認定すると、認定が目的になる——「許された俺」が残る、という老師の疑問

この記事でわかること

  • 認定を目的にすると「許された俺」と序列が残る、という老師の疑問
  • 前例がわかれば通る——通ったことは、通ったことしか証明しない
  • 老師の言い方が「目的とするな」に変わった理由

前回は、息の話を書きました。息には「誰の息」という名札がついていない、という話です。

けれども、その名札がつく場面もあります。坐禅の世界にも、認定があります。

坐禅会の録音を読み直していると、老師が、若いころに受けた指導に率直な疑問を述べている箇所がありました。組織をつくる立場の人間として、読み流せない話でした。

目次

「見性しろ、見性しろって言うんですよ」

見性(けんしょう)とは、禅でいう悟りの体験のことです。自分の本性を見る、という意味の言葉です。

老師は、若いころに受けた指導をこう振り返っています。

それはね、見性しろ、見性しろって言うんですよ。

老師は、見性そのものを軽く見てはいません。続けて、こう言っています。

確かにね、見性しなければ、その自分が迷ってたってことはわからないわけだから、見性は大切なんだけれどもね。じゃあ見性しようと思って、汗びっしょりになってやるのよ。やったってダメなんですよ。

見性が大切なことは、分かっている。だから、汗びっしょりになって取りにいく。それでも、届かない。

「俺は他の奴とは違う」が残る

問題は、届いたあとにもありました。老師は、見性を師から認められたあとのことを、こう話しています。

ようやくこれは見性したと。俺は見性したと。これが残っちゃうんですよ。

俺は……見性を許されたんだと。俺は他の奴とは違うと。

そのうえで、こう続けます。

そういう差別意識をなくすためにやるべきなのに、見性を許されると、見性したやつの方が偉いっていう、なんとなく自分も思うし人も思うじゃないですか。だからあの指導はどうかなと思うね。

差別意識をなくすための修行が、差別意識をつくってしまう。

認められた本人が「俺は違う」と思う。周りも「あの人は偉い」と見る。老師が疑問を持ったのは、認定そのものより、認定が残していくもののほうでした。

前例がわかれば、通る

別の回で、老師はもう一歩踏み込んでいます。公案、つまり師から与えられる問いについての話です。

公案には前例があるんです。その頭のいいやつは前例がわかればね、公案なんてさっさと通りますよ。

通るとお前老師だってことになる。ところが、通ったはいいけど、本人はさっぱりわかんない。

老師は、そういう人ばかりではない、とも断っています。そのうえで、こう言い切ります。

いくらね、600、800の公案通ったってね、ダメなんだよ。

以前、老師自身が公案を一通り終えたあと、最初からやり直した話を書きました。今回の言葉は、その裏側にある見方だと私は読みました。通ったことは、通ったことしか証明しない。

認定が目的になると、何が残るか 認定を 目的にする 前例を読んで 通る 「許された俺」が残る 俺は他の奴とは違う 本人の中身 通ったはいいけど さっぱりわからない 周りの見方 許されたほうが偉い = 序列が生まれる 坐禅会(2016年11月・2017年11月)の老師の言葉をもとに筆者が整理

図1 認定が目的になると、何が残るか——中身は空いたまま、「許された俺」と序列だけが残る

老師がたどり着いた言い方——「目的とするな」

では、どうすればいいのか。老師は、別の回でこう話しています。

悟ったんだけども、俺は悟ったって、俺がある間はまだ本当じゃないんだ。本当の悟りじゃないんだよ、そんなものは。

僕はね、最近はね、見性なんかするな、目的とするな。ただ坐禅に。

「最近は」と言っています。若いころに受けた指導とは、言い方を変えたということです。

理由も、こう語られています。

悟ろうと思ってやればやるほど汗はかくんだけれどもね。なかなかできないね。

悟ろうと思わない時にできる。

さらに別の回では、同じことを、追いかける形で説明しています。

俺は頭いいんだから見性ぐらいしてやろうなんて思えば思うほど、そういう自分があるから、いつまで経っても追いかけるだけだから。

追いかける自分と追いかけられる悟りの世界とは分断されちゃうんですよ。

取りにいくほど、遠ざかる。目的にした瞬間に、「取りにいく自分」が間に立ってしまう、という話だと私は読みました。

私の場合——IT系の資格・認定

私にも、通ったけれど中身は別だった、と感じたことがあります。ジャンルでいえば、IT系の資格・認定です。資格の名前は書きません。

以前の記事で、認定は、中身を見分けられない人を守るための形式だ、と書きました。今回の話は、それと矛盾しないと私は考えます。

見る側にとっての道具と、取る側にとっての目的は、別のものだからです。

見る側にとって、認定は、見当違いを避けるための目印になります。けれども取る側が、認定そのものを目的にすると、老師の言う「前例を読んで通る」が起こりうる。通ったあとに、中身をどう積むか。問われているのは、そちらだと思います。

