この記事でわかること
- 行き詰まりの報告を「あと少しの合図」として読む見方
- 認めることと距離を示すことを、同じ場所で渡す意味
- 受け取り方は人によって逆に出る、という注意点
前回は経行を読みました。静中と動中のあいだに接点を置く、という話でした。
今回から、同じ書籍の付録に入ります。
付録一は、一人の在家の修行者が師に送った手紙と、師がそこに付けた評語の記録です。書物の本文とは性格が違い、やりとりがそのまま残されています。
読んでみて、これは評価のしかたの記録だと思いました。認める言葉と距離を示す言葉が、一つの括弧の中に入っているのです。
手が届きそうで、届かない
記録の最初に、この人の述懐が置かれています。見性する数日前の言葉です。
仏法が思想的にはよく分かっておりまして、少しも疑う余地がありませんけれども、何だか手が届きそうで届かないのが残念です
理屈では分かっている。疑う余地もない。それでも手が届かない。
前回、前々回と読んできた話が、ここにも出てきます。分かることとできることは別だ、という話です。
そして、この述懐を聞いた指導者は、近いうちに見性するだろうと直感したと書かれています。
行き詰まりの報告を、進捗として読む
ここは読み飛ばしそうになりました。
報告の中身はうまくいっていないという話です。分かっているのに届かない、残念だ、と。普通に受け取れば停滞の報告です。
それを指導者は、あと少しの合図として読んでいます。
言われてみれば、順番としては当たり前でした。何も分かっていない段階なら「手が届きそう」という感覚は出てきません。届きそうだと言えること自体が、そこまで来た証拠になります。
仕事の報告でも、同じ形のものが来ます。「方針は分かっているのですが、現場が動きません」「理屈は合っているのに決まりません」。私はこれを問題の報告として受け取ってきました。
位置の報告として読めたことは、あまりなかったと思います。
報告に、評語が付いている
この記録の形が変わっています。
手紙は複数通あり、一通ごとに「〜の証」という註が付いています。さらに文中の括弧の中に短い評語が入り、一通の末尾には長めの評語が置かれます。
報告と評価が、セットで残されている。
見性の報告に、指導者はこう評語を付けました。
(評曰、心牛を見る事了々、だが得牛位猶万里を隔つ、猶是れ肚裏の禅)
心牛や得牛位は段階を表す言い方です。ここでは中身に踏み込まず、構造だけを見ます。
前半は「はっきり見えている」。後半は「まだ万里ある」。肚裏の禅は、自分の腹の内だけの禅、という意味です。
この二つが、一つの括弧に入っています。
図1 一つの括弧に、両方入っている——承認と距離が同じ場所に置かれている
認めないわけではない
厳しいだけの人なのかというと、そうではありません。
同じ指導者が、別の箇所ではこう書いています。
(評曰、然り然り、我は其の着実を欣ぶ)
「然り然り」は、そのとおり、という承認です。「其の着実を欣ぶ」は、着実であることを喜ぶ、という意味です。
手放しで認めています。
つまりこの人は、認めることを渋っているのではありません。認める言葉を惜しまないまま、距離を同じ記録の中に置いている。
順番はどうか。先の評語は「見えている」が先で、「万里ある」が後でした。認める→距離の順に固定されています。
「悟りが見える間は真の悟りでない」
手紙の書き手のほうにも、同じ形の言葉があります。
悟りが見える間は真の悟りでないという事ものみ込めました。
達成が見えている状態は、まだ達成ではない。
これは以前に読んだ「それを目標にすると、外れてしまう」と同じ構えです。手応えを疑うのではなく、手応えの位置を知っておくという話だと受け取りました。
図2 渡し方は四通りある——「両方言う」の中にも分かれ目がある
私は両方言う。言われた側では、上がる
人の報告に対して、私は両方言います。褒めるだけにも、指摘だけにも寄りません。
自分が報告した側で、認められたのに「まだ先がある」と言われたとき——私はやる気が上がります。
だから、この指導者の書き方は自分に近いと感じました。
ただ、書物を読んで引っかかったことがあります。
両方言っているつもりで、場所を分けていないか。
褒める会話と、指摘する会話を別の日にしていれば、それは「両方言った」ことになりません。受け手のところには、その日の話だけが届きます。
