この記事でわかること
- 遠すぎる人を「同じく人間として生まれた人」と並べ直す読み方
- 六年の苦行を尽くしたから外せた、という中道の意味
- 見本とは立派な部分ではなく、歩いた順路だという話
前回は、聞き手が行き着いた「恩の結晶」という言葉を読みました。
対談はここから、老師の側に戻ります。
そして老師は、誰もがお釈迦様に近づけると言い切ります。その根拠は、読んでいて意外なところにありました。お釈迦様も母親のお腹から、人間として生まれた。その一点です。
遥か彼方だと、私も思っていた
老師は、まずこう切り出します。
お釈迦様は二千五百年前に生まれた聖人であり、その悟った世界など、とても自分たちの及びもしない遥か彼方の世界のことだ。そう多くの人が考えているのではないか、と。
そのうえで、こう続けます。
私も最初はそう考えていたんですが、どうもそれは違うんじゃないかと。
根拠として挙げられたのは、教義でも体験でもありませんでした。出生です。
お釈迦様は仏界から人間界に現れ、インドのカピラ国の王子として生まれた。しかし、母親であるマーヤ夫人のお腹から人間として生まれたんです、と。
聞き手が受けます。人間として生まれたという点では、私たちと変わらないと。
王子は、六年間、肉体を苛めた
人間として生まれたのなら、苦しみも同じです。
老師は、お釈迦様も「生老病死」の苦しみ、そして「自分は死んだらどこに行くのか」という苦しみを抱かれたと語ります。
それを解決するために、地位も財産も王宮も捨てて、最初の六年間はあらゆる難行苦行に身を投じられた。
なぜ肉体を苛めたのか。老師の推測は、こうです。
肉体があるから「生老病死」の問題も解決しない、精神的な解放もないのではないか。そう考えて、肉体を徹底的に苛めたのでしょう、と。
ところが、結果は否でした。肉体を苛めても精神的な解放は得られない。
それを知ったお釈迦様が辿り着いたのが、安易でも苦行でもない中道の道——姿勢を正して呼吸を整え、心身を静寂にする坐禅でした。
聞き手はこう受けています。難行苦行の果てに辿り着いたのが坐禅だったのですね、と。
図1 苦行を尽くしたあとに、中道が残った——省略された近道ではなかった
明けの明星を見た途端に
そこから先は、よく知られた場面です。
悟りを開くまでこの坐を立たないという強い決意で菩提樹の下に坐り、夜が刻々と更けてもひたすらに坐禅を続けた。そしてふと明けの明星が東天に輝くのを見た途端、大悟された。
その時、思わずお釈迦様の口をついて出た言葉として、老師はこれを挙げています。
我と大地有情と同時に成道す
老師の説明はこうです。
お釈迦様は、自分と自分を取り巻く世界との壁がなくなって、生まれたり死んだりする自分もなく世界もない。透き通った中身が空っぽの一如の世界に没入してしまった。
そして、こう宣言された——と老師は言います。
全人類をはじめ、この宇宙に存在するすべての一つひとつがこの事実を丸出しにしているだけだぞ!
見本を示すために現れた
ここが、老師の結論です。
要するに、覚悟を持って真剣に坐禅修行を続ければ、誰もが自分と同じような体験、悟りを得ることができる。
そして——
お釈迦様はその見本を私たちに示すために人間界に現れたのだと私は思うんですよ。
聖人ではなく、見本。この言い方が、私には新しく響きました。
図2 遠すぎる人を、どちらに置くか——老師は「聖人」ではなく「見本」と言っている
一つ一つやる以外に、遠くへ行く道はない
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。
遠くへ行きたいと思ったときに、私が思い出す考え方があります。
一つ一つやっていく以外に、遠くへは到達しない。
この考え方が効くのは、遠さを短くしてくれないからだと思います。
近道を教えてくれる言葉ではありません。遠いことは遠いまま、ただ行き方だけが一つに絞られる。
お釈迦様の六年も、同じ形に見えました。苦行を飛ばして中道に来たのではありません。尽くしたから、外せた。
私の仕事も、結局は目の前の一件ずつです。順路が一つしかないと分かっていると、迷う時間が減ります。
逆に言えば、遠さに負けるのは、順路が見えていないときです。距離そのものではなく、行き方が分からないことのほうが人を止めるのだと思います。
「あなたのようになりたかった」と言われて
もう一つ、思い当たることがあります。
友人の経営者から、私はあなたのようになりたかった、と言われたことがあります。
うれしくなかったわけではありません。ただ、同時に思いました。
それは見えている部分だけの話であって、本質はうすっぺらい。
