前回の結びに、こう書きました。ここまでが坐禅——「内」を修める道の話。次は目を「外」へ向ける、と。今回がその話です。変化しつづける世界の構造を、どう読むか。その道具が、易です。
易と聞くと「占い」を連想して、眉に唾をつける人も多いでしょう。しかし岡本吏郎先生は、若き日に池袋の大型書店で『易経』と出会って以来30年以上、易の学校にも通わず権威に教えも請わず、独学で『易経』と格闘してきました。そして、実務の世界で使いつづけてきたと書いています。起こる前の変化を察知して対応し、目先の利益に踊らされず、深く長い成果を得てきた——易は「実際に使ってナンボ」の実学だ、と。
『ビジネスパーソンのための易経入門』は、その30年の使用実績から書かれた本です。今回はこの本から、経営者が易とどう付き合うべきかを読み解きます。
人生に「地図」が欲しい——易経とは何の本か
岡本先生は、若い頃「人生の地図」を探していたと打ち明けます。神様が書いた詳細なプログラムが欲しかったわけではない。ただ、未知に覆われた人生を歩くとき、登山地図のように大雑把なルートと地形を教えてくれ、迷ったときの指針になってくれるものが欲しかった——。その地図が『易経』でした。
ポイントは、易経を道徳の書ではなく「構造」の書として読むことです。岡本先生は、「構造」と「道徳」の混同を回避すると世の中には急激に役立つものが増えてくる、それを易経に教わったと言います。易経の64卦は、「善く生きよ」という説教ではなく、「物事はこういう局面ではこう展開する」という変化のパターン集なのです。困難の中でどう信念を保つか(坎為水)、ピンチで目上の助けをどう得るか(水山蹇)。良いことはなぜ長く続かないのか——人生で遭遇する局面の構造が、64のパターンに圧縮されている。だから地図として使えるわけです。
図1 「道徳」と「構造」の分離——同じ古典でも、読み方ひとつで地図に変わる
ちなみに、この読み方は易経に限りません。学習01で書いた「二層の故き」で言えば、易経は第一層——人類が数千年かけて残した古典の代表です。古典を説教として棚に飾るのではなく、構造として取り出して自分の実務に当てる。岡本先生の30年は、第一層の古典を「自分の歴史」という第二層に変換しつづけた30年でもあります。温故知新とは、まさにこの往復運動のことです。
易は「無意識」へ接近する道
この本の白眉は、易と無意識をつなげた章です。ここは、岡本先生の「無意識セミナー」に通じる核心部分でもあります。
岡本先生はまず、昨今の「無意識利用ブーム」に釘を刺します。無意識を人間が自由にコントロールしようというのは、あまりに自己都合な考えだ。無意識は過酷な自然と同じであり、私たちは自然を利用して生きてはいるが、100パーセント制御することはできない。いつ嵐や地震が来るかわからない相手の「特性を知り、それに合わせて上手に利用していく」しかない——。
そして、易を無意識への接近路として研究したのが、心理学者のユングでした。ユングは治療中の患者に易占を行ってその記録を取り、易の卦が示すイメージやシンボルが、人類共通の心的パターン(元型)と通底することを見出します。因果関係のない二つの出来事が意味を持って同時に起こる「シンクロニシティ(共時性)」の理論も、易占の実験から生まれました。日本にユング心理学を紹介した河合隼雄も、研修中に対応に困った患者へ易占を行ったと語っています。
つまり易とは、コントロールできない無意識という「自然」の気配を読むための、数千年かけて磨かれた観測装置なのです。学習する組織の記事で「人間の行動の7〜8割は無意識」と書きましたが、メンタル・モデルのさらに奥にある層に接近する道具が、東洋には昔からあったということです。
「帝王の学」——兆しを読み、すぐ決断する
幕末・明治の漢学の巨人、根本通明は「易は帝王の学なり」と言い、易を知らない者に宰相の資格はないとまで断じました。なぜ易がリーダーの学問なのか。
