信用の中に生きること、分かち合う技術のこと

社会がめちゃくちゃになっている。歴史を見ると、人類社会というのは結構な頻度でしっちゃかめっちゃかになっているものだから、自分が生きているうちにこういうことが起きるのはむしろ自然と言えるのだけれど。じゃあ、実際その場に出くわしてみるとやはりなかなかに厳しいものがある。賢者は歴史に学ぶというから、こんな時は歴史を引いて上手いことの一つも言えればいいのだけれど、僕自身もこれからどうしたものかは正直判然としない。

「チャンスだと思え」みたいな話もあるけれど、それはそれで結構難しいところがある。周囲の人たちが生き残りをかけて足掻いているときに「これはチャンスだ」と叫んでもなかなかに空しい。もちろん、この事態が起きると同時に奇貨居くべしと叫んで行動を始めた知り合いもそれなりにいる。でも、それはつまるところ社会の動乱がチャンスだと思える場所に彼らがいたということでしかない気もする。お金や能力を持っていて、かつ社会的自由度が高く同時に短期間で逼迫する恐れがない。そういうポジションにいた人たちにとって、社会の動乱は確かにチャンスではある。でも、それはマインドの転換とか考え方とかそういうものではなく、ふさわしい時にふさわしい場所にいたという話に過ぎない。

じゃあ、どうすればいいんだろうか。

わからない。僕も社会が危機的状況になるのを見るのはこれで何度目かになるし、リーマンショックや東日本大震災の時よりは今の方が大分落ち着いている気もする。でも、実際のところを言えばこれから自分がどうやって食って行くのかといわれれば、「一生懸命やっていくしかないな」というような話しかできない。障害者にやさしくない世界だな、と思う。実際のところ、みんなそんなものだろうと思う。冷静なふりをするのが上手い人とそうではない人がいるくらいの差で。じゃあ、しょうがない。一生懸命やっていく話をしよう。

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クレジットヒストリー

ただ、こういう社会の動乱が起きると明確になることがあるように思う。それは、社会の分断みたいなもので、端的に言うと「仲間であれる人」と「そうではない人」が残酷なくらい分けられてしまう。盆にのせられた泥を水の中で振ると砂金と土砂が分離していくみたいに、社会がブンブン振られると人間はどんどんより分けられていく。普段だったら一緒にいられた人が一緒にいられなくなる。

社会を動かしているものは色々あるけれど、やはり信用というものはとても大きい。この人は仕事を任せられる人だとか、この人は判断を間違わない人だとか、そういう風に周囲に認められているのは即ち巨大な財産を持っているということだ。信用、クレジット。このクレジットを失ってしまうと人間は身動きが取れなくなる。何をするにもこの社会では信用が必要になる。前払いでしか決済してもらえない人と、後払いで物を売ってもらえる人。この二人の間にはとても大きい差がつく。誰もが知っている通り。

商売をしていく上で、それは生きていく上でということと大体同義なのだけれど、この信用というやつは途方もなく大きい。強者とは何かと言えば、それはたくさん信用されている人であり、あるいは弱者といえば誰からも信用されない人だ。強者の世界は信用で回り、弱者の世界は不信で回っている。想像してみて欲しい、あなたの周囲の人間が誰一人信用できない状況のことを。テーブルの上に置いておいた財布は消え、書類は見ていない間に書き換えられる。あなたはそれを前提に物事を進めていかなければいけない。これはちょっとした悪夢だ。不信に支配された状況というのは、端的にコストが非常に高いのだ。それに引き換え、その辺に財布を放り出しておいても安心できる部屋ならあなたはとても楽が出来る。

誰かを信用するというのはとても楽なことだ、そして人間はいつだって楽がしたい。読み込まないとマズイことが起きるとわかり切っている契約書に何も考えずハンコをついてしまう人たちがたくさんいるように、人間はこの楽をしたい、信用をしたいという衝動に勝つことは出来ない。だから、それがわかっている強い人たちは信用できる人間のコミュニティを形成する。そこではあらゆるコストが安く上がるし、人間は損をしないことより得をすることに力を費やすことが出来る。もう誰も信用なんかしない、みたいな決心が若いころにあった人は多いだろうけれど、実際誰も信用せず生きてこれた人なんてまずはいない。もしいたとしたら、その人はおそろしく苦しく貧しい人生を生きていると考える他ないのだから。

こういう急転直下で世界が変動する時期、人間というのは普段取り繕っていた自分を見失ってしまうことがある。商売における信用というのはシビアなもので、窮地に正気を失って喚き散らしてしまう人をもう一度信用する人はあまりいない。そういう人は、気づけば「信用」のコミュニティからはじき出されてしまう。もう一度、「信用」の世界に戻ることは決して楽ではない。戻れた人を見たことは、あまりない。

