この記事でわかること
- 全体への話では、一人ひとりは変わらない理由
- 人は人前では「我という着物」を脱がないという指摘
- 指示が二本にならないことの大切さ
前回は、輪読という学び方について書きました。大勢で一冊の本を、順番に声に出して読む形です。
その正反対にある仕組みを、『禅の正門』は第三章に一節を割いて説明しています。独参というものです。
読んでいて、私は少し怖くなりました。人を育てる側の言い訳が、ほとんど全部つぶされていたからです。
全体への話では、一人ひとりは治療できない。人は人前では、我という着物を脱がない。本の指摘は、突き詰めればそこに行き着きます。
独参とは、一対一で師の部屋に入ること
本の定義は、こうです。
「独参とは独りで師家の室に参じて、一対一の直接指導を受けることである」
師家とは、指導する資格を持つ老師のことです。その部屋に、修行者が一人ずつ入っていきます。
本は、この仕組みを禅の必須条件として扱っています。独参が行われていない場所では、正しい禅は指導されていないと断定してよい、という書き方です。
言い方としては、かなり強い。なぜ、そこまで言うのか。
どんな名医でも、講演では治療できない
本は、禅の指導を医者にたとえます。
医者は患者を診断して、その人に合った治療を施す。そのためには、何はともあれ顔を見て問診をする必要がある。
そして、こう書かれています。
「どんな名医でも衛生講話で病人を治療することはできない」
衛生講話とは、大勢を集めて健康の心得を話す、あの形式です。
ここまでは、たとえ話として分かります。問題は次の一文でした。
「老師がたの提唱にしても、煎じ詰めれば衛生講話と同類」
提唱とは、老師が大勢の前で経典や公案を講義することです。禅の世界で、最も格の高い指導の形といっていい。
その提唱すら、衛生講話と同じだというのです。
理由も書かれています。心の病は、体の病と同じように千差万別だからです。種類も軽重も深さも、一人ひとり違う。だから、全員に同じ話をしても、一人ひとりには効かない。
図1 大勢への話と、一対一の指導——本は提唱すら衛生講話と同類だと書く
我という着物は、人前では脱げない
一対一でなければならない理由は、もう一つ挙げられています。
人はみな「我」を持っている、という話です。
本は、その我を着物にたとえます。人は自分を守るために、その着物を固く着込んでいる。それを脱がせるのが独参だ、と。
そして、こう続きます。お金があったり、社会的地位があったり、教養があったりする人ほど、その着物を厚く固く着ている。
読んでいて、背中が冷たくなりました。私も、そちら側の人間だからです。
具体例も書かれています。
「こんなことを質問したら笑われはしまいかとか、幼稚な質問のようで恥ずかしいから、わかったような顔をして黙っていた方がよかろうとか」
そうやってプライドという着物をさらに固く締めてしまう、という記述です。
これは坐禅会の話ではありません。私たちの会議室で、毎週起きていることです。
そして本は、指導する側の問題も同時に書いています。相手が着物を脱がないままだと、指導する側も適当なあしらいで済ませてしまう。それでは本当の指導にならない、と。
どちらか一方が悪いのではありません。人前という形式そのものが、両方を甘くするということです。
隣の部屋で聞いてはいけない
面白いのは、他人の独参を聞くことを本が明確に禁じている点です。
自分が指導を受けるわけではなく、隣で聞いているだけなら参考になるのではないか。そう考える人がいるかもしれない、と本は先回りします。
それに対する答えが、これです。
「数学の問題を解こうとするとき、答えを見たり、解き方を見たり、解法の講釈を聞いたりしたのでは、自分の力には全くならない」
同じことだ、と言うのです。
さらに、話す側も禁じられています。
「室内即ち独参上のことは、絶対に秘密を守って何人にも知らせてはならない」
古参の人が室内の様子を後輩にこっそり教える。それを真似して切り抜けようとする人が出る。そして、それに騙されて通してしまう指導者まで出てくる——。
そういう荒れ方の実例まで、本は書いています。
ここは、経営の現場にもそのまま持ち込めると思いました。
正解を先に知ってしまった人は、自分で考える機会を失います。答えを教えるのは親切に見えて、その人の力になる場面を一つ奪っている。
社内でも、似たことは起きています。
前任者が残したメモや、先輩から渡される「こう答えておけば通る」という要領。悪意はありません。むしろ親切のつもりです。
けれども、それを受け取った人は、自分で考えた経験を持たないまま先に進みます。
そして本が挙げている最悪の形は、指導する側がそれに気づかないことでした。真似で切り抜けた人を、そのまま通してしまう。
見抜けない指導者がいる組織では、要領だけが先に伝わっていきます。
師は一人に限る。ただし、換えてよい
もう一つ、はっきり書かれている原則があります。
見性の前の修行者が独参する師は、必ず一人に限る、というものです。
理由は単純です。二人の師につけば、指示が二通りになる。どちらに従うか分からなくなり、修行が純一でなくなる。
「同時に二師に入室独参することは、百害あって一利なく」