同じ認定の、二つの顔 見る側にとって 中身を見分けられないときの 目印 大きな見当違いを防ぐ = 道具として意味がある 取る側にとって 目的にすると 前例を読んで通る 「許された俺」が残る = 通ったあとが問われる 老師の言葉と、以前の記事(本物の指導者の見分け方)をもとにした筆者の読み

図2 同じ認定の、二つの顔——見る側には目印、取る側には目的になりうる

組織に置き換えると

会社にも、認定はたくさんあります。昇格の試験、社内の資格、表彰。

老師の話を組織に置き換えると、気をつけたい点が二つあると思います。

一つ目。認定された人の中に、「俺は違う」が残らないか。認定は、本人の中で肩書きに変わりやすい。

二つ目。周りが「認定されたほうが偉い」と見ていないか。老師の言う差別意識は、本人だけでなく、周りの見方からも生まれています。

制度をなくせばいい、という話ではありません。老師も、見性は大切だと言っています。目的にさせない運用のほうを考えたい、というのが私の読みです。

「認定をなくせ」という話ではありません

一つ目。老師は、見性や認定を否定していません。見性しなければ、自分が迷っていたことも分からない、と言っています。疑問を向けているのは、それを目的にさせる指導のほうです。

二つ目。「資格は意味がない」という話でもありません。見る側にとって、認定は大事な目印です。変えたいのは、取る側の構えです。

まとめ——通ったあとを、見る

  1. 認定を目的にすると、「許された俺」が残る。本人も周りも、許されたほうが偉いと思ってしまう
  2. 前例がわかれば、通る。通ったことは、通ったことしか証明しない
  3. 老師の言い方は「目的とするな」に変わった。取りにいくほど、遠ざかるから

心を高める、経営を伸ばす。認定を目的にしない構えは、心の側の話であり、組織の側の話でもあると、この言葉を読み直して思いました。

締切が迫って忙しいとき、どう構えればいいのか。次回は、その話です。

明日、一つだけやってみる

社内の昇格や資格、表彰の制度を一つ思い浮かべてください。そのうえで、認定された人に「俺は違う」が残っていないか、周りが序列として見ていないかを点検してみてください。

よくある質問

Q. 資格は、取らないほうがいいのですか。

そうは考えていません。見る側にとって、認定は大事な目印です。この記事が問題にしているのは、取ること自体ではなく、取ることが目的になって、通ったあとが空くことです。

Q. 社内の認定制度や表彰は、やめたほうがいいですか。

老師の話は、制度の廃止を勧めるものではありません。私が借りたのは、認定された人に「俺は違う」が残らないか、周りが序列として見ていないかを点検する、という見方です。

Q. 宗教的な話として受け取るべきですか。

老師は禅の修行の言葉で話していますが、この記事が借りたのは、目的にした瞬間に、取りにいく自分が間に立つという見方です。用語を外しても、見方は残ります。

出典

  • 坐禅会(2017年11月)の録音記録。「見性しろ、見性しろって言うんですよ」「見性は大切なんだけれどもね……やったってダメなんですよ」「俺は他の奴とは違うと」「そういう差別意識をなくすためにやるべきなのに……だからあの指導はどうかなと思うね」は老師の発言(録音の25:29〜31:20前後)
  • 坐禅会(2016年11月)の録音記録。「公案には前例があるんです……」「通ったはいいけど、本人はさっぱりわかんない」「600、800の公案通ったってね、ダメなんだよ」「追いかける自分と追いかけられる悟りの世界とは分断されちゃう」は老師の発言(28:13〜28:56、45:26〜45:54前後)
  • 坐禅会(2017年10月)の録音記録。「俺は悟ったって、俺がある間はまだ本当じゃないんだ」「最近はね、見性なんかするな、目的とするな」「悟ろうと思わない時にできる」は老師の発言(24:11〜25:32前後)
  • 文字起こしでは「見性」の多くが「検証」と表記されている。同じ録音の中で「性を見る」「悟りのこと」と説明されていることから、「見性」と判断して表記した
  • 引用は録音の文字起こしから。言いよどみや、意味が取れない部分、お名前に当たる部分は「……」で省いた
  • 「見性」「公案」の説明は、筆者の補足です
  • IT系の資格・認定についての記述は筆者自身のもので、ジャンルのみを記しています
  • 本文中に坐禅会の関係者・老師・老師の師のお名前、寺名・地名は記載していません
  • 本記事は坐禅会の録音のみを素材としており、書籍は使用していません
  • 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません

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この記事を書いた人

Takuomi Mochidaのアバター Takuomi Mochida 株式会社ベンチャーネット代表取締役

株式会社ベンチャーネット 代表取締役
2005年に株式会社ベンチャーネットを設立後、SEOをはじめとするデジタルマーケティング領域のコンサルティングサービスを展開
広告・SNS・ウェブ・MA・SFAと一気通貫で支援を行っています
著書に『普通のサラリーマンでもすごいチームと始められる レバレッジ起業 「バーチャル社員」があなたを救う』(KADOKAWA、2020年)

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