この記事でわかること
- 本物の指導者は、言葉を見て見分けるという考え方
- その言葉の光が、眼の開けていない人には見えないという堂々巡り
- 見分けられない人を守るために、形式が置かれている理由
前回は、独参という一対一の仕組みについて書きました。その節の途中に、本がわざと先送りした問題があります。
その師が正しい師かどうか、どうやって見分けるのか——。
本はこう書いて、いったん話を打ち切ります。見分けることは非常に難しく、特に初心者にはほとんど不可能に近い、この問題は項を改めて説明したい、と。
その「改めた項」が、同じ章の第三節にあります。本の答えは、言葉を見て察すること。ただし、その言葉の光は眼の開けていない人には見えない、とも書いています。
読んでみて、これは経営者にとって切実な問題だと思いました。誰に相談するか、どの会社に任せるか。同じ構造をしています。では、見えない側はどうすればいいのか。
師を間違えると、偽物の悟りをつかまされる
本はまず、道元禅師の『学道用心集』を引きます。その一章の題が、そのまま問題を言い当てています。
「参禅学道は正師を求むべき事」
なぜ正しい師につくことが大事なのか。道元禅師の答えが引かれます。
「師の正邪に随って、悟りの真偽あり。之を以て暁るべし」
師が正しいか正しくないかによって、悟りが本物か偽物かが決まる——。
本の言い方は、もっと直接的です。正師につかなければ真の悟りは得られない。邪師につくと偽悟りをつかまされる。これほど恐ろしいことはない、と書いています。
偽物の悟りをつかまされる。これは、ただ進歩がないよりも悪い状態です。
自分は分かったと思い込んでいる。だから修行をやめる。そして周りにも語り始める。
見分け方は、言葉を見ることだ
では、どうするのか。道元禅師の答えが続きます。
「何を以て之が然るを知るや。言を見て察するなり。流れを酌んで源を訪ぬるが如し」
その人の言葉を見て察しなさい、という指示です。
そして、たとえがついています。下流の水を汲んでみれば、源の水の良し悪しが分かる。
本の解説も明快です。本当に真の自己を徹見している人かどうかは、その人の言葉から判定できる、と。
さらに、本物の言葉がどう見えるかを、著者は自分の言い方で書いています。
「明眼の宗師家の言葉はピカリピカリと一種異様の光芒を放つものである」
『無門関』『碧巌録』『従容録』といった祖録は、どこをとってもその光に満ちている。道元禅師の『正法眼蔵』もほとんど全巻がそうだ、と続きます。
反対に、光を発しない禅の本はどうか。ここが手厳しい。
「言わば焼きの入っていないなまくら刀のようなもので、鋼の部分が全くなく、切れ味というものがさらにない」
そして、次の一文が容赦ありません。
「どんなに宗派の中で高い地位ある人、例えば本山の管長とか大僧正とか言われる偉い人の書かれたものでも」——
「本当の悟りの眼の開けていない人の言説の中からはこの光はあらわれない」
肩書は関係ない、と言い切っています。
図1 見分け方は、言葉を見ること——本物の言葉は光る、と本は書く
ところが、その光は素人には見えない
ここまで読んで、なるほど言葉を見ればいいのかと思いました。
ところが、次の一文で足をすくわれます。
「しかし、この言葉の光も、眼の開けていない人には見えないのであって、如何とも致し方がない」
見分け方は言葉だ。ただしその言葉の光は、見分けられる人にしか見えない。
堂々巡りです。しかも本は、その堂々巡りを隠しません。如何とも致し方がない、と書いてしまいます。
私はここで、この本の誠実さを見ました。
普通なら、ここで何か実用的なチェックリストを出したくなるところです。こういう人は要注意、こういう言い方をする人は本物——。
けれども本はそれをしません。素人には見えないものを、見えるふりで教えないのです。
だから、形式が要る
見分けられないなら、どうするのか。本が出す答えは、意外なほど事務的です。
道元禅師による正師の定義が引かれます。
「夫れ正師とは、年老耆宿を問はず、唯だ正法を明らめて、正師の印証を得るものなり」
年齢や経歴は問わない。正法を明らかにして、正師から印可証明を受けていることが第一である——。
定義はこのあとも続きます。文字を先にしない。理屈を先にしない。常識の枠に収まらない力量がある。我見にとらわれず、言行が一致している。
けれども本は、このすべてを満たす人はまずいないと認めたうえで、こう絞り込みます。
どうしても外せない一点はどれか。それは「正法を明らめて、正師の印証を得るもの」の一点である、と。
なぜこの一点なのか。理由も書かれています。
正師を一代ずつさかのぼっていけば、最後には釈迦牟尼仏に至る。その一貫した連続性が、禅の生命だからです。
本は、これが形式的に見えることも認めています。そのうえで、悟りという影も形もないものを正しく伝えるためには、この形式主義には重要な意味がある、と書きます。
この形式を維持する限り、大きな見当違いは起こらない。
図2 見分けられない人を、形式が守る——中身で判定できないときに形式が働く
完全な人は、一人もいない
