目を閉じないで坐る——雑念を消さずに、雑念の中で集中する

この記事でわかること

  • 坐禅の順番は身・息・心——心から手をつけない理由
  • 目を閉じずに得た集中が、実社会で役に立つ理由
  • 雑念は消そうとせず、数えるほうへ戻り続けるという考え方

前回は、立場が違う人でも同じ方法を学べる、という話を書きました。

では、その方法とは具体的に何なのか。『禅の正門』は第四章から、いよいよ実行の話に入ります。

冒頭の一文が、これまでの三章を突き放しています。

理論めいたものは予備知識にすぎない。理解できたとしても、実際に坐らなければ空念仏だ、と。

そして、こう断ります。

「理屈は何もないから少しもむつかしいことはない代わりに、面白いこともないものである」

面白くないと先に言ってしまう。この誠実さが、かえって読ませます。

目次

誰に向けて書かれているか

節の冒頭に、断りが置かれています。

坐禅を実行しようとする人にも、素質にも時期にも差がある。そこを見抜いて一人ひとりに合わせられるのは、眼の開けた師だけだ、と。

だから一日も早く正師につけ、と本は言います。

ところが、そのすぐあとに続きがあります。

その機会に恵まれない人も、以下の方法で着実に実行すれば、自分の本分に安住するに至る、と。

前回の記事と同じ構えでした。理想は示すが、入口は閉じない。

まず、道具の話から始まる

意外なことに、この章は坐蒲団の話から始まります。

厚く敷け。薄いと脚が早く痛くなり、心も落ち着かない。冬なら二枚でも三枚でも重ねよ——。

そして、こう書き添えられます。

「これは決して贅沢ではなく、無上道を達成するため必要欠くべからざる大切な道具である」

坐蒲の直径は四十五センチくらい。中身は綿花より絹綿かパンヤがよい。高すぎると腰の安定をそこね、低すぎると脚が痛くなる。

ここまで細かい。

精神の話を始める前に、まず坐蒲団の厚さを決めている。私はここで姿勢を正しました。

目を閉じない

この節でいちばん驚いたのが、目の扱いです。

世間一般の坐り方では、たいてい目を閉じるように教えられます。視界がなくなれば、環境に気をとられずに済みそうに思えます。

本はこれを否定します。

目を閉じると陶酔状態に陥りやすく、夢心地を楽しむことになる。そこからは力強い集中は出てこない、と。

続けて、こう書きます。

「目をはっきり開いて、与えられた現実の環境の真只中で得られた定力でなければ、実社会で活動するに当たって物の役にはたたない」

さらに一行。

「瞑目は一種の逃避であり、逃避の中に真の解決はないのである」

刺激を減らして集中する、という発想そのものが否定されています。

刺激を減らして得た集中は、現場で使えない 目を閉じて坐る 環境を遮断する 陶酔状態に陥りやすい 力強い集中は出てこない 「瞑目は一種の逃避」 目を開けて坐る 環境をそのまま入れる 現実の真只中で定力が練れる 実社会で物の役に立つ 逃避の中に解決はない 静かな場所でしか出せない力は、うるさい場所では出ない 条件をそろえて得た能力は、条件が崩れた瞬間に消える 出典:『新版 禅の正門』第四章第一節(本文299ページ)

図1 刺激を減らして得た集中は、現場で使えない

雑念は、消さなくていい

もう一つ、はっきり否定されているものがあります。

初心者だけでなく、長く続けている人からも、こういう訴えが来るそうです。

「どうも雑念が起きて困ります」

「どうも無念無想になれなくて困ります」

これに対する本の答えが、拍子抜けするほど短い。

「実は少しも困ることはないのである」

では、どうするのか。

「何が見えても何が聞こえても何が心に浮かんできても、邪魔にせず、また追い掛けても行かなければそれでよい」

それでも迷う人に向けて、もう一行。

「どうもしなくてよいのである」

雑念に気づいたら、ただ数息に戻る。それだけでよい、と書かれています。

私が好きなのは、次の一行です。

「シマッタも何もいらない」

追い払おうとした時点で、追いかけている

なぜ雑念を消そうとしてはいけないのか。

消そうとする行為そのものが、雑念を相手にしてしまうからです。追い払おうとした時点で、すでに追いかけている。

本は、古い言葉を引いてこの節を締めます。

「盗人を捕えて見れば吾子なり」

捕まえてみたら、盗人は自分の子だった。追い出すべき何かではなかった、という意味に読みました。

雑念への二つの向き合い方 消そうとする 雑念が浮かぶ 消そうとする 相手にしている=追いかけている 堂々めぐりになる 相手にしない 雑念が浮かぶ 気づく 数えるほうへ戻るだけ 「シマッタも何もいらない」 消す作業を足すと、かえって手数が増える 出典:『新版 禅の正門』第四章第一節(本文308ページ)

