この記事でわかること
- 物差しは五つあり、二番目から測る向きが反転するという話
- 悟りの世界に留まっている限り、役には立たないという指摘
- 派手な能力と本質の理解は、別の軸にあるという見方
前回は、魔境の話を書きました。幻が見えるのは進んできた証拠である、という一節です。
では、どこまで進んだのか。それは何で測るのか。
『禅の正門』第三章の第四節は、まさにその問題を扱っています。悟りの深浅という題です。
読んでみて、これは進捗の測り方の教科書だと思いました。しかも、途中で物差しが反対を向きます。二番目から先は、得たものがどれだけ見えなくなったかを測るのです。
同じ「悟り」でも、深さがまるで違う
本はまず、悟りに段階があることを確認します。
初めて参加した一週間の接心で、どうにか最初の関門を通ったのも悟りである。その関門から三十年、四十年と修行を続けて、ようやく最後の底が抜けたというのも悟りである——。
同じ言葉で呼ばれているが、中身の深さはまるで違う。
そして本は、当時の禅界に対して厳しいことを書きます。
ちょっぴり見性しただけで、あたかも大悟徹底したかのように自分でも誤解し、人にも吹聴して、人を邪道に導く者が少なくない、と。
だから深浅を正しく理解しておく必要がある、というのがこの節の動機です。
五つの物差し
本は、測る基準を五つ挙げます。ここは要点なので、そのまま引きます。
「一、悟りの眼がどの程度明らかであるか、別言すれば、本分の世界がどの程度明瞭に見えているか」
「二、悟りがどの程度消され、平常化されているか」
「三、悟りに纒わる感情ないし観念、思想などがどの程度に洗浄されているか」
「四、どの程度本分に安住し得ているか」
「五、衆生無辺誓願度の菩提心がどの程度発現されているか」
五番目は、他の人を救おうという心がどれだけ出てきているか、ということです。
図1 五つの物差し——二番目で向きが反転する
一番目だけが、増やす方向を向いている
並べてみると、一番目だけが「どれだけ見えたか」を測っています。残りの四つは、そうではありません。
消されているか、洗浄されているか、安住できているか、他へ向かっているか。
二番目から先は、全部「どれだけ消えたか」を測っているのです。
普通、上達の物差しは増える方向に伸びます。できることが増え、知識が増え、実績が増える。
ところがこの本は、二段目からいきなり逆を向く。得たものが、どれだけ見えなくなったか。それが深さだと言うのです。
本の言い方は、もっと直接的です。
悟ったら、悟りの跡を消していかなければならない、と書きます。
悟りの世界にいる限り、役に立たない
なぜ消さなければならないのか。理由も書かれています。
悟りの世界は、常識の枠にはまらない世界です。そこに留まっている限り、世間ではまったく通用しない、と本は言います。
そして、こう続きます。そのままでは世間の役には立たない無用の長物である、と。
さらに、その世界に腰を据えてしまった人を向上の死漢と呼ぶ、という言葉まで紹介されます。
だから、悟りの世界からもう一度、常識の世界へ戻って来なければならない。
本には、初心者を驚かせる物騒な言葉も引かれています。
「仏に逢うては仏を殺し祖に逢うては祖を殺し」
もちろん文字通りの意味ではなく、仏についての観念、法についての観念、仏くささ、法くささを殺すという意味だ、と解説されています。
学んだ人ほど身につく「くささ」を、自分で落としていく。そういう作業だと読みました。
そして到達点は、瑩山大師の言葉で示されます。
「心地を開明して本分に安住す」
坐ったまま死ねても、分かっていない
この節には、忘れがたい話が一つ引かれています。『従容録』第九十六則、九峯不肯という公案です。
ある高僧が亡くなり、後任を決めることになりました。首座という高い立場の僧が推挙されます。
ところが侍者だった九峯が承知しません。本当に先師の境地を分かっているのか、自分が確かめる、と言い出します。
問答になっても、九峯は納得しない。首座のほうも引き下がりません。
首座は香を焚かせて、こう言います。もし自分が先師の意を分かっていないなら、この香の煙が消えないうちに死んでみせよう——。
そして、坐ったまま息絶えてしまった。
普通ならここで決着です。ところが九峯の反応が違いました。その背中をなでながら、こう言うのです。
「坐脱立亡は即ち無きにあらず、先師の意は未だ夢にだも見ざる在り」
坐ったまま死ぬことも、立ったまま死ぬこともできないわけではない。けれどもこの人は、先師の本当の意を夢にも見ていない——。
本の解説は冷静です。
坐ったまま死ぬのは、集中力を鍛えれば可能なことであって、悟りとは筋が違う。それができるからといって、徹底した悟りの証拠にはならない、と。
九峯が背中をなでたところがいい、とも書いています。
あり余る集中力を身につけながら、肝心なところを知らないまま世を去った人への、憐れみだろう、と。
