「失敗」の後に生き残るために

人生には、うまくいかないことがある。

「叶わなかった祈りより、叶えられた祈りのためにより多くの涙が流される」とトルーマン・カポーティが言っていたけれど、本当によくできた言葉だ。人がまさにどん底と呼ぶべき状態にあるとき、それは未だ悲劇ですらない。「悲劇」であったと世の人に認めてもらえるのは、あなたが首尾よく次のチャンスをモノにしたときになる。

商売の失敗は、無残だ。「経営はリスクコントロールが大切」なんていうけれど、事業を興すには大抵のところ人間のオールインが求められる。あなたのお金も信用も能力も人脈も人格も人生もぶっこんだ大勝負。「ここで引いたら全部おじゃんになる」という状況が容易に発生するのが創業の怖いところだ。「適切に損切りをしろ」なんて正論はちょっとお呼びではない。

すぐに人間というのは行きつくところまで行ってしまう。それがどこまでなのかは人によるけれど、このあたりのディティールを考えてもあまり意味がない。2000万の借金が残った30歳と、我が家と息子の学費を失ったが借金は首尾よく清算出来た45歳のどちらが辛いか検討するような話はナンセンスだ。みんな辛いのだ。

失敗して失う、それは本当に辛いことだ。

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山盛りのクレソンを売る

僕が何もかもを失って社会に戻ってきた頃、ありがたいことに「Webで何か文章を書いてみないか」という人づての引き合いがあった。僕は「いかに僕は会社経営に失敗したか」みたいなものを書いて納品した。あのときの気分は今でもはっきり覚えている、どうしても肉が仕入れられなかったので、大盛りのクレソンをお客さんに出すステーキ屋の気持ちだ。

ありがたいとことに、山盛りのクレソンは好評をいただいた。それ以来僕は文章でお代をいただけるようになったと言えるかもしれない。何が言いたいかといえば(数少ない成功体験の自慢か?といわれば、その通りです…と小声で答えるしかないにしても)、「失敗」は語り口次第で立派なコンテンツになるということだ。

「俺はコンテンツセラーじゃねえんだよ」とか「おまえみたいな恥知らずの自分語りでカネなんぞ稼ぎたくない」というあなたの怒りは当然だから、もう少し話を聞いて欲しい。良質なコンテンツになるということは、人はその経験に価値を認めるということだ。即ち、そこにはチャンスが生まれて来る余地がある。僕は経験を「売文」という形で生かしたけれど、あなたは別の形で生かせるかもしれない。出資を取り付けられるかもしれないし、有力な協力者を口説けるかもしれない。

思った以上に人は「失敗」について知りたがる。これは経験的な事実ではあるのだけれど、「失敗」のディティールを知りたがるのは有能な人に多い傾向だ。ちょっと考えてみればわかるけれど、成功体験は極めて個別性が高い。成功者の真似をしても期待値はあまり高くないし、誘蛾灯のように輝く成功太郎に惹きつけられて大成功した蛾を僕は一匹も知らない。

実際、あなたがこの文章を読んで(そんなもの好きが一人でもいればだけれど)、「そうか俺も失敗体験を書こう!」と思い立っても、お金が舞いこんで来る期待値はそれほど高くないだろう。これは僕の能力が際立って高いとかそういう話ではなく「その時に求められていたコンテンツ」だとか「たまたまライターが全然足りていなかった」「Webにおける商業的テキスト市場が急成長の時期にあった」みたいな状況依存の要素がどうしても発生してしまう。

一方で「ここに落とし穴があって、落ちた」という実も蓋もない情報は、非常に高い現実的な価値がある。華やかさと夢は不足しているけれど。

実はたくさんいた「先輩」たち

事業をコカすと発生する数少ない心温まる出来事に「実は私もやらかしてましてね…」という話を小声でしてくれる「先輩」たちの出現がある。人はそう簡単に苦しい過去を語らない、しかしまさに失敗のどん底にある人間の前では口もやわらかくなるというもので、「株式会社のn年生存率」なんて世にも恐ろしい統計がちょっと検索すれば出て来るのだけれど、あの数字のリアリティがやっと体感出来る瞬間だ。

それはそうなのだ。世の中において「成功」する挑戦はそう多くない。珍しいから成功者はちやほやされる。数多の挑戦はほとんどが失敗に終わる。大きなチャレンジをする人を指さして「見てろ、あいつは失敗するぞ」と言えば大抵は当たるのだ。これは失敗の予言なんてなんの価値もないということに過ぎないんだけれどね。

