前回、菜根譚の上巻を読みながら「染まるな、淡くせよ」という話を書きました。世間の色に染まらず、人との関わりを淡く保つ。自分の心の色を守るための教えでした。
中巻に入ると、指示の向きが変わります。守るのではなく、空けておけ。満たすな、というのです。
読書会の第9回は、菜根譚の本文に入る前に、こんな話から始まりました。老いのコツは、心と体に力を入れつづけることだ、と。つまり、老いたくなければ、その逆をやればいい。若いうちは全力で押すことが有効に働く。ところが五十を過ぎると、その「入れっぱなし」が今度は自分を攻撃してくる。だから、力は入れるときに一瞬パッと入れて、パッと抜く。押せば動くボタンを、ぐっと押しこまない。
経営者ほど、これができない人種はいないのではないかと思いました。私自身、ボタンをぐっと押しつづけてきた側の人間です。
満を求めれば、内から壊れるか、外から来る
菜根譚の第二十則に、こうあります。
業は必ず満を求め、功は必ず盈(えい)を求めば、内変を生ずるにあらずんば、必ず外憂を招かん
仕事は必ず十分に完成させたい、功績は必ず満点でありたい——そう求めたなら、内部から異変が起こるか、そうでなければ外から災いを招く。どちらかが必ず来る、と言い切っています。
図1 満を求めた先の分岐——十割を取りにいくと、内部崩壊か外部の災厄のどちらかが必ず訪れる
思い当たることばかりでした。案件を満額で取りにいったとき、社内が先に壊れる。すべての要望に応えようとしたプロジェクトほど、外側から思わぬ問題が飛んでくる。当時は運が悪かったと思っていましたが、そうではなかったのだと思います。満を求めた時点で、どちらかは織り込み済みだった。
なぜ「謙」が効くのか——易・地山謙
ここで講義は、菜根譚を離れて易に入ります。地山謙という卦です。
易には六十四の卦があり、それぞれに六本の爻(こう)があります。ふつうはその中に吉もあれば凶もある。ところが地山謙だけは、六本すべてが吉なのだそうです。六十四のうち、これ一つだけ。
図2 地山謙の構造——天も地も鬼神も、そして人も、満ちたものを削り欠けたものを満たす側に働く
卦辞にはこうあります。天の道は満ちたものを欠けさせ、謙なるものに益を与える。地の道も、鬼神も同じ。そして最後の一行が効きます。
人道は盈(えい)を悪(にく)みて謙を好む
人というものは、他人の成功を憎み、腰の低さを好む。まったく道徳的ではありません。人間の性質をそのまま記述しているだけです。だからこそ、そこを行けばいい、という話になる。
この読書会が始まった頃、私は「謙虚は純粋なものでなければならないのではないか」と引っかかっていました。結果を狙った謙虚は不純ではないか、と。講義でその引っかかりに決着がつきました。謙は戦略として使ってよい。譲るというのは、自分を後ろに下げることではなく、そのことによって我が身を前に進ませる方便なのだ、と。
きれいごとでもありません。地山謙の五爻には、富を独り占めしないこと、それでも従わない相手は攻めてよいことまで書いてある。謙は弱さではなく、余白を持った強さのほうです。
他者に対しても、余白を残す
第10回では、その余白が他人との間にも及びます。
人の悪を攻むるには、太(はなは)だ厳なること毋(なか)れ、其の受くるに堪うるを思わんことを要す
人に教うるに善を以てするには、高きに過ぐること毋れ、当に其の従う可きを使むべし
人の非を責めるときは厳しすぎるな、相手が受け止められる範囲を考えろ。善いことを教えるときも高すぎるな、一歩だけ先を示せ。
正しいことを言うより、届くように言え。これは経営の現場でそのまま使える教えでした。正論の総量を増やしても、相手の受信能力を超えた瞬間、その人の欲望は防御に回ります。伝わったかどうかは、こちらの正しさではなく、相手の器のほうで決まる。
第二十五則は、その厳しさを自分に向けます。矜高倨傲——自分を高く見て人を見下すあの態度は、すべて「客気」、つまり外から借りてきた気にすぎない。客気が降りてはじめて正気が伸びる、と。偉そうにしているあなたは、本当のあなたではない。
講義では、亀井勝一郎の言葉も引かれました。自分を自分で正当に評価することは不可能で、私たちが「自信」と呼んでいるものの実体は、あてにならない評判に支えられた「他信」にすぎない、と。もし多くの人が口をそろえて自分を褒めていたら、それは告別式の日だと思って間違いない——そこまで言い切られると、笑うしかありませんでした。
家庭という実験場
そして第九回の最後に、私が返す言葉を失った一節が来ます。
家庭に個の真仏あり、日用に種の真道あり
