稲盛01では、稲盛和夫氏がなぜフィロソフィを説きつづけたのかを見ました。従業員に幸せになってほしいという純粋な動機がすべての土台にある、という話でした。しかし、ここで多くの経営者が立ち止まります。考え方が大切だ——それは腑に落ちた。では、月曜の朝、具体的に何をすればいいのか。
稲盛氏がこの問いに用意した答えが「六つの精進」です。2008年7月、リーマン・ショック前夜の盛和塾全国大会。迫りくる不況を前に、氏は「過去にお話をしたことであっても、いま、もう一度話をしてもよいと思うものがあります」と切り出しました。そして、若いころから説いてきた六つの実践項目を語り直したのです。この講話は、のちに同名の書籍(サンマーク出版)にまとめられています。
その冒頭に、意外な一文があります。すばらしい経営を行い、幸せな人生を生きることは、けっして難しいことではない。この六つを守りさえすれば、むしろやさしい——。高邁な哲学として構えるのではなく、やさしいのではないか、とまで言うのです。つまりこれは思想の書ではなく、毎日使うための実践リストなのです。
六つを、対で読む
まず、六つを並べます。一、誰にも負けない努力をする。二、謙虚にして驕らず。三、反省のある毎日を送る。四、生きていることに感謝する。五、善行、利他行を積む。六、感性的な悩みをしない。
一見すると格言の羅列です。しかし性質で仕分けると、これが二種類の作業の組み合わせであることが見えてきます。心に積む作業と、心から削ぎ落とす作業です。
図1 六つの精進の対構造——積む三つと削ぎ落とす三つは、庭仕事の両輪にあたる
努力・感謝・善行は、行動を心に積み上げていく精進です。一方、驕り・自我・感性的な悩みは、放っておくと勝手に心に生えてくるもの。それを取り除くのが残る三つの精進です。庭にたとえるなら、前者は種を蒔いて水をやる仕事、後者は雑草を抜く仕事。どちらか一方では庭になりません。
積む三つ——努力・感謝・善行
筆頭に置かれたのが「誰にも負けない努力をする」です。経営の原点十二ヶ条では第四条ですが、六つの精進では第一番。稲盛氏は、一生懸命に働くこと以外に成功する道はない、これ以上の経営のノウハウはないとまで言い切ります。
象徴として語られるのが、氏の母方のおじの話です。終戦後、満州から裸一貫で鹿児島に戻り、学問もないまま、自分の身体よりはるかに大きな大八車に野菜を積んで行商を続けた。親戚は軽蔑まじりに見ていましたが、おじはただ黙々と働くことで、やがて大きな八百屋を経営するに至ります。アスファルトの割れ目に芽を出す雑草、砂漠でわずかな雨に花を咲かせる植物——自然界に怠けて生きるものはなく、懸命に生きることは生き物の最低条件だ、と氏は続けます。
興味深いのは、氏が質問の仕方を変えたという逸話です。「一生懸命に働いていますか」と聞けば、誰もが「働いていますよ」と答える。それでは意味がないと考え、「誰にも負けない努力をしていますか」と聞くようにした。基準を他人に置いた瞬間、答えに詰まる問いに変わるのです。そして必死の努力は、創意工夫とひらめきを連れてきます。さらに、朝から晩まで一途に働けば雑念の湧く暇がない——努力そのものが魂の修行になる、というのが氏の実感でした。
第四の感謝は、積む三つの中でいちばん見落とされやすい項目でしょう。人はひとりでは生きられず、生きているというより生かされている。そう考えれば感謝が湧くはずだが、なかなかできるものではない。だから氏は、若いころは、ウソでもよいから「ありがとうございます」と感謝することが大切だと自分に言い聞かせていたといいます。幼いころ、隠れ念仏の家で教わった「なんまん、なんまん、ありがとう」を、氏は教会でもイスラム教の寺院でも生涯唱えつづけました。感謝は湧くのを待つものではなく、先に口に出して積むもの——ここでも発想は実践的です。
第五の善行、利他行。「積善の家に余慶あり」という中国古典を引きつつ、氏はここに重要な区別を添えます。小善と大善です。困った友人に情に流されて金を貸すのは、相手のだらしなさを助長する小善。事情を聞き、本人の不始末が原因ならば毅然と断り、苦難に正面から向き合わせるのが大善。善行を積むとは、甘さを積むことではないのです。
削ぎ落とす三つ——驕り・自我・悩み
「謙虚にして驕らず」で氏が拠り所にしたのは、中国古典の「ただ謙のみ福を受く」という言葉でした。会社が大きくなれば、人は自然と傲慢になる。だからこそ成功してから謙虚になるのではなく、零細企業のときから一貫して謙虚であれ、と説きます。成功する人は、内に燃える闘魂を持ちながら、実は謙虚で控えめな人なのだ、と。