つまるところ、「失敗」は非常に扱いの難しいコンテンツだと考えるのが良い。「失敗歴がある」と「失敗歴すらない」を比べると前者の方が強いことは誰でも直感的にわかると思うのだけれど、一方で「どうしようもないザマをやらかしてしまった人」の評価が「何一つやってこなかった人」を下回ることもありふれた事実だ。この差はどこで決まるかといえば、失敗の後にどのような行動をとり、何を語るのかということになる。

みんな失敗する。でも、ずっと焼き畑をやれるほど世界は広くない

2020年に商売をするなら、誰もが程度の差こそあれインターネットという網から逃げられない。世界は信じられないくらい狭くなった。ひと昔前は、失敗した人の選択肢として「自分を知る人のいない土地へ移動してやり直す」という話を聞いたものだけれど、現代でこの手はあまり現実的とは言えない。「評価経済」という言葉はボンヤリしていてあまりピンと来ないのだけれど、それは要するに「失敗した人がケツをまくって逃げられない時代」ということのような気がする。

さて、この文章の結論はこういうことになる。現代において「失敗」の後にあなたが語る言葉や取る行動は、これまで以上に大きな意味を持っている。もちろん、人それぞれやり方は全く違うし、こういった話のお約束通り「こうすれば上手くいく」というセオリーはない。しかし、「これはだめだ…」という失敗例はたくさんある。その最もわかりやすいものが「焼き畑」型だ。

商売において「損切り」は有力な選択肢といえる。しかし、商売における対人関係においてこれを行う人間は、間違いなく大損をすることになる。Aさんが買うなら100万円、Bさんが買うなら10万円みたいな発想は勤め人をされている方にはピンと来ないかもしれないけれど、ビジネスにおいて信用はそのまま値札に直結するのだ、信用がなくなるということは万物が値上がりするということに他ならない。一人ハイパーインフレみたいな世界がやってくる。関係性を一方的な都合で「損切る」人は、間違いなくこの穴に落ちる。

何かに失敗したとき、人は関わっていた人や場所を悪しざまに言いたくなる。「自分に責任はないのだ」と言いたいその心理は痛いほどにわかる。顧客も取引先も関係先も、何もかも敵みたいに見えたことが僕自身にもあった。それは一定の真実を含むかもしれない。実際、敵は存在するだろう。しかし、あなたは自らの「失敗」を誰かに語れる再起の素材とするまで、その言葉が十分に練りあがるまであなたの中にとどめるべきだ。

「自分ではない~のせいで失敗した」こういった攻撃性の強い発言は、「失敗体験を経験的なノウハウとして昇華できていない」という評価へと直結する。こうなると、「失敗体験を生かして次は上手くやるんじゃないか?」という人たちは間違いなく遠ざかっていく。大失敗の後というのは、人間が「底値」になっているタイミングで、それを見逃さない商売人は間違いなく存在するのだけれど(底値が嫌いな商売人が一人だっているだろうか?)、その人たちを追い払ってしまってはどうしようもない。

失敗のあとにどうするべきか、どうせまた失敗して何もかも失うことがほとんど確定的な未来と言える僕にとって一生を通したテーマと言える。この文章を読んだ人は、スッテンテンに負けたおっさんのタワ言としてで構わないのでこれだけは覚えておいて欲しい。失敗したなら全部焼いてしまって場所を変えればいいというセオリーは、おそらく現代においてほとんど通用しない。あなたの畑が実らなかったとしても、火を放ってはいけない。そうしたい気持ちは痛いほどにわかるけれど。

あなたが何を失ったのか、そして何が残ったのか理解するには通常時間がかかる。あなたが「私は底値でお買い得です」というサインを出せるようになるその時までは、沈黙こそが正しい答えなのだ。失敗のあとやってくるあの「早く何かしなければ」「なんとか体裁を取り繕わなければ」という恐怖、「一発逆転の勝負をみつけなければ」という焦燥感、あれを振り払って沈黙を選ぶのは、強い意志にしか成し遂げられない行動だ。

あなたの失敗には価値がある、台無しにしてはいけない。

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この記事を書いた人

1985年、北海道生まれ。大学卒業後、大手金融機関に就職するが2年で退職。
現在は不動産営業とライター・作家業をかけ持ちする。
著書に『発達障害サバイバルガイド: 「あたりまえ」がやれない僕らがどうにか生きていくコツ47』(ダイヤモンド社)、『発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』(KADOKAWA)がある。

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