図2 派手な能力と、本質の理解は、別の軸にある
一枚の悟りは、病である
同じ公案の解説で、本は白雲老漢の提唱を引きます。ここが強烈でした。
首座は、先師の言葉を「悟りの世界のことです」と答えました。それに対する評です。
「平等の一枚悟りは悟り病だ」
すべてが平等に見えた。それは浅い見性だ、と。そこから先、差別の世界をもう一度、平等の眼で見直さなければならない——。
一枚の答えで全部を説明できたと感じたとき、それは深まったのではなく、病気になっているのかもしれない。
そう読みながら、自分の仕事のことを考えていました。
稼働した、では測れない
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。ERPと呼ばれる、会社の業務を一つの仕組みに載せる種類のものです。
この仕事では、進捗をどう測るかがいつも問題になります。
いちばん使われるのは、稼働したかどうかです。予定日に新しい仕組みが動きはじめた。それで完了、という測り方。
けれども、稼働は一番目の物差しでしかありません。どれだけ見えるようになったかの段階です。
この節の順番を借りると、本当の深さはその先にあります。
二番目は、消えているか。新しいやり方が、特別なことでなくなったか。まだ「新システムでは」という言い方が社内に残っているうちは、消えていません。
三番目は、感情が洗われているか。導入のときの苦労話や、あのときの揉め事が、まだ誰かの中でくすぶっていないか。
四番目は、生活になっているか。手順書を見ないでも回るか。担当者が休んでも止まらないか。
五番目は、外へ向かっているか。自分たちのやり方を、他部署や取引先にも渡そうという動きが出てきているか。
こう並べると、導入の成否を稼働日で語るのがいかに浅いかが分かります。
いちばん効いたのは、ここです。
本当に定着したかどうかは、それを意識しなくなったかどうかで測る。
誰も「新しい仕組み」と呼ばなくなったとき、はじめて二番目を越えたと言えるのだと思います。
まとめ——見えなくなることが、深まることだ
要点は三つです。
- 物差しは五つあり、二番目で向きが反転する。一番目は増える方向、二番目から先は消える方向で測ります
- 悟りの世界に留まっている限り、役には立たない。得たものを持ったまま、常識の世界へ戻る必要があります
- 派手な能力は、本質の理解とは別の軸にある。坐ったまま死んでみせても、それは集中力の話でした
私は、この五段階を自分の仕事の進捗表として使うことにしました。
稼働日は一番目です。そこから四つ分、まだ先があります。
心を高める、経営を伸ばす。高まったかどうかは、たぶん、高まったと思わなくなったところで測るのだと思いました。
続けるためには、何が要るのか。次回は、同じ章の第十節にある坐禅修行の三大要件の話です。
明日、一つだけやってみる
社内に入れた仕組みを一つ選び、「稼働したか」ではなく「意識せずに使えているか」で見直してみてください。
よくある質問
Q. 「悟りを消す」とは、忘れるということですか。
忘れることではないと読みました。本は、悟りの跡を消し、平常化していくという書き方をしています。
失われるのではなく、特別なものではなくなる。仏くささ、法くささを落とす、という表現も使われています。
Q. 五つの物差しは、順番に進むのですか。
本は、標準として五つを並べているだけで、一つずつ卒業していくとは書いていません。
ただ、一番目が明らかになることが先決だ、という順序は示されています。まず見えること。そのうえで、消していく段階が続きます。
Q. 仕事の進捗も、同じ五つで測れますか。
そのまま当てはめられるとは思いません。禅の修行と仕事は目的が違います。
ただ、定着したかどうかを「意識しなくなったかどうか」で測るという発想は、仕事でもそのまま使えると私は考えています。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第三章第四節「悟りの深浅について」。本文168〜176ページ
- 九峯不肯は『従容録』第九十六則。同書が引いて示しているもの
- 「平等の一枚悟りは悟り病だ」は、同書が安谷白雲老漢『従容録独語』六三六頁を引いて示しているもの
- 「心地を開明して本分に安住す」は、同書が瑩山大師の言葉として引いているもの
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像で字句を確認した(本文170・171・173・174ページ)
- 本文でお名前を記したのは、同書の著者、白雲老漢、瑩山大師、九峯のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
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