本があったから会ができたのではない——経営者が坐る会の、成り立ちの話

この記事でわかること

  • 会が先にでき、その必要から『禅の正門』が再版された経緯
  • 書名から「在家禅」が消えても、著者が在家の立場を貫いた理由
  • 現場にいる人の言葉だけが、現場に届くということ

前回は、ゼロの中に無限大という符号の話を書きました。空という言葉を、記号ひとつで説明しようとした話です。

ここまで何回か、坐禅会で聞いた話を書いてきました。けれども、その会そのものの成り立ちには、まだ触れていません。

経営者が集まって坐る。改めて考えると、不思議な光景です。

誰かに命じられたわけではありません。資格が取れるわけでも、売上が上がるわけでもない。それでも人が集まり、続いています。

この会がどこから来たのか。答えは、輪読している本の中にはっきり書かれていました。本が会をつくったのではなく、会が、本をもう一度世に出したのです。

では、その本を書いた人は、どこに立っていたのか。

目次

本の前のほうに、会の話が書いてある

『禅の正門』という本を、私たちは坐禅のあとに順番に読んでいます。

この本には「再版にあたって」という短い文章が付いています。二〇一〇年八月、著者の長女が書いたものです。

そこには、こうあります。

盛和塾の有志の塾生経営者とともに、東京で「心を高める坐禅の会」を始めた、と。

始めてから二年ほどだと書かれています。メンバーは三十五人ほどで、間もなく五十人を越えると思う、とも書かれています。

そして、こう続きます。

この会では、坐禅のあとに『新版 禅の正門』の輪読を行っている。ところが本がなかなか手に入らず、みな困っていた——。

だから出版社に無理を願って、再版してもらうことになった。その文章は、そこで終わります。

順序が、逆だった

ここが、私にはいちばん面白いところでした。

普通に考えれば、名著が先にあって、それを読む会が後からできる、という順序でしょう。

けれども、この本に書かれている順序は逆です。

会が先にできた。会がその本を輪読に使った。使いたいのに本がない。だから、もう一度刷ってもらった——。

本が会をつくったのではありません。会が、本をもう一度世に出したのです。

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図1 順序が、逆だった——会が先にでき、その必要が本を再版させた

「在家禅」という言葉が、書名から消えている

本の成り立ちは、さらにさかのぼれます。この本の中身は、もともと連載でした。著者が責任者を務めていた団体の布教紙に、「在家禅入門」という題で載っていたものです。

在家とは、出家していない人、つまり家庭と仕事を持ったまま修行する人のことをいいます。

連載は昭和四十四年の七・八月号から始まり、昭和五十三年の七・八月号で終わっています。四十三回、まる九年にわたる長い連載でした。

ところが単行本にするとき、書名から「在家禅」が外れます。

著者は、その理由をはっきり書き残しています。畏友である中川宋淵老師の勧告によるものだ、と。

「禅に出家禅、在家禅の別があるか」

これが老師の考えだったと書かれています。

ここでもまた、分けるな、という話が出てきます。以前に書いた坐禅の五分類と、同じ構えです。分類を立てておいて、その分類にとらわれるな、と言う。

それでも、著者は在家にこだわり続けた

面白いのは、書名から言葉が消えたあとも、著者自身は在家という立場を貫いたことです。

長女は「再版にあたって」で、父の口ぐせを紹介しています。

「現代は在家禅にこそ本物の禅がある」

言葉としては消えたのに、中身としては残ったわけです。

なぜそう考えたのか。理由も、同じ本の別の文章に書かれています。

著者は当時の仏教界を厳しく見ていました。「大伽藍はあっても、中味は空っぽだ」という言葉が紹介されています。寺の維持経営に心を奪われ、本当の修行が忘れられている、という趣旨です。

そのうえで、こういう意味のことを言ったと記されています。

複雑で厳しい現代社会を生きる人の、心の苦しみや悩みを本当に理解できるのは誰か。自らの力で生活の糧を手にし、家族を養い、子供を育てる難しさを、身をもって体験している在家の人間である。日常のそういう苦労から解放されている出家の僧ではない——。

言葉は消えたが、立つ場所は変わらなかった 連載時の題 在家禅入門 単行本の書名 禅の正門 理由——中川宋淵老師の勧告 「禅に出家禅、在家禅の別があるか」 それでも、著者の口ぐせ 在家禅にこそ本物の禅がある なぜ在家か 自分の力で生活の糧を手にし 家族を養う難しさを 身をもって知っているから 著者自身も、医療財団の 経営に当たっていた 書名から言葉は消えたが、立つ場所は最後まで在家の側にあった

図2 言葉は消えたが、立つ場所は変わらなかった——書名と口ぐせのあいだにある距離

書いた人が、経営の現場にいた

この本の著者は、禅の指導者であると同時に、医療財団の経営に当たっていた人です。

八十歳になろうという年まで、夫婦二人三脚でその経営を続け、生活の資を自分の手で得ていた。長女はそう書いています。

ここで、私の中でひとつつながりました。

なぜこの本が経営者に読めるのか。読めるように書かれているからではなく、書いた人が経営の現場にいたからです。

締め日があり、資金繰りがあり、人を雇う責任がある。その生活の中で坐り、その生活の言葉で書いている。

だから本の中に、逃げ場がありません。

坐禅の時間が取れないという言い訳も、この著者には通用しないだろうと感じます。同じ条件で、同じだけ忙しくして、それでも坐っていた人だからです。

経営者向けに易しく書かれた禅の本は、ほかにもあります。けれどもこの本は、易しく書かれているのではありません。書き手の立っている場所が、こちら側なのです。

現場を離れた人の言葉は、現場に届かない

私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。ERPと呼ばれる、会社の業務を一つの仕組みに載せる種類のものです。