「二兎を逐う者は一兎をも得ず」という言葉も引かれています。
ところが本は、その直後で意外なことを書きます。
一度選んだ師を、一生変えられないわけではない、と。
「師匠と弟子と心の波長が合うということが極めて大切である」
波長が合わない相手に就いていても、しっくりこないまま終わる。もっと優れた方に出会い、そちらに就ける事情があるなら、就いてよい。
そして、こう言い切ります。
「今までの師匠に対する義理とか人情とかに拘泥する必要は毛頭ない」
ただし条件が付きます。換えたら、前の師の指示は全部捨てること。
「旧師の指図は参考にも供してはならない」
ここまで徹底するのか、と思いました。中途半端に両方を持ち続けるくらいなら、きれいに捨てろ、ということです。
図2 師は一人に限る。ただし、換えてよい——禁じられているのは指示が二本になること
全体会議を何回やっても、人は変わらない
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。ERPと呼ばれる、会社の業務を一つの仕組みに載せる種類のものです。
導入の現場では、全体説明会をよく開きます。新しい仕組みの目的を話し、画面を見せ、質問を受ける。
そして、質問はほとんど出ません。
出ないのは、理解しているからではありませんでした。この本の言い方を借りれば、みんな着物を脱いでいないのです。
実際、その場では黙っていた人が、席に戻ったあとで小声で聞いてくることがあります。こんなことを聞いていいのか分からなかった、と。
だから今は、全体説明会の後に、必ず個別の時間を取るようにしています。十五分でかまいません。二人だけで画面を開いて、実際の伝票を一件だけ触ってもらう。
その十五分で出てくる質問の数は、全体会議の一時間とは比べものになりません。
しかも、出てくる質問の質が違います。
全体会議で出るのは、たいてい建前の質問です。方針の確認や、他部署への要望。答えても、その人の仕事は一ミリも動きません。
二人きりになると、質問は具体的になります。この取引先だけ処理が違うのだが、どうすればいいのか。先月の締めで合わなかった数字は、この画面のどこを見れば分かるのか。
本が書いていた通りだと思いました。担いでいる病気は、一人ひとり違うのです。
全体会議は衛生講話です。目的を共有し、言葉をそろえるためには要ります。けれども、そこで人が変わることは期待しないほうがいい。
変わるのは、二人きりで、逃げ場がなくなったときです。
まとめ——逃げ場のない十五分をつくる
この節から受け取ったことは、三つです。
- 全体への話では、一人ひとりは治療できない。本は、提唱すら衛生講話と同類だと書いています
- 人は、人前では我という着物を脱がない。しかも、地位や教養がある人ほど厚く着ています
- 禁じられているのは複数の師ではなく、指示が二本になること。換えるなら、前の指示は全部捨てる
私は、この節を人材育成の教科書として読みました。
一対一の時間を取っていない組織で、人が育たないのは当たり前です。全体会議の回数を増やしても、衛生講話が増えるだけだからです。
心を高める、経営を伸ばす。その入口は、大きな場をつくることではなく、逃げ場のない十五分をつくることかもしれません。
ただ、この本は一つの問題を「別に項を改めて説明する」と書いて先送りしています。正しい師を、どう見分けるのか。次回は、その話です。
明日、一つだけやってみる
全体への説明のあとに、一人と十五分だけ、二人きりで話す時間を取ってみてください。全体の場では出てこない質問が出るかもしれません。
よくある質問
Q. 独参では、何を話すのですか。
本は、話した内容を他人に知らせてはならないと明確に書いています。ですから、この記事でも具体的な中身は書きません。
書けるのは形式だけです。一人ずつ師の部屋に入り、二人きりで、遠慮のないやりとりをする。それが独参です。
Q. 提唱や講演は無駄だということですか。
無駄だとは書かれていません。同類だと書かれているのは、一人ひとりの治療にはならないという一点についてです。
全体に向けた話は、言葉をそろえ、地図を渡す役に立ちます。ただし、それだけで人が変わるとは考えないほうがいい、という読み方を私はしました。
Q. 会社の1on1も、同じように考えていいのですか。
同じものではありません。独参は禅の修行の仕組みで、師弟の縁を結ぶ厳格な作法があります。
ただ、一対一でなければ我の着物は脱げない、という指摘は仕事の場にもそのまま当てはまると私は考えています。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第三章第九節「独参について」。独参の定義、医者のたとえ、我の着物、師を一人に限ること、師を換えるときの心得は、すべてこの本文による
- 秘密教が今日いう独参にあたるという指摘は、同書が原田祖岳老師の言として記しているもの
- 本文でお名前を記したのは、同書の著者のみです。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
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