それは、易の本領が「幾(き)」——物事が動き出す直前のかすかな兆しを読むことにあるからです。変化は、目に見える形になってからでは遅い。兆しの段階で察知し、すぐに決断する。岡本先生自身、易の判断で新事業を中止した実例をこの本で明かしています。人の上に立つ者ほど、選択に悩む場面は多く、その判断の巧拙が多くの人の運命を左右する。だからこそ、変化の構造と兆しの読み方を体系化した易が「帝王の学」なのです。
図2 幾を読む——①の段階で動けるか、③まで気づかないか。リーダーの明暗はここで分かれる
経営もまた、判断の連続です。禅が判断する心を鎮める(定力)なら、易は判断の対象である変化を読む。内と外、両方から判断の質を上げる道具立てが、東洋哲学には揃っています。
究極は「占わなくてもいい」
意外に思われるかもしれませんが、岡本先生は易占を積極的には勧めていません。オカルト方向に舵を切りすぎると本来の目的から乖離する、できるだけ現実的な視点で易と付き合う方が実りは多い、と。
そして本の終盤には、こんな話が出てきます。荘子には、占いに頼らず自分で吉凶を判断せよという趣旨の言葉がある。禅の南隠老師にいたっては、占いをしてみなくてはわからないようでは、とろくさい——と一刀両断です。占いは「見たくない現実」を直視するための便法としては有効だが、本来は、目の前にある事実をちゃんと見ればよい。そして64の卦を理解できれば、占いをしなくても次に起こることは想像がつくようになる——これが岡本先生の到達点です。
易は当てるための道具ではなく、変化の構造を身体に染み込ませるための教科書。学び切った者にとって、占いは卒業するものなのです。
まとめ:最後の卦は「未完成」
易経64卦の並びには、深い仕掛けがあります。63番目の卦は「水火既済」——完成。しかし易経はそこで終わらず、64番目、最後の卦は「火水未済」——未完成で締めくくられるのです。人生に完成はない。完成したと思った瞬間から、次の変化が始まっている。
図3 未済の円環——易経は「未完成」で終わり、また始まりに戻る。学びの円環と同じ形をしている
この結末は、これまで書いてきたすべてに響き合います。学習する組織の「学びつづける経営者」、稲盛氏の「門前の小僧として生涯学ぶ」、窪田老師の「いくつになっても向上心をもって努力する」。東洋の知恵は、口を揃えて同じことを言っています——完成しないからこそ、学びつづける。
今回の要点を整理します。
- 易経は「構造」の書として読む——道徳と構造を分離した途端、数千年前の古典が人生と経営の地図に変わる
- 易は無意識という「自然」の観測装置——コントロールではなく、特性を知って上手に付き合う。ユングが研究した接近路
- 本領は「幾」を読むこと——兆しの段階で察知し、すぐ決断する。だから帝王の学であり、リーダーの学問
- 究極は占わなくてもいい——64の卦を理解できれば、変化の構造そのものが読めるようになる
禅は、変化に揺れない心の軸をつくる。易は、変化そのものの構造を読む地図をくれる。この両輪が揃ったとき、「心を高める、経営を伸ばす」は、精神論ではなく技術になるのだと思います。
ただ、ここで一つ、問いが残ります。心の軸ができ、変化の地図も手に入れた。では——その地図を持って、自分はどこへ向かうのか。どの水を泳ぐのか。次回は、西洋の哲学者スピノザに聞きます。「魚は水を出ない」——自分の望む生き方の見つけ方、という話です。
よくある質問
Q. 易は、結局のところ占いではないのですか。
岡本先生自身、易占を積極的には勧めていません。易経の本体は説教でも占いの当てものでもなく、変化のパターン集——「構造」の書です。64の卦を理解できれば、占いをしなくても次に起こることは想像がつくようになる。これが本の到達点です。
Q. なぜ易は「帝王の学」と呼ばれ、リーダーの学問なのですか。
易の本領が「幾」——物事が動き出す直前のかすかな兆しを読むことにあるからです。人の上に立つ者ほど選択に悩む場面は多く、その判断の巧拙が多くの人の運命を左右します。兆しの段階で察知し、すぐ決断するための学問だからです。
Q. 前回の坐禅(禅)と、易はどう関係するのですか。
禅は、変化に揺れない心の軸をつくります。易は、変化そのものの構造を読む地図をくれます。禅が判断する心を鎮めるなら、易は判断の対象である変化を読む。内と外、両方から判断の質を上げる両輪です。
