この記事でわかること
- 七仏通誡偈が「善の中身」を決めず、向きだけを示している意味
- 本性を決めないまま向きだけを見る「向善説」という人の見方
- 到達したことは人を偉くしない、という老師の言葉
前回は、お釈迦様を聖人ではなく見本として置き直す、という読み方を書きました。
では、その見本が残した教えのうち、いちばん短いものは何か。
対談の聞き手が挙げたのは、七仏通誡偈でした。この短い教えは、善の中身を決めず、向きだけを言っている、と私は読みました。
諸悪莫作 衆善奉行
聞き手は、こう語っています。
お釈迦様が伝えたかった仏教の神髄は、やはり「七仏通誡偈」にあるのではないか、と。
諸悪莫作 衆善奉行
読みは「しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう」。意味は、誌面にそのまま書かれています。
悪いことはしてはいけない、善いことをしなさい。
聞き手は、これを誰にでも分かる教えだと言っています。
たしかに、これだけ見れば当たり前です。行動規範に書いてあっても、誰も読み返さない類の文です。
絶対的な善も、絶対的な悪もない
ところが、聞き手はここから逆の方向に話を進めます。
仏教では、絶対的な善も絶対的な悪もない、それは分別の妄想であると教えている——と。
そもそも、と続きます。
人間は物事を善と悪に分けることによって、人を裁いたり、争いを起こしたりする。
ここで矛盾が出ます。善も悪もないのに、善いことをしなさいと言うのか。
聞き手の答えが、この節の核でした。
しかし『七仏通誡偈』は、こういう善があるから従いなさいとは言ってない。ただ善いことをしなさい、悪いことはするなと。そこが『七仏通誡偈』の深いところだと思うんです。
中身を決めていない。向きだけを言っている。そう読み取れます。
中身を決めると、善は条文になります。条文になったものは、合っているかどうかの判定に使われます。判定が始まると、そこから裁きと争いが出てくる——誌面の順序は、そうなっています。
向きだけにしておけば、判定するものがありません。そのかわり、何が善かは各自が考えることになります。
図1 善を定義するか、向きだけを言うか——誌面は後者を「深いところ」と呼んでいる
向善説——善か悪かは、分からない
聞き手は、ここで教育学の話を挟みます。
ある教育学者が、子供たちの姿を見て、性善説でも性悪説でもない「向善説」を唱えている、と。
老師が尋ねます。それはどういう考え方なのですか、と。
聞き手の説明は、こうでした。
人間の本性が善か悪かは分からないけれど、皆善に向かって生きようとしていること自体は間違いない。
誰もが失敗や間違いをしながらも、よりよく生きようとしている。
そして、ここが強い一節です。
犯罪者だってよりよく生きたいと思って罪に手を染めたのかもしれない。そう考えれば、この世界に悪は成り立たない。
その教育学者は、この「向善説」を教育の根幹に据えることが大事だと言っている——と聞き手は紹介しています。
図2 人の見方、三つ——向善説は本性を決めない。決めないまま、向きだけを見る
「俺はすごいんだ」と威張りたがる
同じ対談で、老師がこんな一言を残しています。
見性しても「俺はすごいんだ」と威張りたがる人が多いんです。そんな修行ならやらないほうがいいのです。
到達したことが人を偉くするわけではない、という意味に読みました。
向きが変われば、到達が自慢に変わる。七仏通誡偈が中身を決めないのは、そのためでもあるように思います。
到達を測れる形にすると、測れた人が上に立ちます。上に立った人は、自分の到達を基準にして人を測り始めます。
見性という、いちばん内側の出来事でさえそうなる、と老師は言っています。数字や資格なら、もっと簡単に起きると思いました。
行動規範は、向きだけにした
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。
社内に規範を置くとき、私が選んだのは向きだけを示すほうでした。
何が善かを細かく決めていません。決めなかったからうまくいった、というのが実感です。
理由は二つあります。
一つは、条文にない場面が必ず来るからです。決めた分だけ、決めていない場面で人が止まります。
もう一つは、決めた側が判定者になってしまうことです。中身を決めると、合っているかどうかを、誰かが裁くことになります。裁く役を置いた時点で、自分で考える人は減ります。
向きだけにすると、こちらが我慢することになります。判断が自分の想定と違っても、向きが合っていれば通す。ここが、いちばんしんどいところです。
自分の想定のほうが良い案に見えることは、よくあります。それでも差し替えると、次からは私の答えを待つ人が増えます。
