この記事でわかること
- 「平常心是れ道」の問答が、答えのあとで動いた意味
- 目標にして求めると外れる——目標を持つなではなく、追い方の話
- 根拠のない数字の危うさと、見失ったら無理につくらない選択
前回は、「内には一物もなく、外に求めるものもない」という趙州の言葉を読みました。
では、その趙州は、若いころに師から何を受け取ったのか。
対談の聞き手が最も衝撃を受けたと言うのが、『趙州録』の冒頭にある問答です。趙州が、師である南泉のもとで悟りを開いたときの場面にあたります。南泉の答えの核は、目標にして求めると外れる、という一句でした。では、目標を持つなということなのか。
如何なるか是れ道
誌面に載っている問答は、次のとおりです。
師(趙州)、南泉に問う、「如何なるか是れ道」。南泉は答えた、「平常心是れ道」と。師は言う、「それを目標にすべきでしょうか」。南泉、「それを目標にして求めると外れてしまう」。師は言う、「それを目標に修行しなければ、どうして、それが道だとわかりましょうか」。南泉、「道は知・不知と関係ない。知は妄覚であり、不知は無記(無意味)だ。もし目標にしようという計らいを持たずに道に達するならば、ちょうど虚空のようにカラッとして、何のさわりもなくなる。是だの非だのという余地は全くなくなるよ」と。師は言下に、その本旨を悟って、明月のような心境を得た。
道とは何ですか、と趙州が聞きます。
平常心是れ道——ふだんの心が、そのまま道である。南泉はそう答えます。
ここまでは、よく知られた言葉です。問答が動くのは、この先でした。
図1 問答は、答えのあとで動いた——「平常心是れ道」は入口で、本題はその先にある
目標にすると、外れる
趙州は、当然のことを聞き返します。それを目標にすべきでしょうか。
南泉の答えは、否でした。目標にして求めると外れてしまう。
趙州は食い下がります。目標にして修行しなければ、それが道だとどうして分かるのか。
ここで南泉は、道は知・不知と関係ない、と言います。知は妄覚であり、不知は無記——誌面は、無記に(無意味)という語を添えています。
分かったと思えばそれは思い込みで、分からないと言えばそこで話が終わる。知っているか知らないかという物差しでは、そもそも測れないということだと読みました。
目標というのは、測るための物差しでもあります。物差しが合っていないなら、それに向けて進むほど離れていくのは、道理だと思います。
そして最後に、計らいを持たずに道に達するならば、虚空のようにカラッとして、さわりがなくなる、と続けました。
聞き手は、この問答をこう読んでいます。
目標に向けて求めようとすればするほど、あさってのほうに向かってしまう。
頭で知るとか知らないとかいうことではなく、何の計らいもなく、目標に向かおうともせずに達するところに本当の平常心の境地がある、と。
図2 目標に向けたときと、向けなかったとき——聞き手の読みを図にしたもの
いま、この生活の中に
聞き手は、この問答を読んだときに、こう言われているような気がしたと語っています。
道にしても仏様の教えにしても、どこか別のところにあるのではなく、いまこの生活の中に、お前の中にあるんだ。なぜそれをわざわざ探そうとするんだ。
そして、こう続けます。
何か特別なもの、何か別の自分を探そうとするのではなく、いまのありのままの自分、いまこの時を丁寧に生きる。目の前にある価値に気づき大切にしていく。そこに平常心という道がある、と。
なぜそれをわざわざ探そうとするんだ——この一行が、私には一番こたえました。
探しに行く、というのは動いている感じがします。動いているあいだは、何かをやっている気持ちになれる。手元を見ないで済むぶん、楽でもあります。
目の前にある価値に気づき大切にしていく——聞き手はそう言っています。
気づく、という言い方が正確だと思いました。増やすのでも、つくるのでもありません。すでにそこにあるものに、目が向くかどうかです。
ただし南泉は、目標を持つなとは言っていません。言っているのは、それを目標にして求めると外れるということです。趙州も、修行をやめてはいません。
適当な数字を掲げると、遠くなる
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。
適当に数字を掲げて進めたことがあります。結果は、遠かった。
掲げた数字が高すぎたという話ではありません。その数字に、根拠がなかったということです。
根拠のない数字を置くと、日々の判断がその数字に寄っていきます。いまやるべきことではなく、その数字に近づく見え方のする仕事を選ぶようになる。
数字そのものが悪いのではありません。