自分ではそう気づいていました。外から見える成果や肩書きは、内側の薄さを隠してくれます。
隠れてしまうと、こちらも訂正しにくくなります。実際より高く見られている状態は、居心地が悪いのに、自分から壊す理由もありません。
ここで、老師の「見本」という言い方に戻ります。
見本というのは、立派に見える部分ではなく、歩いた順路のほうだと思います。誌面がお釈迦様について書いているのも、悟った後の境地より、六年苦しんで外したという順路のほうでした。
だとすれば、私が誰かの参考になれる部分があるとしても、うまくいった話ではなく、外した話のほうです。
まとめ——遠さは、そのままでよい
要点は三つです。
- 地続きの根拠は、出生だった。教義ではなく、母の腹から生まれたという一点で並べています
- 苦行は省略できなかった。尽くしたから外せた。中道は近道ではありません
- 見本とは、順路のこと。立派な部分ではなく、どこを通ったかが参考になります
心を高める、経営を伸ばす。
遠い人を遠いまま尊敬していると、動き出さないままになります。同じところから出発した人として並べ直すと、一歩目が決まる。そういう読み方をしました。
悪いことはするな、善いことをしなさい。この短い教えの、どこが深いのか。次回は、同じ対談から七仏通誡偈を読みます。
明日、一つだけやってみる
遠いと感じている目標を一つ選び、到達点ではなく順路として眺め直してみてください。そのうえで、明日やる一件だけを決めてください。
よくある質問
Q. お釈迦様を人間扱いするのは、失礼ではありませんか。
誌面は、お釈迦様が仏界から人間界に現れたとも書いています。人間だけだと言っているのではありません。
そのうえで、母のお腹から人間として生まれたという一点を強調しています。格を下げる話ではなく、距離の話だと読みました。
Q. 誰でも悟れる、という話は安易ではありませんか。
老師は条件を付けています。覚悟を持って真剣に坐禅修行を続ければ、です。
続ければ誰でも、という言い方は、続かない人は届かないとも言っています。安易にはなっていないと思います。
Q. 「見本」と「目標」はどう違うのですか。
目標は到達点で、見本は順路だと思います。
到達点だけを見ていると、遠さに負けます。順路が見えていれば、いまやる一件が決まります。このシリーズで前に読んだ「目標にして求めると外れる」という言葉とも、つながっているように思いました。
出典
- 『致知』2021年8月号「修養の道、限りなし」(特集「積み重ね 積み重ねても また積み重ね」)本文15〜16ページ。対談形式
- 「私も最初はそう考えていたんですが、どうもそれは違うんじゃないかと」「母親であるマーヤ夫人のお腹から人間として生まれた」「地位も財産も王宮も捨てて、最初の六年間はあらゆる難行苦行に身を投じられた」「肉体を苛めても精神的な解放は得られない」「安易でも苦行でもない中道の道」「悟りを開くまでこの坐を立たない」「明けの明星が東天に輝くのを見た途端、大悟された」「自分と自分を取り巻く世界との壁がなくなって」「透き通った中身が空っぽの一如の世界に没入してしまった」「全人類をはじめ、この宇宙に存在するすべての一つひとつがこの事実を丸出しにしているだけだぞ!」「覚悟を持って真剣に坐禅修行を続ければ、誰もが自分と同じような体験、悟りを得ることができる」「お釈迦様はその見本を私たちに示すために人間界に現れたのだと私は思うんですよ」は、いずれも老師の発言として同誌に載っているもの
- 「我と大地有情と同時に成道す」は、同誌がお釈迦様の言葉として紹介しているもの
- 「人間として生まれたという点では、私たちと変わらない」「難行苦行の果てに辿り着いたのが坐禅だったのですね」は、同誌の対談で聞き手が語っているもの
- 「生老病死」「中道」の語釈は、一般的な意味をもとにした筆者の補足であり、同誌の語句ではありません
- 友人の経営者から言われた言葉と、それについての受け取りは、筆者自身のものです。個人名・社名は記載していません
- 老師の実名、聞き手のお名前は、本記事では記載していません
- 同誌が本記事の範囲で紹介している会の設立、後継者のお名前、禅堂の名は、本記事では扱っていません
- 引用はすべて、同誌のスキャン原本を400dpiで展開して字句を確認した(本文15〜16ページ)
- 本記事は『致知』の対談のみを素材としており、坐禅会の録音および『禅の正門』は使用していません
- 本記事は特定の宗教/宗派を評価するものではありません。記述はすべて同誌に載った発言によります
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