一度でも差し替えれば、向きだけを示したという建前は崩れます。崩したのはこちらなのに、考えなくなったのは相手のせいに見えてしまう。ここは何度も間違えました。
「最近は、善に向かっているように見える」
思い当たることが、もう一つ。
友人に、こう言われたことがあります。
十年前は金を稼ぐことに特化していて怖かった。最近は善に向かっているように見える、と。
言われたときに気づきました。これは到達点の評価ではないのだ、と。
善い人になった、とは言われていません。向きが変わったと言われただけです。
向善説の話を読んで、この言葉の形が分かりました。人を見るときに使えるのは、たぶん向きのほうです。到達点で見れば、たいてい足りていません。
まとめ——中身を決めないという設計
- 中身を決めていない。七仏通誡偈は、こういう善があるから従えとは言っていません
- 本性を決めないまま、向きだけを見る。向善説は、失敗を向きの否定として扱いません
- 到達は、人を偉くしない。老師は、威張るくらいならやらないほうがいいと言っています
心を高める、経営を伸ばす。
高めるというのは、正解を増やすことではないようです。向きを合わせたまま、中身は相手に預ける。そのぶん、こちらが我慢するという設計なのだと読みました。
では、道を目指すことと、それ自体が道であることは、どう違うのか。次回は、同じ対談から仏様を目指す道ではなく、仏様という道という言い方を読みます。
明日、一つだけやってみる
部下の判断が自分の想定と違っても、向きが合っていれば一度そのまま通してみてください。向きは言葉ではなく、失敗のあとに直そうとしているかで見てください。
よくある質問
Q. 中身を決めないと、現場が迷いませんか。
迷います。決めたほうが短期的には速いです。
ただ、決めた分だけ決めていない場面で止まるのも事実でした。どちらを取るかの選択で、私は向きのほうを選んだ、という話です。
法令や安全のように、決めるべきものは決めます。向きだけで済ますのは、価値判断が入る領域に限っています。
Q. 「この世界に悪は成り立たない」というのは、加害を許す話ですか。
そうは読めません。
誌面は、動機の側を見ています。よりよく生きたいと思った結果として罪に至ることがある、という読み方です。
行為の責任を消す話ではなく、人をまるごと悪と決めないという話だと受け取りました。
Q. 向きが合っているかは、どう見るのですか。
私にできているのは、言葉ではなく、直したかどうかで見るくらいです。
失敗したあとに直そうとしているなら、向きは合っています。同じことを同じ形で繰り返しているなら、向きの話ではなく別の問題だと考えています。
出典
- 『致知』2021年8月号「修養の道、限りなし」(特集「積み重ね 積み重ねても また積み重ね」)本文16ページ。対談形式
- 「七仏通誡偈」「諸悪莫作 衆善奉行」「悪いことはしてはいけない、善いことをしなさい」「絶対的な善も絶対的な悪もない、それは分別の妄想」「人間は物事を善と悪に分けることによって、人を裁いたり、争いを起こしたりする」「しかし『七仏通誡偈』は、こういう善があるから従いなさいとは言ってない。ただ善いことをしなさい、悪いことはするなと。そこが『七仏通誡偈』の深いところだと思うんです」は、いずれも同誌の対談で聞き手が語っているもの
- 「向善説」は、ある教育学者が唱えた考え方として同誌が紹介しているものです。「人間の本性が善か悪かは分からないけれど、皆善に向かって生きようとしていること自体は間違いない」「犯罪者だってよりよく生きたいと思って罪に手を染めたのかもしれない。そう考えれば、この世界に悪は成り立たない」「この『向善説』を教育の根幹に据えることが大事」も、同誌の対談における聞き手の紹介によります。その教育学者の著作を直接参照したものではありません
- 「見性しても『俺はすごいんだ』と威張りたがる人が多いんです。そんな修行ならやらないほうがいいのです」は、老師の発言として同誌に載っているもの
- 「諸悪莫作 衆善奉行」の読みは、一般的な読みをもとにした筆者の補足です
- 社内の規範についての記述と、友人から言われた言葉についての記述は、いずれも筆者自身のものです。個人名・社名は記載していません
- 老師の実名、聞き手のお名前は、本記事では記載していません
- 同誌が同じページで紹介している会の設立、後継者のお名前、禅堂の名は、本記事では扱っていません
- 引用はすべて、同誌のスキャン原本を400dpiで展開して字句を確認した(本文16ページ)
- 本記事は『致知』の対談のみを素材としており、坐禅会の録音および『禅の正門』は使用していません
- 本記事は特定の宗教/宗派を評価するものではありません。記述はすべて同誌に載った発言によります
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