本当の仏は家庭の中にいる。本当の道は日々の暮らしの中にある。外に求めなくていい。父母兄弟の間で役割という隔たりが解け、気持ちが通い合うなら、それは調息観心——呼吸法や坐禅に勝ること万倍である、と。
坐禅の話を書いてきた身には、こたえる一行でした。
図3 余白が試される三つの現場——距離が近づくほど余白は薄くなり、家庭が最後の実験場として残る
宿題として自分の家庭を振り返って、はっきりしたことがあります。仕事では、ある程度力を抜けるようになった。相手の言葉をまず受け取る。反射的に答えを出さない。間を置く。長年の現場でどうにか身についた習慣です。ところが家に帰ると、そのスタンスが消える。仕事で使い切った余白が、玄関を開けた時点でもう残っていない。
考えてみれば、私はNetSuiteの導入現場で、経営者の誇りに踏み込む前にまず現状を聞く、ということを覚えました。同じことを、夕食の席でやればいいだけの話です。子どもの様子を評価する前に、まず観察する。妻が何か言ったとき、反射的に返さない。
講義では、家庭で自然に機嫌よくいられる人こそ「吉の人」だという言い方がされていました。逆に言えば、家庭でできていないうちは、まだ体得していないということです。もっとも身近な場所で、もっともできていない。それが現実でした。
自己の余白——縁起
第10回の最後は、道元の『現成公案』に着きます。
仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり
自己を学ぶとは、自己を忘れることだ。自分という存在は、他者との関係の中にしか意味を持たない。つまり縁起である、と。
宿題は「人生で最も大きかった縁起」でした。すぐに浮かんだのは、新卒で外資系のITエンジニアとして入った当時、PMとして私を育ててくださった方の顔でした。学生時代の知識はまるで通用せず、右も左もわからない私に、プロジェクトの進め方を一から教えてくださった。シンプルに考えること。お客様と仲良くなること。仲間をサポートすること。今の私の仕事の価値観の土台は、ほとんどあの時期にいただいたものです。
そして二十数年が経ち、その方が引退された今、自社で働いてもらっています。縁起とは、自分が選んで作るものではなく、すでに自分の中を通り過ぎていったものに後から気づき、そしてまた巡ってくるものなのだと思いました。
自分を満たそうと力を入れつづけていたら、他者の入る隙間はありません。余白とは、他者が入ってくる場所のことでもある。満たすなという教えは、結局ここにつながっていました。
まとめ
- 力は入れっぱなしにしない。入れるときにパッと入れて、パッと抜く
- 業に満を、功に盈を求めれば、内部崩壊か外部の災厄が必ず来る
- 謙は戦略として使ってよい。譲ることで我が身を前に進ませる方便である
- 人を責めるにも教えるにも、相手が受け取れる分だけ。正しさより、届くかどうか
- 自信の実体は他信かもしれない。評判を土台にした自信は疑ってよい
- 家庭は自我の実験場。最も近い場所が、最も難しい
- 余白は、他者が入ってくるための場所である
心を高め、経営を伸ばすというとき、私たちはつい「足していく」ことを考えます。学びを足し、施策を足し、努力を足す。菜根譚の中巻が言っているのは、その逆でした。心を高めるとは、余白を残すことだ。そして余白のあるところにしか、人も縁も入ってこない。
次は下巻に進みます。謙の話はここで一度決着がつきましたが、菜根譚は後半でもう一度この問題に戻ってきます。今度は「根をどこまで深く張れるか」という、器そのものの話として。
よくある質問(FAQ)
Q. 「謙は戦略」と考えるのは、不純な謙虚ではないですか?
純粋さの問題ではなく、構造の問題です。易・地山謙の卦辞「人道は盈を悪みて謙を好む」は、人は他人の成功を憎み、腰の低さを好むという人間の性質の記述であって、道徳ではありません。だから謙は、譲ることで我が身を前に進ませる方便として使ってよい。私自身、読書会の当初に同じ引っかかりを持っていましたが、講義で決着がつきました。
Q. 「満を求めるな」は、目標を下げろという意味ですか?
違います。菜根譚の第二十則が言うのは、仕事も功績も十割を取りにいくと、内部から壊れるか外から災いが来る、という構造です。目標を下げるのではなく、意図的に余白を残す。余白は、他者や縁が入ってくる場所でもあります。
Q. なぜ家庭が「修行の場」なのですか?
最も近い場所ほど、余白が残っていないからです。第二十一則は「家庭に個の真仏あり」——本当の仏は家庭の中にいると説きます。取引先には間を置けても、家に帰るとそのスタンスが消える。家庭で自然に機嫌よくいられるかどうかが、体得の試金石になります。
