この記事でわかること
- 「言える理由」と「よりどころ」は別物だという話
- 「期待される」と「あるべき」の違い
- 根のない行動指針が、判断で参照されない掲示物になる理由
前回は、落ち着かなさをどう見立てるかという話を書きました。不安の出どころの話です。
行動指針、クレド、バリュー。「こういう人であってほしい」を言葉にしたものを、多くの会社が持っています。
『禅の正門』第一章の「道徳の喪失」という節が、その落とし穴を突いています。宗教の本の中にありますが、ここは言葉の作り方の話でした。
言える理由はあっても、よりどころがない。そういう指針は、判断のときに参照されない掲示物になります。では、「期待される」と「あるべき」は、どこが違うのか。
教える側の、正直すぎる告白
本は、著者が聴いた講演の一節を紹介します。著者が「できるだけ先生の口まねで書いてみよう」と断ったうえでの再現です。
講演者は、若い学生に教えておきたいことがある、と言います。たとえば——
「嘘をつくなかれ、常に真実を語れ」
「己にきびしくあれ」
そして、こう続けます。
「しかし、もしその学生が、自分はその忠告に従うつもりはない、といって私の言葉に耳を傾けようとしない場合、」
「君はそうすることが善であり、正しいのであるからそうすべきである、そうしなければならぬ、と主張し得る立場を見出すことができないのであります」
続けて、言えることと言えないことを分けます。
「そうする方が家庭が円満におさまるから、そうするのがいいのではないか、とか、」
「そうすることによって社会の秩序が維持されるからそうしてはどうか、とか言うことはできるが、」
「そうすることが善であるから君はそうすべきである、ということはできない」
「古今東西のどの哲学を調べてみても、そう言い得る立場を見出すことができないのであります」
教える側が、根拠を示せないと認めている。ここが、この節の出発点です。
図1 都合は言える。よりどころは言えない
結果として、何が起きたか
本は、その帰結をこう書きます。
「教育というものが、小学校から、中学、高校、大学と進むにつれて、知識の切売りだけとなる傾向がますます顕著となり、」
「道徳の権威をもって教え、人格の権威をもって導くということは、全くなくなってしまった」
知識の切売り。厳しい言い方ですが、分かりやすい。原因は、こう見立てられています。
「道徳の権威をもって教え導くべき立場がないという、懐疑的相対主義が、」
「教育界のみならず国全体の思想的底流をなしている結果ではなかろうかと思うのである」
懐疑的相対主義とは、何が正しいかは立場によって違うのだから、決められないという考え方のことです。
「期待される」と「あるべき」は、違う
本は、当時作られた「期待される人間像」という教育の指針を取り上げます。
「その人間像が何故に期待されるべきであるのかの根本理念は全く見あたらない」
そのうえで、言葉そのものを分解します。
「『期待される』ということは、こうあれば都合がよろしいということではあっても、」
「『こうなければならぬ、こうあるべきである』ということではない」
「したがってそこからは人間の教育は生まれて来ない。なぜなら、依って立つところの道徳の権威がないからである」
最後に、この一文が置かれます。
「道徳は教育の背骨であって、道徳のないところに教育はあり得ないのである」
背骨。支えるものがなければ、形は立ちません。
なお、本の論点は、特定の役所や制度の批判ではなく、「期待される」という言葉の作りにあります。私もそこだけを読みました。
図2 「期待される」は都合、「あるべき」はよりどころ
会社の行動指針に置き換えてみる
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしていて、いろいろな会社の行動指針や運用ルールを目にします。よく見かけるのは、こういう形です。
- 常に顧客目線で考える
- 部門を越えて協力する
- 自ら学び、成長し続ける
書かれていることは、どれももっともです。ただ、「なぜ、それがそうあるべきなのか」が書かれていないことが多い。
この状態で「なぜそうしなければいけないのですか」と聞かれると、答えはだいたい二つになります。
- そのほうが、評価されるから
- そのほうが、会社が回るから
どちらも本当のことです。そして、どちらも「都合」です。
講演者が言っていたのと同じ形です。従うつもりのない人には、届きません。