この仕事で、いちばん効かない助言があります。現場を通っていない人の正論です。

「標準に合わせてください」。これ自体は正しいと思います。私も同じことを言います。

けれども、その言葉が届くかどうかは、言う人が何を背負っているかで変わります。

月末が締まらない夜の苦しさを知っているか。伝票を打ち直した経験があるか。そこを通っていない人の正論は、正しいのに刺さりません。

在家禅にこそ本物の禅がある。この言い方を、私はそう読みました。

現場にいる人の言葉だけが、現場に届く。禅の世界でも、経営の世界でも、そこは同じなのだと思います。

会は、待っていてもできない

もうひとつ、この成り立ちから受け取ったことがあります。

会は、上から与えられたものではありませんでした。

経営者たちが、自分たちで始めたのです。師を招き、場所を用意し、本を読み、足りないものは出版社に頼んで補った。

学びの場をつくるというのは、そういうことなのだと思います。

誰かが整った仕組みを用意してくれるのを待っていると、いつまでも始まりません。始めてしまえば、足りないものは後から埋まっていきます。

本が足りないなら、刷ってもらえばいい。三十五人ほどの会が、一冊の本を世に戻したのです。

社内の勉強会でも、同じことが起きると思います。

教材が揃っていない。講師がいない。時間が取れない。始めない理由なら、いくらでも挙がります。

けれども、始まっていない会には、誰も教材を持ってきてくれません。続いている会には、人も本も情報も集まってきます。

会がなければ、何も足りません。会があるから、足りないものがはっきりするのです。

まとめ——先に始めた人のところに、道具は集まる

要点は、三つです。

  1. 会が先で、本が後だった。再版は、輪読する会があったから実現しています。学びの場が、道具のほうを呼び寄せました
  2. 言葉は消えても、立つ場所は変わらない。書名から「在家禅」は外れましたが、著者はその立場を最後まで貫きました
  3. 現場にいる人の言葉だけが、現場に届く。著者自身が、生活の資を自分の手で得ていた経営者でした

心を高める、経営を伸ばす。この言葉を掲げた会は、誰かに用意されたものではなく、経営者が自分たちで始めたものでした。

自分の会社の学びの場も、同じだと思います。整うのを待つのではなく、先に始める。足りないものは、始めた後に集まってきます。

一冊の本を、声に出して順番に読む。その会がいまも続けている輪読という学び方は、なぜ効くのか。次回は、その話です。

明日、一つだけやってみる

教材や講師が揃うのを待たずに、社内で小さな学びの場を一つ始めてみてください。足りないものは、始めたあとではっきりしてきます。

よくある質問

Q. 坐禅会は、お寺が主催しているのですか。

『禅の正門』の「再版にあたって」に書かれている会は、盛和塾の有志の塾生経営者が自分たちで始めたものだと記されています。寺が主催したものではありません。

会の形は一つではありません。参加を考える場合は、それぞれの会にお問い合わせください。

Q. 「在家禅」と「出家禅」は、何が違うのですか。

在家は、家庭と仕事を持ったまま修行する立場をいいます。出家は、それを離れて僧として修行する立場です。

ただし『禅の正門』の書名からその区別が外れた経緯には、禅に出家禅と在家禅の別があるか、という中川宋淵老師の考えがあったと著者が書いています。分ける言葉はあっても、修行そのものに二種類あるわけではない、という立場です。

Q. 経営者が禅を学ぶと、何が変わるのですか。

私は、変わったことを数字で示すことはできません。

この記事で書けるのは、成り立ちの事実だけです。忙しい経営者たちが、自分たちで会をつくり、続けている。その事実そのものが、何かの答えなのだと思っています。

出典

  • 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)。「再版にあたって」(二〇一〇年八月・著者の長女)、「序にかえて」、および著者による「はしがき」「あとがき」の記述による
  • 連載の号数・回数、書名変更の経緯、著者の経歴は同書の記述による
  • 本文でお名前を記したのは、同書の著者と、同書に登場する中川宋淵老師のみです。会の関係者のお名前は記載していません
  • 私が参加している会と、同書に書かれている会との関係については、同書の記述の範囲を超えて断定していません

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この記事を書いた人

Takuomi Mochidaのアバター Takuomi Mochida 株式会社ベンチャーネット代表取締役

株式会社ベンチャーネット 代表取締役
2005年に株式会社ベンチャーネットを設立後、SEOをはじめとするデジタルマーケティング領域のコンサルティングサービスを展開
広告・SNS・ウェブ・MA・SFAと一気通貫で支援を行っています
著書に『普通のサラリーマンでもすごいチームと始められる レバレッジ起業 「バーチャル社員」があなたを救う』(KADOKAWA、2020年)

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