この記事でわかること
- 凡夫禅から最上乗禅まで、坐禅の五分類の中身
- 分類を教えたうえで「とらわれるな」と言う教え方
- 型は入口であって採点表ではない、という経営への置き換え
以前、『禅の正門』という本の第二章を読んだ話を書きました。禅の三大目的、つまり定力・見性・人格の完成という三つの整理です。
今回は、同じ本の第三章です。坐禅には五つの種類がある、という分類が出てきます。
ところが、その五つを説明し終えた直後に、老師はこう言いました。こんなものは勉強しなくてもいい、と。分けて教えて、その場でとらわれるなと言う。
分類を教えた老師自身が、その物差しで最も苦しんだ人でした。型は入口であって、採点表ではない。では、なぜ分けておきながら、とらわれるなと言えたのか。
坐禅には、五つの種類がある
『禅の正門』の第三章は、坐禅を五つに分けます。凡夫禅、外道禅、小乗禅、大乗禅、最上乗禅の五つです。
凡夫禅は、哲学も宗教もなく、健康にいいからという理由で座るものです。
外道禅は、何らかの主義主張はあるけれど、それが仏道以外のものである坐禅を指します。無念無想になることを目的とするもの、などがここに入ります。
小乗禅は、お釈迦様の教えがどうしても分からない人が、無念無想を目標として座るものです。
大乗禅は、悟りを開くことを目的とする坐禅です。本文には、唐代の宗密禅師の定義がこう引かれています。
「我法二空の所顕の真理を悟りて修するは是れ大乗禅なり」
最上乗禅は、自分はもともと仏なのだと信じて座る坐禅です。目的を立てるのではなく、すでにそうであると信じるところから入ります。本文には、同じ宗密禅師の定義が長く引かれています。
「若し自心の本来清浄にして、元より煩悩なく、無漏智性本より自ら具足し、此心即ち仏にして、畢竟異なることなしと頓悟し、此によって修せば、是れ最上乗禅なり」
自分の心はもともと清らかで、煩悩もなく、悟りの性質がはじめから備わっている。この心がそのまま仏であって、少しも違わない。そう気づいたうえで修行するのが最上乗禅である——。おおまかにはそういう意味になります。
図1 坐禅の五分類——上下ではなく、拠りどころの違いである
説明し終えた直後に、老師はこう言った
五つを並べ終えた直後、老師はこう言いました。こんなものは勉強しなくてもいい、あまり意味がない、と。
理由も続けています。分類を勉強すると、自分の坐禅は凡夫禅かな、外道禅かな、と考えるようになる。座っている最中にそんなことが頭に浮かんだら、それはむしろマイナスなのだ、と。
ただし老師は、勉強するなとは言っていません。一応五つあるのだ、ということは勉強する、とも話しています。
分類を教える。教えたうえで、それにとらわれるなと言う。この二重の言い方が、老師の教え方の特徴だと私は受け取りました。
この日の場では、参加者との間でさらに踏み込んだやりとりもありました。健康のために座っていても、そのうちに悟りを開く人はいる。だとすれば、線を引くこと自体がおかしいのではないか——。
分類は無理に分けただけのものだ、理屈だから書く以上は分けざるを得なかっただけだ、という言葉も交わされています。
録音には話者の名前が残っていないため、どの言葉を誰が言ったかまでは確定できません。そういう議論が交わされた場だった、という事実にとどめておきます。
本そのものが、分けたあとで「裏表だ」と書いている
この二重性は、老師だけのものではありません。分類を書いた本の側にも、同じ構えがあります。
第三章は、五つを説明し終えたあとで、いちばん上の二つの関係をこう整理します。大乗禅と最上乗禅は表裏一体である、と。
たとえもはっきりしています。手の甲を表にすれば手のひらが裏になり、手のひらを表にすれば手の甲が裏になる。そういうものだ、と書かれています。
現実の宗派についても触れています。臨済宗は大乗禅を表に立て、曹洞宗は最上乗禅を表に立てている。けれども表に立てたほうの裏には、必ずもう一方が控えている——。
そして第三章には、こういう一文もあります。
「本当の修行は大悟徹底の後からはじまるのである」
悟りを開いたら終わりではない。分類の最上段に届いたら終わり、でもない。分類の話をしている章の中に、分類の外へ出る一文が置かれています。
型は入口であって、採点表ではない
私はERP、つまり基幹システムの導入を支援する仕事をしています。
この仕事には型があります。業務の流れを整理する型、標準と差分を切り分ける型、優先順位を決める型。型がないと、議論は個人の経験談で終わります。だから型は要ります。
けれども、型を使ううちに、いつのまにか型が採点表に変わることがあります。この会社は標準適合度が低い。この部門は成熟度が足りない。そう名付けた瞬間に、目の前の人の話が耳に入らなくなります。
老師の言葉は、ここに刺さりました。自分の坐禅は凡夫禅かな、と考えはじめた時点で、その人は座っていない。フレームワークに自社を当てはめはじめた時点で、私たちは現場を見ていない。
図2 同じ型の、二つの使い方——型に善悪はなく、使う側の向きが違うだけである
