これは毎月給料を貰えて当たり前だと認識している人には伝わりにくい考え方なのだけれど、「申し訳ありません、お金が払えません」と連絡してくるのはどちらかと言えば「信用できる」人だ。僕自身が自分の商売を一度吹っ飛ばしてしまった人間だからこれは身に染みてわかる。精いっぱい頑張ってそれでもだめだった人に、商売人たちはそれほど厳しくない。そういうことは当然に起きることだと誰もが理解している。明日は我が身だ。

みなさんも派手に会社を吹っ飛ばした社長がのうのうと社会にカムバックしているのを見たことがあると思う(かくいう僕がそういう人間だから、少なくとも一人は見ている)。そんなわけで、資本主義社会には意外なほどやさしい一面がある。過去にどれだけの失敗をカマした人間であっても、金になりそうなところさえあれば、期待する余地さえあれば再挑戦のチャンスは与えられるものなのだ。

とても残念なことなのだけれど、株式会社の10年生存率なんかを調べればわかる通り、あなたの事業が上手くいく可能性は―少なくとも確率的には―高くない。もちろん、失敗する気で商売に挑む人はいないだろうし、必勝の策の一つや二つは用意していることだと思う。僕もそうだった。でも、結局僕は派手に失敗してこうして借金を抱えた借金玉として生きている。だから、僕はあなたが勝負に敗れた時、それでも生き残る方法をお伝えしたい。

商売人はいつ死ぬのか

僕は会社経営に失敗して2000万の借金を背負ったけれど、こうしてのうのうと生きている。最近はついに会社の預金残高が借金額を上回り新規事業に手をつけようかという野望も出て来た。これはどういうことかというと、事業に失敗してマトモに働いては返しようのない借金を背負ったくらいでは商売人は死なないということだ。僕も生きている。

その一方で、僕は商売人が「死んで」いくのを随分たくさん見てきた。その人たちの犯した失態は、多くの場合金銭面で言えば僕より小さいものだった。ひどいパターンだと、僅か数万円のお金で「あの人はもうだめだろう」みたいな状態に陥っていくのさえ見てきた。もちろん、生きてさえいれば原理としてチャンスはあり得る。でも、僕がここで定義する「もうだめだろう」という状況からカムバックした商売人を見たことは、残念ながら一度もない。

金がなくても、借金を背負っていても、誰かが儲かりそうだと期待してお金や信用を提供してくれれば商売はいつでも始められる。世の中にはそれなりの数の資産家が存在するから、彼らにとって「投資したい」と思える人間であり続ける限り、商売人はゾンビのごとく、プラナリアのごとく死なない。

あまりもったいつけるのもなんだからとっとと答えなのだけれど、商売人が死ぬのは「誰にも期待されなくなった」時だ。しかし、商売に失敗して借金を抱え、挙句鬱をこじらせて家から出られなくなった僕にすら期待してくれる人がいたというのに、「誰にも期待されない人」というのはどういう人だろうか。商売にボコボコに失敗して得た負け犬の知恵で恐縮なのだけれど、ここに生き残りのカギがある。

超短期的合理性

商売における判断なんて、多くの場合は丁半バクチだ。ツイッターを見ているとインディーズの経営コンサルをやっているみなさんが有名経営者の判断について様々に批評しているけれど、実際のところ「判断が正しかった」ことより「判断して実行出来た」ことの方が僕はずっと大切だと思う。たとえ、その結果が破滅的な失敗であったとしても。

その一方で、「誰がどう見ても愚かな判断」は存在する。この最も顕著な一例が「払えないお金をバックレたまま放置する」みたいなものだ。これは判断として最悪中の最悪だと言っていい。もちろん、「払えません」と頭を下げるのは内臓をねじ切られるように辛いことだ。しかし、「辛いのが嫌だから放置した」みたいな判断は誰がどう見ても間違っている。

「なんだそんな簡単なことか」と言わないで欲しい。どん詰まった人間は、多くの場合そんな簡単なことを派手に間違う。あなたの周囲にいる「誰がどう見ても愚かな」人間を思い出して欲しい。身近なところで考えてみよう。「金を返せと怒られた友人の悪口を他人に吹聴し、別の人間から金を借りてパチンコを打って酒を飲む」こんな人間を一人くらいは見たことがあるのではないかと思う。この行動は誰がどう考えても合理的ではなく愚かなものだろう。

この「愚かさ」を精密に分析してみると面白いことがわかる。この行動は、「極めて短期で見れば」合理的なのだ。「友人に金を返せと怒られた憂さを晴らしたかったから悪口を吹聴した」「パチンコを打ちたかったから借りた金で打った」、どちらも数時間とか数分とか数秒の単位で「合理的」なのだ。

人間は、実にしばしば長期的に考える能力を喪失する。「きちんと頭を下げれば最低限守り通せたはずの信用」より、「お金が払えないことを詫びる苦しみを味わいたくない」とか「パチンコを打ちたい」みたいな超短期的合理性を優先してしまう。こういった超短期的合理性―愚かさ―は誰しも思い当たるものがあるだろう。ダイエットはしたいがシュークリームは食べたいのだ。

商売人が「死ぬ」のは、この超短期的合理性に全てを支配されてしまった時だ。これはもう、誰がどう見てもわかるのだ。残酷なことに、本人だけがそれに気づけない。「おいおい、どうしたんだ?あんたそこまでバカじゃないだろ、なんで自分で自分にトドメ刺しちまうんだ!」みたいな経験を僕自身何度もしてきた。それはとてもとても悲しいことだった。本当にただただ悲しいんだ、あれは。

合理性の射程を長く保とう、苦しいときほど

商売に限らず、人生には苦境がやってくる。どうしようもなく苦しくて、目先のことしか考えられない時というのは間違いなくある。僕自身、「超短期的合理性」を常に振り払ってきたとは到底言えない。そんな人間なら下っ腹が日々出っ張ってくることに悩んではいない。しかし、それでもあなたが商売をする気であるなら、自分自身の判断の射程がどれくらいの長さを保てているのかは常に精査する必要がある。

もうとっくにわかっていることだとは思うけれど、これは「商売には信用が大切」というだけの話だ。あるいは「人生には信用が大切」という話でもいい。僕が見る限り、人間が生き残るために最低限必要な信用、守りぬくべき最後の一線を踏み越えるのはいつも本人の足だ。たったひとさじ残った最後の信用をドブに投げ捨ててしまう人を僕はたくさん見て来た。本当に悲しいことだったんだ、何度も言うけれど。

信用は長期的な合理性にしか宿らない。1分先のことしか考えられない人を、1時間先のことしか考えられない人間を誰が信用するだろうか。そして覚えておいて欲しい。「すいません、お支払いできません」と奥歯を噛みしめて詫びる人間は、究極的には「信用される」のだ。もちろん、お支払い出来なかった後にどうするのかは個別に考えていく必要があることだけれど。

「次は上手くやります」と一言絞り出せる限り、人間は死なない。


書き手:借金玉