スラムで楽しく暮らす方法

最も不信が横行する場所とはどこかと考えてみると、それは貧しい人たちの集まる場所だし、平たく言えばスラム街だ。幸い僕は北のスラムと呼ばれる地域から出て来たので、スラムの事情にはそれなりに詳しい。そこで起きることは、端的に言えば分かち合いの欠如だ。人間というのは、分かち合えば豊かになる。一人10万円で暮らすのはかなりキツいけれど、3人で20万円ならそれなりに暮らせるし、3人で30万円なら娯楽にお金を費やす余裕さえ生まれて来る。しかし、テーブルの上に財布を置いておいたら消えてしまうような不信に蝕まれた場所で分かち合うことが出来るかといえば、それは難しいとしか言いようがない。スラムで楽しく暮らす方法はとても簡単だ、テーブルの上に財布を放り出しておいても金を盗まないと確信できる仲間が二人もいればいい。

奪い合うのが弱者で分かち合うのが強者だ、と言えば違和感があるかもしれない。しかし、現実を言えばそういうものだ。強者は限られた資源を上手に分け合ってどんどん豊かになるし、弱者は限られた資源を奪い合ってどんどん貧しくなる。信用できる友人の財布を盗んだ男は、途方もなく大きなものを失ってしまう。それは、あなたの周りにもきっといる、小銭を借りたまま返さない人たちを思い浮かべてみるといい。小銭を借りたまま返さないという事態は、実は貸した側にとってとても安上がりだ。「こいつは信用できない」とたった数万円で決定できるなら、そんなお得なことはそれほどない。残念ながら、そうなってしまう。とても残念だけど。

厳しい事態にはみんなで力を出し合って向かっていくしかない。こうして周囲を見渡してみても、感度の良い人たちは既にコミュニティの固め直しを始めているのが見てとれる。これまでは酒場に集まっていたものがオンライン上の会議になったり、あるいは個人的な連絡になったりその様相は様々だけれど、そこには信用できる世界を守っていくという確かな意思がある。そして、そこには不可避の事態として信用できない人間の排除という力が発生してくる。これは、本当に仕方がないとしか言いようがない。

生き延びていくために

あなたが今どういう状況にいるのかはわからない。資金繰りの限界ラインで戦っているのかもしれないし、あるいは自宅で焦燥感に焼かれながら動けずにいるのかもしれない。あるいは、鬱に悩まされながら締め切りに遅れつつ文章を書いているのかもしれない(これは僕の話だ)。ただ、それでも確かに言えることがある。僕とあなたはいつかどこかで協力するかもしれない人だ。お互い、信用しあえるに越したことは絶対にない。

喚いて叫んで不遇を嘆き誰かを糾弾する、そういうことがしたい気持ちは痛いほどわかる。僕だって社会に向かってふざけるなと叫びたいことはとてもよくある。でも、それは信用の盆からはじき出されてしまう人の行動なのだ。こういう状況になると、ヒステリックな極論だとかある種の陰謀論だとか、戦争が起きるぞとか食糧危機が来るぞとか、そういうことを叫ぶ人がたくさん出て来る。そういう叫びに一体化すると確かに精神的に楽になるところはあるかもしれない。でも、あなたのその行動を誰かが見ている。そして、あなたのクレジットは失われる。事態に現実的な形で立ち向かえない人間を誰も信用しない。

扇動はいつも親の総取りだ、扇動された側が得をすることなんて見たことがない。食糧危機や戦争が本当に来ると考えている人に、狼が来るぞと叫ぶ暇なんてあるわけがない。現代において、100%当たる予言は天文学的な額の現金と同じ価値を持つのだから。あなたは、生き残ろうとベストを尽くす側であると周囲に思われていること。信用のコミュニティの中に残ること。これ以上に大事なことは、多分あまりない。

これまでもこれからも、きっとこういう破滅的な事態というのは度々起きて来る。その時に自分がどういう状況にいるかなんて、常にわからない。ただ、僕は月収6万円のガキどもが3人集まってそれなりに豊かに生活した、あのスラムの日々を覚えている。つまるところ、それさえ失わなければ大丈夫じゃないかなと思っている。

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この記事を書いた人

1985年、北海道生まれ。大学卒業後、大手金融機関に就職するが2年で退職。
現在は不動産営業とライター・作家業をかけ持ちする。
著書に『発達障害サバイバルガイド: 「あたりまえ」がやれない僕らがどうにか生きていくコツ47』(ダイヤモンド社)、『発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』(KADOKAWA)がある。

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