分類を教えた人が、その物差しで苦しんでいた
同じ日の後半、老師は自分の修行時代を振り返りました。
老師は十代で入門し、師から厳しい指導を受けています。指導の中身は、見性しろ、見性しろ、というものでした。見性とは、自分の本当の性質を体験として見ることです。
その指導について、老師はこう語っています。見性しようと思って汗びっしょりになってやっても、だめなのだ、と。思うな、と言われているのに、思ってしまう。
さらに厳しいことを言いました。見性したと認められると、こんどはそれが残ってしまう。俺は見性した、俺は他の人とは違う——そういう思いが出てくる。
そして、こう続けます。差別の意識をなくすためにやるべきなのに、認められると、認められた側のほうが偉いという空気が生まれてしまう。だからあの指導はどうかと思う、と。自分が受けた指導への疑問です。
本の側にも、この話の裏づけがあります。老師は自分の著書の巻末に、参禅の体験記を再録しています。そこには、修行の修了を師から認められたその場での言葉が残っています。
この境地にも不満を感じている。自分で自分を点検すると、まだ不十分で不徹底である——。そう述べたと書かれています。そして後年、これほどまでに自分の迷いは深かった、と振り返っています。
分類を教えた人が、その分類の物差しで最も苦しんでいた。だからこそ、五つを教えた直後に、こんなものは勉強しなくてもよい、と言えたのだと思います。
型のほうを、人に合わせて作り変えた
同じ日の後半には、印象に残る話がもうひとつありました。この坐禅会が、どうしてこの形になったのかです。
本式の修行には接心があります。数日間こもって、朝から晩まで座り続ける合宿形式のものです。
老師は、忙しい経営者にそれは難しいだろうと考えました。そこで、接心とは別の形として、この坐禅会という場を用意した、と語っています。
そのうえで、こう言い添えました。接心ができないから禅をやる資格がない、ということはない。月に一度でもいいから正しい座り方と呼吸を覚えて、あとは自宅で続ければよい、と。
私はここに、型に対する同じ態度を見ました。型を守れない人を不合格にするのではなく、型のほうを、続けられる形に作り変えている。
正しい座り方と呼吸という核は、動かしていません。動かしたのは、日数と場所です。何を残して何を変えるかが、はっきり分かれています。
まとめ——分けることと、分けられないこと
- 型は要る。五つの分類がなければ、坐禅の話は始まらない。経営でも同じです
- 型は採点表にした瞬間に害になる。自分は何段目かを気にしはじめると、目の前の事実が見えなくなります
- 教える側が、その難しさを一番知っている。老師は自分が物差しで苦しんだからこそ、とらわれるなと言えました
型を渡し、そのうえで型に縛られないでくださいと言う。これは、教える側がいちど自分でつまずいていないと言えない言葉だと思います。
心を高める、経営を伸ばす。その道具として型を使うのであって、型の中で自分を採点するためではないのだと思います。
この坐禅会では、「ゼロの中に無限大」という言い方が何度も出てきます。空という言葉を、記号ひとつでどう説明しようとしたのか。次回は、その話です。
明日、一つだけやってみる
社内で使っている型やフレームワークを一つ選び、採点表として使っていないか、当てはまらない事実を外していないかを、見直してみてください。
よくある質問
Q. 五つの分類は、覚えたほうがいいのでしょうか。
老師は、一応五つあるということは勉強する、と言っています。同時に、こんなものは勉強しなくてもいい、あまり意味がない、とも話しています。
矛盾しているようですが、順序の話だと私は受け取りました。全体像として知っておくのは役に立つ。しかし座っている最中に思い出すものではない、ということだと思います。
Q. 自分の坐禅がどの段階か、気にしないほうがいいのですか。
老師は、座っている最中にそれが頭に浮かんだらむしろマイナスだ、と話していました。
段階を気にする心そのものが、座ることから離れさせる。そう読める話でした。
Q. 経営のフレームワークにも同じことが言えますか。
私はそう受け取っています。型がないと議論が個人の経験談で終わりますから、型は必要です。
ただし型を成熟度の採点表として使いはじめると、当てはまらない事実を外してしまいます。型は入口として使い、入ったら手放す。私はそう考えています。
出典
- 坐禅会(2017年11月)の録音記録。老師の発言はこの記録による
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第三章。坐禅の五分類と宗密禅師の定義はこの本文による
- 老師の参禅体験記は、著者本人の著書の巻末に再録されたものによる
- 録音には話者の名前が残っていない。誰の発言か確定できない箇所は、発言者を特定せずに書いた
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