もう一つ、但し書きがあります。本は、指導者の欠点についてもはっきり書いています。
禅の師家といわれる人であっても、完全な人は一人もいない。それぞれ癖もあれば欠陥もある。中には普通の人より悪い習慣を身につけている人もいる——。
そのうえで、こう続けます。
本当に正法を明らめている人であれば、自分の欠陥は誰よりも自分がよく知っていて、それを人知れず直そうと苦心している。もしその努力がなされていないなら、明らめたという正法そのものが怪しい、と。
欠点があるかどうかではなく、欠点に苦心しているかどうか。そこを見なさい、という基準です。
これは、素人にも少しは見える基準だと思いました。
私は、選ばれる側にいる
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。ERPと呼ばれる、会社の業務を一つの仕組みに載せる種類のものです。
この仕事では、お客様が私たちを選びます。何社かに声をかけ、話を聞き、どこに任せるかを決める。
その場でお客様がやっていることは、まさに正師を見分けることです。
そして、この節を読んで背筋が伸びたのは、私が見分ける側ではなく、見分けられる側に立たされているという事実でした。
お客様は、私の言葉の光を見ています。けれども、システム導入の経験がなければ、その光は見えません。本の言う通りです。
では、私は何を差し出せるのか。
言葉の切れ味だけを頼りにしてください、とは言えません。それは、見えない人に見えと言うのと同じです。
だから、第三者の認定や、過去にどこの誰と何をしたかという連続性が要るのだと思いました。
形式主義だと言われることもあります。資格や認定に意味があるのか、と。
けれども本の言い方を借りれば、それは見分ける眼のない人を守るために置かれているのです。中身で判定できる人には不要でも、できない人には要る。
私たちが認定を取り、実績を開示するのは、自分を大きく見せるためではありません。見分けられないお客様が、大きな見当違いをしないための形式です。
もう一つ、欠点の話も刺さりました。
完全な支援会社は一つもありません。私たちにも欠けたところがあります。問われているのは、欠けていないふりをすることではなく、それを自分で分かっていて直そうとしているかどうかです。
まとめ——見えないものを、見えるふりで教えない
要点は三つです。
- 見分け方は、言葉を見ることである。本物の言葉は光を放つ、と本は書きます
- ただし、その光は眼の開けていない人には見えない。本はこの堂々巡りを隠さず、如何とも致し方がないと書きます
- だから形式が要る。印可証明という一点だけは外せない。形式は、見分けられない人を守るために置かれています
私がこの節から受け取ったのは、見分け方そのものよりも、見えないものを見えるふりで教えないという態度でした。
分からないことを分かると言わない。それができる人を、たぶん私たちは信じるのだと思います。
心を高める、経営を伸ばす。誰に学ぶかを決めるところから、もう経営は始まっているのだと思いました。
修行が進んだと思ったときに現れる錯覚は、経営者にもそのまま当てはまります。次回は、この章の第六節にある魔境の話です。
明日、一つだけやってみる
いま学んでいる相手を一人思い浮かべてみてください。欠点の有無ではなく、その欠点を自分で分かって直そうとしているかを見てみます。
よくある質問
Q. 結局、素人には見分けられないということですか。
本はそう書いています。言葉の光は、眼の開けていない人には見えない、と。
そのうえで本が出す答えが、印可証明という形式です。中身で判定できないときに、形式が代わりを務めます。
Q. 欠点のある指導者には、ついていかないほうがいいですか。
本の立場は逆です。完全な人は一人もいない、と書いています。
見るべきは欠点の有無ではなく、その欠点を自分で分かっていて直そうとしているかどうかです。その努力がないなら、明らめたという中身のほうが怪しい、という書き方をしています。
Q. 会社を選ぶときにも、同じ考え方が使えますか。
私はそう読みました。中身を見抜ける人は中身で選べばよく、見抜けない場合には、第三者の認定や過去の実績の連続性を見ることになります。
ただし、形式を満たしていることは最低条件であって、それだけで良い相手だと決まるわけではありません。本も、印可証明を「外せない一点」として挙げているのであって、それで十分だとは書いていません。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第三章第三節「正師を求む可きこと」。本文160〜167ページ
- 道元禅師の言葉は、同書が『学道用心集』を引いて示しているもの
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像で字句を確認した
- 本文でお名前を記したのは、同書の著者と道元禅師のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
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