菜根譚の半年を終えたとき、こう書いた。線を遠くに引いたその先に、何を目指して歩くのか——。その問いを持って開くのが、佐藤一斎『言志四録』である。真剣に、本を読む会シーズン1は、この語録を一年かけて読んでいった。言志録・言志後録・言志晩録・言志耋録の四部からなるこの書を、一斎は四十代で書き始め、最後の耋録を書いたのは八十代だった。岡本先生がメールマガジンに書いた紹介がふるっている。「八十歳のじじいが約三十年間書き続けた語録で、それが終わりに近い頃になって漏らした言葉」——その一行が、この記事の表題のもとになっている。経書を読むは、すなわち我が心を読むなり。志の書は、意外なことに「読み方」の話から始まった。
多読の書に見えて、精読の書
読書会の各論一回目(第10回・2021年4月)が取り上げたのは、言志録の14条だった。多聞多見——多くを聞き、多くを見ることは、聖人賢人も勧めるところである。現代語訳だけを読めば「なるべく多くの書を読もうとしないわけにはいかない」と、多読の勧めに見える。ところが岡本先生の読みは逆だった。この条には条件が付いている。「資善の心あれば」——他人の善言善行を取って、自分の善とする心があれば、である。 条件を裏返せば、こうなる。資善の心がなければ、見聞の広さはかえって災いする。
同じことを、一斎は後録の239条でもっと率直に書いている。書は選び、かつ精読すべし。若い頃に乱読して時を無用に費やした悔いを記したうえで、みだりに読むな、必ず選べ、と。四十代の文章と、五十代後半からの文章が、同じ一点を指している。講義ではロバートソンの警句——面白半分の乱読は精神の力を衰弱させる——や、スマイルズ『自助論』第八章も並べられた。「知識の量より、知識を得る目的の方がはるかに重要な問題である」。東洋と西洋、江戸と近代で、言っていることは同じだった。
資善の心がない読書がどうなるかは、現代語で言えば「取り込み」である。どこかの本で読んだこと、どこかのセミナーで聞いたことを、自分の意見のように偉そうに言う。心理学の用語だが、世の中には非常に多い、と岡本先生は言う。責任を持っていない人の言葉は弱い——なのに、取り込んでいる人の言葉ほど偉そうに響く。広く読んだ知識が、自分の目で選ばれ、自分の生活で試されないまま口から出ていくとき、読書は災いの側に転がり落ちている。
図1 多聞多見の分かれ道——「資善の心あれば」の条件が、広い見聞を薬にも災いにもする
学びにはタイミングがある——啐啄の機
では、選んで読めばそれでよいのか。講義はもう一段深いところに踏み込んだ。禅の言葉、啐啄の機である。雛が卵の内側から殻をつつく。親鳥が外からつつく。この二つが同じ瞬間に合わなければ、雛は死んでしまう。早すぎても、遅すぎても、である。学びも同じで、きちんとしたタイミングで学ばなければ意味がない——コンサルタントという仕事の急所はここにある、と岡本先生は言う。答えをすぐに言わないのは意地悪ではなく、この人にこの言葉を言うのはいつがいいのかを、常に測っているからだ。
そして現代の最大の問題は、遅すぎることではなく早すぎることだという。早い時期に何かを読んでしまうと、その知識が本当に必要になった瞬間に「ああ、それは本で読んだことがあります」という反応になり、せっかくの武器が台無しになる。将棋の羽生善治さんの言葉を借りれば、ITとネットの進化は、強くなるための高速道路を一気に敷いた。しかし「高速道路を走り抜けた先では、大渋滞が起きています」。高速道路を使うなという話ではない。使わないと先へ行けない。ただ、使った先の渋滞に巻き込まれないためには、高速道路を使いながら、使わない行為——選んだ書を、時を得て、ゆっくり読む行為——を併せてやらなければならない。南極探検の副隊長を務めた西堀栄三郎の「少し知っているということは、考えによっては大変恐ろしいことである」という言葉が、渋滞の中身を言い当てている。
図2 高速道路は使わざるを得ない。だが渋滞を抜けるのは、選び・時を得て・ゆっくり読む「使わない行為」である
経書を読むは、我が心を読むなり
ここまでの話を一点に集める言葉が、耋録にある。八十歳頃の一斎の筆だ。「経書を読むは、すなわち我が心を読むなり。認めて外物と做すこと勿れ」——書物を読むことは、自分の心を読むことである。自分と関係のない外物だと思ってはいけない。