「反省のある毎日を送る」は、削ぎ落とす作業の中核です。氏はジェームズ・アレンの『「原因」と「結果」の法則』を引いて、人間の心を庭にたとえます。
図2 ジェームズ・アレンの「心の庭」——蒔かなくても雑草は生える。だから反省は毎日必要になる
庭は、耕されることもあれば野放しにされることもあるが、どちらの場合も必ず何かが生えてくる。美しい草花の種を蒔かなければ、雑草だけが生い茂る。だから、すぐれた園芸家が庭を耕し雑草を抜くように、毎日の反省によって邪な思いを取り除き、善き思いを植えなければならない——。氏はタゴールの詩も引きながら、人の心には利他の心である「真我」と、自分だけよければいいという「自我」が同居していると語ります。今日、自我はどれだけ顔を出したか。それを確かめて抑える作業が、反省です。
そして「感性的な悩みをしない」。一度こぼれた水は戻らないように、起きてしまった失敗をいつまでも悔やんでも意味がない。深く反省したら、あとはキッパリ忘れ、理性で考え、新しい行動にただちに移る。氏自身、人工膝関節の一件でマスコミに連日叩かれ、身の置き場がないほど思い悩んだ時期があります。救ったのは、西片擔雪老師の一言でした。災難で過去の業が消えたのだから、赤飯を炊いてお祝いしなさい——。はじめはひどいことを言うと思ったが、この受け止め方を得た瞬間から身も心も晴れた、と氏は振り返っています。悩みは、削ぎ落としてよいのです。
「知っている」では、何も起きない
ここまで読んで、六つとも知っていた、という方は多いはずです。まさにそこが急所です。
盛和塾最後の講話で、氏は安岡正篤の「知識・見識・胆識」を引いて、こう警告しました。知識を持つだけではほとんど役に立たない。「こうしなければならない」という信念にまで高めて見識とし、さらに何があろうと絶対に実行するという決意に裏打ちされた胆識にまで高めなければならない。そして、フィロソフィを学ぶ経営者は往々にして「フィロソフィ読みのフィロソフィ知らず」になる、と。
図3 安岡正篤の三段階——階段を上る方法は、毎日の実践しかない
六つの精進が「毎日」の精進とされている理由が、ここにあります。暗唱できることには何の意味もない。朝、今日は誰にも負けない努力をするかと問い、夜、今日はどれだけ自我が顔を出したかを点検する。庭の手入れと同じで、やり終えた日は来ません。その日々の反復だけが、知識を胆識に変えていきます。
まとめ
- 六つの精進は思想ではなく実践リストであり、稲盛氏自身が「守りさえすれば、むしろやさしい」と言い切っている
- 六つは対で読める。努力・感謝・善行は心に積む三つ、驕り・自我・感性的な悩みは心から削ぎ落とす三つ
- 心は庭である。種を蒔かなくても雑草は生える。だから反省という手入れは毎日必要になる
- 善行には小善と大善の区別がある。情に流される甘さは、善行ではない
- 知識のままの六つの精進は役に立たない。毎日の実践だけが、見識・胆識へと高める
最後に、順序を確認しておきます。稲盛氏は同じ講話の中で、フィロソフィを完璧に実行できる人はいないと語っていました。自分もいまだ門前の小僧であり、それでも生涯をかけて、実行できるよう努力していくのだ、と。六つの精進も同じです。六つすべてを守れた日など、おそらく誰にも来ない。それでも毎朝種を蒔き、毎晩雑草を抜く。その営みを従業員と共にやり続ける経営者の姿こそが、何よりのフィロソフィ教育になります。心の庭を手入れしつづけた先に、経営の実りがある——心を高める、経営を伸ばす。このサイトの原点(稲盛00)に立ち返って、第1部「己を修める」の柱をここに立てておきます。
よくある質問
Q. 六つの精進は、どこから始めればよいですか。
第一番の「誰にも負けない努力をする」からです。稲盛氏は、一生懸命に働くこと以外に成功する道はない、とまで言い切っています。「一生懸命に働いていますか」ではなく「誰にも負けない努力をしていますか」と、基準を他人に置いて自分に問うことが出発点になります。
Q. 六つすべてを毎日守るのは、難しくないですか。
守れた日が来ないことは、稲盛氏自身が前提にしています。氏は自分もいまだ門前の小僧だと語っていました。それでも毎朝種を蒔き、毎晩雑草を抜く。その日々の反復だけが、知識を見識・胆識へと高めていきます。
Q. 「感性的な悩みをしない」とは、反省しないということですか。
逆です。深く反省したら、あとはキッパリ忘れる。一度こぼれた水は戻らないように、起きてしまった失敗を悔やみつづけても意味がない。理性で考え、新しい行動にただちに移ることが、この精進の中身です。