そして掲示された指針は、判断のときに参照されなくなります。もめたときに引っ張り出されるだけになる。
「だから指針は無駄」という話ではない
ここは読み違えやすいところです。
一つ目。本は、指針そのものを否定していません。求めているのは「新しい道徳規範がガッチリと形成されること」です。なくせ、ではなく、根を持てと言っています。
二つ目。「経営者が正しさを決めればよい」という話でもありません。講演者は古今東西のどの哲学にも見出せないと言っています。社長が一晩で決められるはずがありません。
本の答えは、この先の章に持ち越されます。禅の話になるので、ここでは書きません。ただ、いますぐできることが一つあります。指針の一行ごとに「なぜ」を一行だけ足してみる。書けない行が、弱いところです。
書けないこと自体は、恥ではないと思います。講演者も、書けないと正直に言ったところから話を始めています。
まとめ——書かれているかではなく、支えがあるか
要点は三つです。
- 「言える理由」と「よりどころ」は別物。都合の説明は、従うつもりのない人には届きません
- 「期待される」は、こうあれば都合がよろしい、という意味にしかならない。「あるべき」とは違います
- 根がなければ、指針は掲示物になる。判断のときに参照されなくなります
心を高める、経営を伸ばす。この言い方には、「なぜそうするのか」が最初から入っています。高めるという向き自体が、よりどころになっている。都合ではなく、向きが書いてあるのだと、この節を読んで気づきました。
では、会社を実際に動かしているのは、規則なのか。次回は、同じ第一章の少し先に進みます。
明日、一つだけやってみる
自社の行動指針から一行を選び、その下に「なぜそれが正しいと言えるのか」を一文だけ書いてみてください。都合の説明しか出てこないかを確かめます。
よくある質問
Q. 「なぜ」を一行足す、というのは具体的にどうするのですか。
指針の各行の下に、「それがなぜ正しいと言えるのか」を一文だけ書くことです。
「評価されるから」「効率が上がるから」しか出てこなければ、それは都合の説明です。悪いわけではありませんが、よりどころではないと分かります。
Q. よりどころは、どこから持ってくるものですか。
本はここでは答えを出していません。古今東西の哲学に見出せないとまで書いています。
私は、外から持ってくるより、自社がこれまで何をしてきたかを掘るほうが早いと思っています。ただしこれは本の主張ではなく、私の考えです。
Q. 指針を作り直したほうがよい、ということですか。
そうとは限りません。言葉を変えなくても、支えが見つかれば、同じ一行が別の重さを持ちます。作り直すより先に、いまの一行に「なぜ」が書けるかを確かめるほうが早いと思います。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第一章第一節「序論」の「三 道徳の喪失」。本文12〜15ページ
- 講演の引用部分は、同書が「小泉先生」の講演として、著者自身の記憶で再現したもの(本文12〜13ページ)。同書は「できるだけ先生の口まねで書いてみよう」と断っている。本記事では、講演者ご本人の発言としてではなく、同書の記述として紹介している
- 「教育というものが、小学校から……知識の切売りだけとなる傾向が……」は本文13ページ
- 「道徳の権威をもって教え導くべき立場がないという、懐疑的相対主義が……」「新しい道徳規範がガッチリと形成されること」は本文14ページ
- 「その人間像が何故に期待されるべきであるのかの根本理念は全く見あたらない」「『期待される』ということは……」「道徳は教育の背骨であって、道徳のないところに教育はあり得ないのである」は本文15ページ
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像(400dpi)で字句を確認した(本文12・13・14・15ページ)
- 本文中に人名は記していません。講演者のお名前は出典欄のみに、同書の表記のまま記しています。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
- 本記事は、特定の官庁・制度・政策を批判するものではありません。同書が取り上げているのは当時の文書であり、本記事が借りているのは「期待される」という言葉の作りについての論点のみです
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