この言葉の重さは、現代でこそ増している。岡本先生は率直に言う。単なる知識が必要なら、もはや本を読む必要などない。映像のアーカイブは本より速く、ネットで知識の習得は終了する。皮肉なことに、この世界が本から「知識の獲得」という役割を奪ってくれたおかげで、私たちは読書の目的が純化された世界にいる。では何のために読むのか。先生の答えは「書籍に宿る無意識」だった。意図の産物であるテレビのドキュメンタリーが面白くないのと同じで、書き手の意図を超えて宿ったものと出会うことが、読書に残された固有の価値である。そして、その無意識を眠らせる元凶を、講義は一語で名指しした。不安である。人は不安になると、情報を集めすぎる。集めすぎた情報は思考にバイアスをかけ、旗色を鮮明にした途端、片方の情報しか入ってこなくなる。合理性を失い、最善と言えない選択をし、本来はたらくべき無意識の判断が動かなくなる。だからこそ、選んだ一冊を静かに開き、声に出して読み、自分の心に何が映るかを見る。読書会が毎回やっているのは、この「我が心を読む」稽古にほかならない。
一斎の学問は、知識の集積ではなく心の修養——心学だった。稲盛和夫さんが「心を高める、経営を伸ばす」を生涯説き続けたことと、これは深いところで呼応している。経営者が書を読むのは、物知りになるためではない。判断を下すその心を、読み、磨くためである。世界の古典という「外の故き」を、自分の心という「内」で読む。温故知新は、書物の中でも内から外への順で起こる。
一年の地図——ここから各論へ
シーズン1の読書会は、この読み方の稽古から始めて、言志四録を主題ごとに読み進めていった。全体の流れを地図にしておく。
図3 シーズン1前半の道すじ——読み方から入り、観ることに至る。底流を貫くのは「我が心を読む」
読み方から入り、言葉(修辞立誠)へ、性・道・教へ、道理と易へ、そして相を観ることへ。順に追うと、これは知識のカリキュラムではなく、心の稽古の順序になっていることがわかる。易については、すでに別の記事で「「人生の構造」を読む地図」として書いた。言葉と道については、この総論から各論として、稿を改めて開いていく。
まとめ——志の書は、読み方の書だった
- 多聞多見には条件がある。資善の心がなければ、見聞の広さはかえって災いする(言志録14)
- 書は選び、精読すべし。乱読の悔いを、一斎自身が書き残している(後録239)
- 学びには啐啄の機がある。現代の最大の問題は、遅すぎることではなく早すぎること
- 高速道路は使いながら、使わない行為を持つ。渋滞の先へ行くのは、ゆっくり読む者である
- 経書を読むは、我が心を読むなり(耋録)。読書は知識の獲得ではなく、心を読む稽古である
四十代で書き始め、八十代でなお筆を執っていた人の語録を読むこと自体が、ひとつの答えなのだと思う。学びに卒業はない。だから経営者は学び続ける——このサイトの出発点に置いた問いに、言志四録は「まず読み方から」と応えてくれた。次は、その各論の一つ目。言志録の十五「修辞立誠」——辞を修めて、誠を立つ。今ここで使う言葉が、人生の構造を決めるという話である。自分の心を読んだ先に、自分の言葉をどう立てるか。続けて読んでいきたい。
よくある質問
Q. 多聞多見とは、たくさん読めという勧めではないのですか。
条件が付いています。資善の心——他人の善言善行を取って自分の善とする心——があれば、という条件です。裏返せば、資善の心がなければ、見聞の広さはかえって災いする。言志録14条の要点はここにあります。広く読むこと自体が善なのではなく、条件ひとつで薬にも毒にもなるということです。
Q. 「啐啄の機」とは何ですか。
禅の言葉です。雛が卵の内側から殻をつつき、親鳥が外からつつく。この二つが同じ瞬間に合わなければ、雛は死んでしまいます。早すぎても、遅すぎてもいけません。学びも同じで、きちんとしたタイミングで学ばなければ意味がない。そして現代の最大の問題は、遅すぎることではなく早すぎることだと語られました。
Q. 知識がネットで手に入る時代に、なぜ本を読むのでしょうか。
単なる知識が必要なら、もはや本を読む必要はありません。岡本先生の答えは「書籍に宿る無意識」でした。書き手の意図を超えて宿ったものと出会うことが、読書に残された固有の価値だからです。だからこそ読書は、知識を獲得する作業ではなく、我が心を読む稽古になります。