根拠のある数字は、日々の判断を助けます。根拠のない数字は、日々の判断を歪めます。同じ一つの数字でも、後ろに何があるかで働きが逆になります。
目標にして求めると外れる、という南泉の言葉を、私はこの形で読みました。
外れていく感じは、進んでいる最中には分かりません。しばらく経って、手元を見たときに分かります。
目標を見失ったら、無理につくらない
では、根拠のある数字が置けないときは、どうするか。
いまは、こうしています。
目標を見失ったら、無理につくりません。
立ち止まる。振り返る。目標が設定できるようになるまで、自分を信じて待ちます。
空欄のまま置いておくのは、経営者としては落ち着かないことです。埋めておいたほうが、まわりにも自分にも説明がつきます。
ただ、埋めるために置いた数字は、一つ目の話に戻るだけでした。
待つというのは、何もしないことではありません。
立ち止まる、振り返る、というのは作業です。手を止めているあいだに、見えていなかったものが出てくることがあります。出てこない日もあります。
信じて待つ、というのは、出てくるまでのあいだ、空欄のままでいることを自分に許すという意味だと思っています。
図3 目標を見失ったときに、どうするか——空欄に耐えられるかどうかの話でもある
まとめ——追うほど遠ざかるもの
要点は三つです。
- 問答は、答えのあとで動いた。「平常心是れ道」は入口で、本題はその先にありました
- 目標にして求めると外れる。目標を持つなという話ではなく、追い方の話でした
- 見失ったら、無理につくらない。空けたまま、設定できるようになるまで待ちます
心を高める、経営を伸ばす。
この言葉は、心を高めるほうが先に置かれています。伸ばすほうを先に置くと外れる、ということでもあるのだと、いまは読んでいます。
見性してからが本当の修行の始まりとは、どういうことか。次回は、同じ対談の次の節を読みます。
明日、一つだけやってみる
いま掲げている数字を一つ選び、その後ろに根拠があるかを書き出してみてください。根拠が見当たらなければ、無理に埋めず、立ち止まって振り返る時間を取ります。
よくある質問
Q. 目標を持つな、ということですか。
違うと読みました。
南泉が言っているのは、それを目標にして求めると外れるということです。目標そのものを否定してはいません。趙州も修行をやめていません。
私の場合は、目標を持たない期間があるという形になっています。見失ったときに無理につくらず、設定できるようになるまで空けておく。持たない期間を許すことと、持たないことは違うと思っています。
Q. 「平常心」は、落ち着いていることですか。
対談では、落ち着きの意味では使われていません。
ふだんの心が、そのまま道であるという文脈です。特別な心の状態に入ることではなく、いまのありのままを指しています。
Q. 「知は妄覚」なら、学ばなくてよいのですか。
そうは読めません。
南泉は、知も不知も道とは関係ない、と言っています。学ぶなという話ではなく、知った・知らないという物差しでは道は測れないということだと読みました。
出典
- 『致知』2021年8月号「修養の道、限りなし」(特集「積み重ね 積み重ねても また積み重ね」)本文12ページ。対談形式
- 「師(趙州)、南泉に問う……明月のような心境を得た」の問答は、同誌が『趙州録』から引用しているもの。「無記(無意味)」の丸かっこは同誌のものであり、筆者の補足ではない
- 同誌は、引用した『趙州録』の言葉について『心に甦る「趙州録」』(春秋社)および『生きる力になる禅語』(致知出版社)を参照したと注記しています(本文17ページ下部)
- 「目標に向けて求めようとすればするほどあさってのほうに向かってしまう」「いまこの生活の中に、お前の中にあるんだ」「いまのありのままの自分、いまこの時を丁寧に生きる」は、同誌の対談で聞き手が語っているもの
- 「平常心是道」の語意の説明は、一般的な意味をもとにした筆者の補足であり、同誌の語句ではない
- 引用はすべて、同誌のスキャン原本を400dpiで展開して字句を確認した(本文12ページ)
- 聞き手のお名前、老師の実名は、本記事では記載していません
- 数字を掲げた話と、目標を見失ったときの話は、いずれも筆者自身の経験です。時期・金額・相手先は記載していません
- 本記事は『致知』の対談のみを素材としており、坐禅会の録音および『禅の正門』は使用していません
- 本記事は特定の宗教/宗派を評価するものではありません。記述はすべて同誌に載った発言と、同誌が引用している語録の内容です
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