図2 雑念への二つの向き合い方

順番は、身・息・心

この節の構成にも、意味がありました。

本は、坐り方を調身の法・調息の法・調心の法という三つに分けて説明します。身を調え、息を調え、心を調える。

調身の記述も細かいものでした。足の組み方は結跏趺坐・半跏趺坐・日本坐の三種。手の形、背骨、あごの引き方まで指定されます。

胃のあたりに力を入れるのは禁物だ、という注意まであります。力を入れるなら下腹だが、それも注意が要る、と。

ところが実際の記述は、調身、調心、調息の順に並んでいます。著者はそれを自分から断っています。

「調息の法は本来は調心の法の前段として説明するのが適当と思うが、極めて簡単なことなので順序を変えて後回しにした」

そのうえで、こう念を押します。

「実は調心の前にまず呼吸を整えるのである」

つまり本来の順番は、身、息、心。

心はいちばん最後です。直接いじらない。外側から順に整えて、心はその結果として調う。

著者は、この方法の単純さも先に認めています。

「坐禅の実行方法があまりに単純なのでかえって拍子抜けする人があるかも知れない」

「集中しろ」と言わないことにした

私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。

この仕事で、私は長いあいだ順番を間違えていました。心から入っていたのです。

なぜ必要なのかを説明し、意識を変えてもらおうとする。意識が変われば行動が変わるはずだ、と。

この節を読んで、順番を逆にしました。

まず身。画面の配置、帳票の並び、机の上のもの。触る場所を先に変える。

次に息。毎朝の確認、週次の締め。作業のリズムを先に決める。

心は最後。なぜやるのかは、動きはじめてから腑に落ちることが多い。

道具の話も同じでした。坐蒲団の厚さに一ページ割く本を読んで、現場の道具をケチる会社は、たいてい定着しないという自分の実感と重なりました。あれは贅沢ではなく、必要欠くべからざる道具なのだと思います。

そしていちばん効いたのが、目を閉じない、という一行です。

研修室でだけ理解が進み、席に戻ると消える。そういう場面を何度も見てきました。あれは条件をそろえて得た集中だったのだと思います。

だから最近は、あえて現場の騒がしい時間帯に立ち会うようにしています。

形から入るとやらされている感じが出る、と言われたこともあります。そのときは期間を区切って答えるようにしました。この工程の間だけ、と。

まとめ——心は、最後に調える

  1. 順番は、身・息・心。心を直接いじらず、形とリズムから入ります
  2. 目を閉じない。条件をそろえて得た集中は、条件が崩れた瞬間に消えます
  3. 雑念は消さない。消そうとした時点で、それを相手にしています

心を高める、経営を伸ばす。心を高めるのに、心から手をつけないのだと読みました。

では、坐っていない時間は、どう過ごせばよいのか。次回は、同じ第四章の第二節、間接の心得の話です。

明日、一つだけやってみる

仕事に入る前に、気持ちより先に姿勢と呼吸を整えてみてください。雑念が出ても追い払わず、手元の作業へ戻るだけにします。

よくある質問

Q. 目を開けて坐ると、気が散りませんか。

散ります。本もそれを前提にしています。

ただし本の主張は、散る環境で得た集中でなければ実社会で役に立たないというものです。散らない環境を作るのではなく、散る中で戻れるようにする、という考え方だと読みました。

Q. 「雑念を消さない」と「集中する」は、矛盾しませんか。

矛盾しないと読みました。本が求めているのは、雑念がない状態ではなく、数えるほうへ戻り続けることだからです。

戻る回数が多くても失敗ではありません。本は「シマッタも何もいらない」と書いています。

Q. 仕事でも、意識改革を後回しにしてよいのですか。

いつもとは言えません。方向を共有しないまま手だけ動かすと、別の問題が起きます。

ただ、意識が変わってから行動が変わる、という順番だけを信じるのはやめました。形とリズムを先に整えると、意識のほうが後から追いついてくる場面が、私の仕事では多くありました。

出典

  • 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第四章第一節「坐り方」。本文292〜312ページ
  • 本章は、原田祖岳老師が「直接の心得」として説いたものを祖述したものだと、同書が冒頭で明記している
  • 「盗人を捕えて見れば吾子なり」は、同書が引いている古い言い回し
  • 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像で字句を確認した(本文291・292・293・299・308・309ページ)
  • 本文でお名前を記したのは原田祖岳老師のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
  • 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません

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この記事を書いた人

Takuomi Mochidaのアバター Takuomi Mochida 株式会社ベンチャーネット代表取締役

株式会社ベンチャーネット 代表取締役
2005年に株式会社ベンチャーネットを設立後、SEOをはじめとするデジタルマーケティング領域のコンサルティングサービスを展開
広告・SNS・ウェブ・MA・SFAと一気通貫で支援を行っています
著書に『普通のサラリーマンでもすごいチームと始められる レバレッジ起業 「バーチャル社員」があなたを救う』(KADOKAWA、2020年)

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