事なところだと思いました。条件が、信条ではなく操作で書かれています。
図1 玉の色は、転がり方に関係ない
邪魔になるのは、信仰ではなく観念
ただし本は、無条件だとは言いません。うまくいかない理由も書いています。
「従来の信仰にからまる観念なり思想なりが邪魔になって、なかなか純一になれないというだけのことである」
邪魔なのは信仰そのものではなく、それにからまった観念のほうだ、という書き方です。
だからどうするか。
「要は、坐禅の正当時は、従来持っている観念、思想を一切棚上げして、純一にそのものそれになり切ることを求めているのである」
捨てろ、ではなく棚上げです。坐っている間だけ、いったん置く。終われば戻ってよい。
この一語で、ずいぶん話が変わると思いました。
「まず信者になれ」と言った先生
この節には、忘れがたい一場面が出てきます。
著者のもとで五年修行し、最初の関門を通ったカトリック教徒の女性がいました。
帰国後、向こうで坐禅を指導している人に会う。その人がこう言ったそうです。
「本当の禅の道に外れている。禅の指導を受けるためには、まず仏教信者にならなければならないのだから」
それを聞いた彼女は、即座にこう思ったといいます。
「アア、この人は本当の禅を知らない」
対になる話も置かれています。カトリックの神父で参禅者の草分けといわれる人が、ある老師を訪ねたときのやりとりです。
私も見性ができましょうか、と尋ねた。答えはこうでした。
「お前さんにからだがある限りはできる」
入口を高くしたのは、指導する側の力が足りないほうでした。
本は、釈尊の時代にも仏弟子以外の求道者が来た例があると書きます。
引かれているのは、『無門関』第三十二則に伝わる場面です。仏弟子ではない求道者が問いに来たとき、釈尊は黙って坐ったままだった。それだけで相手は納得して去った——。
弟子の阿難が、あの人は何を得て去ったのですかと尋ねます。釈尊の答えはこうでした。
「世の良馬の鞭影を見て行くが如し」
よい馬は、鞭が当たる前に、鞭の影を見ただけで走り出す。そういう意味に読みました。
本は、そばで仕えていた弟子のほうが分からず、外から来た人のほうが分かった、という並びをそのまま書いています。内側にいることは、分かっていることの保証になりません。
そして、こう続けます。
「独参は許さんなどというケチなお考えは、もちろん、なかったのである」
図2 入口を高くするのは、教える側の問題だった
大海、空気、空間
節の終わりに、著者は禅を三つのものにたとえます。
「禅はまことに大海の如きものである」。戦闘艦もタンカーも漁船もヨットも、制限なく進めるからです。
「また私は、禅は空気のようなものだとも思う」。人も動物も植物も、目に見えない微細な生きものでさえ、その中で生きていけるからです。
「禅は正に空間の如きものであると思う」。どんな形でも、大小も長短も問わず、そこに存在し続けられるからです。
三つとも、選ばないことを言っています。
もっとも本には、自分の見立ての限界も書き添えてあります。
キリスト教の教義については門外漢であると自分から断ったうえで、両者のいちばん深いところには共通の広場があるだろう、と憶測の形で述べるに留めています。
「まずうちの信者になってください」
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしていて、複数の製品を扱っています。特定の一つには誘導しない立場です。
この仕事をしていると、ときどきこういう提案に出会います。
まず全部をうちのやり方に合わせてください。話はそれからです。
昔は、それを強い姿勢だと思っていました。今は逆に読みます。
入口を高くするのは、方法そのものに自信がないときです。
本当に効く方法なら、玉の色は関係ないはずだからです。
相手の会社の文化がどうであれ、同じ条件を与えれば同じ結果が出る。そう言い切れないから、先に色をそろえさせる。
そして「棚上げ」の一語が、実務でも効きます。
導入のとき、私は今までのやり方を捨ててくださいとは言わないことにしました。
この工程の間だけ、いったん脇に置いてください、と言う。
捨てろと言われると人は守りに入りますが、置くだけなら戻せます。戻せると分かっていると、人は手放せる。
結果として戻さないことが多いのですが、それは本人が決めたことになります。
まとめ——方法は、立場を選ばない
- 効く方法は、相手の色を選ばない。玉の色は転がり方に関係ありません
- 入口を高くするのは、教える側の問題。「まず信者になれ」は本の中でも否定されています
- 捨てるのではなく、棚上げする。戻せると分かっていれば、人は手放せます
心を高める、経営を伸ばす。高め方に入会資格はいらない、というのが今回の読後感でした。
では、実際にはどう坐るのか。次回からは第四章、坐禅の実行に入ります。姿勢や呼吸といった、いよいよ具体的な話です。
明日、一つだけやってみる
新しいやり方を頼むとき、「今までのやり方を捨てて」ではなく「この工程の間だけ脇に置いて」と言ってみてください。戻せると分かっていると、人は手放せます。
よくある質問
Q. これは、どの宗教でも中身は同じだ、という主張ですか。
違います。本はそこを慎重に避けています。
著者は自分がキリスト教の教義については門外漢だと断ったうえで、いちばん深いところには共通の広場があるだろう、と憶測として述べるに留めています。同じだと断定してはいません。
Q. 「棚上げ」と「捨てる」は、どう違うのですか。
戻せるかどうかです。本は、坐っている最中だけ、従来の観念や思想を一切棚上げせよと書いています。
終われば戻してよい。捨てろとは書いていません。ここは読み飛ばしやすいところだと思いました。
Q. 仕事で「うちのやり方に合わせてください」と言うのは、いつも間違いですか。
いつもとは思いません。標準に寄せたほうが速い場面は実際にあります。
問題は順番です。学ぶ前に立場を変えさせるか、学んだ結果として本人が変えるか。本が否定しているのは前者のほうだと読みました。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第三章第十一節「他の宗教信者の参禅について」。本文283〜290ページ
- 「お前さんにからだがある限りはできる」は、同書がある老師の言葉として伝えているもの
- アメリカの指導者の発言、およびカトリック教徒の女性の述懐は、同書が伝聞として記しているもの
- 「世の良馬の鞭影を見て行くが如し」を含む釈尊の逸話は、『無門関』第三十二則「外道問仏」として同書が引いているもの
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像で字句を確認した(本文284・285・286・287・288・289・290ページ)
- 本文に記した人名は、歴史上の人物(釈尊・阿難)のみです。老師のお名前・禅堂名・寺名・神父のお名前、および坐禅会の関係者のお名前は、いずれも記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
- 本記事は特定の宗教を評価するものではありません。記述はすべて同書の主張の紹介です
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