この記録の評語は、同じ括弧の中に両方が入っていました。場所が分かれていない。ここが自分との差だと思いました。
分けたくなる理由も分かります。せっかく認めたのに、続けて距離を言うと台無しにする気がする。だから日を置く。気を遣っているつもりで、届く量を半分にしているわけです。
自分が上がるから、相手も上がるとは言えない
もう一つ、気をつけようと思ったことがあります。
「まだ先がある」と言われて上がるのは、私の場合です。
同じ言い方で、下がる人もいます。受け取り方は、人によって逆に出ます。だから「自分が上がるから、相手も上がる」とは言えません。
この記録の指導者は、相手をよく見ていました。行き詰まりの述懐を聞いて、近いうちに見性するだろうと直感している。相手の位置を読んだうえで、言葉の強さを選んでいるわけです。
渡し方をそろえることと、相手を見ることは、別の仕事でした。
まとめ——位置と次を、同じ場所で渡す
要点は三つです。
- 認めることと、距離を示すことを分けない。この評語は同じ括弧に両方を入れ、認める→距離の順で固定していました
- 「両方言う」にも分かれ目がある。場所が分かれていれば、受け手にはその日の話しか届きません
- 受け取り方は人によって逆に出る。自分が上がるからといって、相手も上がるとは言えません
心を高める、経営を伸ばす。
高めるというのは、言葉を足すことではないようです。位置と次を、同じ場所で渡すこと。そういう読み方をしました。
では、著者自身は何を記録していたのか。次回は、同じ書籍の付録二に入ります。今度は著者自身の記録です。
明日、一つだけやってみる
報告を受けたら、相手がいまどの位置にいるかを読み、言葉の強さを選んだうえで、認める言葉と「まだ先がある」を同じ会話の中で返してみてください。
よくある質問
Q. 認めてから指摘すると、結局は指摘しか残らないのではないですか。
残り方は人によって違うと思います。
この記録で目を引いたのは、指導者が認める言葉を惜しんでいないことでした。「然り然り」「着実を欣ぶ」と書いています。添え物として褒めていない。そこが分かれ目のように読めました。
Q. 部下に「まだ万里ある」と言ってよいのですか。
言い方の強さは、相手の位置によります。
この指導者は、行き詰まりの述懐を聞いて相手の段階を読んでいました。位置を読まずに強さだけ真似ると、別のことになります。私もそこは気をつけるつもりです。
Q. 「達成が見えている状態は達成ではない」は、厳しすぎませんか。
手応えを否定する話ではないと読みました。
手応えの位置を知っておくという話です。見えているうちは、まだ途中にいる。そう置いておけるなら、次の指摘が来ても折れにくくなります。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)付録一。本文347〜348ページ
- 「仏法が思想的にはよく分かっておりまして、少しも疑う余地がありませんけれども、何だか手が届きそうで届かないのが残念です」「悟りが見える間は真の悟りでないという事ものみ込めました」は、手紙の書き手の言葉として同書に載っているもの
- 「(評曰、心牛を見る事了々、だが得牛位猶万里を隔つ、猶是れ肚裏の禅)」「(評曰、然り然り、我は其の着実を欣ぶ)」は、指導した老師の評語として同書に載っているもの
- 「近いうちに見性するであろうと直感した」という趣旨の記述、および一通ごとに註が付き文中に短評・末尾に長評が置かれるという記録の形は、同書の記述
- 手紙の書き手・そのご家族・ご家族の会社名・指導した老師・この記録をまとめた僧・出典誌名は、いずれも記載していません。シリーズを通して第三者のお名前を出さない方針によります
- 手紙の書き手はすでに故人です。逝去に関する記述(当該箇所の註・附記・戒名)は、本記事では扱っていません
- 心牛・見牛位・得牛位という段階の語は、中身に踏み込まず構造のみを扱いました。図解もしていません
- 引用はすべて、同書のスキャン原本を400dpiで展開して字句を確認した(本文347〜348ページ)
- 「両方言う」「言われた側では上がる」は、筆者自身の実感です。顧客名・案件名・社内の個別の事例は記載していません
- 本記事は特定の宗教/宗派を評価するものではありません。記述はすべて同書に書かれている内容です
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