この記事でわかること
- 外へ光を向けるか、内へ向けるか——東洋と西洋の探し方の違い
- 外を測る道具をいくら増やしても、「自社が何か」は出てこない理由
- 優劣ではなく、先に内・あとで外という順番の話
以前、立場の違う人が同じ方法を学べるか、という話を書きました。玉の色は、転がり方に関係ない。本はそう言っていました。
立場が違っても学べる。そう読んだあとに、ひとつ手前の問いが残ります。
そもそも、東洋のやり方と西洋のやり方は、どこがどう違うのか。
『禅の正門』第一章の第二節が、その違いを論じています。題は禅による人間救済の原理です。
宗教の話に見えます。ただ読んでみると、ものの探し方の向きについての話でした。
「宗教」という言葉は、輸入のときに混ざった
本は、本筋に入る前に、言葉の来歴から始めます。
もともと宗教という言葉は、仏教の中でも特に禅道仏法にだけ用いたものだった、と本は書きます。
「宗という文字は、大宗、宗家などと熟語して、大本、根本という意味である」
大本、根本。つまり宗教とは、もとは根本を明らかにする教えを指す言葉でした。
ところが明治維新以降、西洋の思想や文化を取り入れるときに、英語のReligionがこの「宗教」に訳されます。本は、それを不用意な翻訳だったと書いています。
以来、性質の違うものが一つの言葉に押し込まれることになった、と。
ここは私には他人事に思えませんでした。言葉が一つになると、中身の違いが見えなくなります。
私の仕事の周りでも、似たことが起きています。DXという一語に、業務の作り直しと、道具の入れ替えと、ただの電子化が、まとめて入っています。
呼び名が同じだと、違う話をしている人どうしが、通じたつもりで先へ進んでしまう。
一口で言うと、向きが逆だった
本は、西洋と東洋の違いを、一文に畳んでいます。
「一口で言うと、西洋的精神は、外界に向かって対象を追求していく精神であり、」
「東洋的精神は、観照の光を心の内側に向けて内界を追求していく精神であるということができよう」
観照とは、対象を静かに見つめることをいいます。その光をどちらに向けるか、という話です。
前者を客観的と言うなら、後者は主観的である。本はそう続けます。
内側に向けることを、仏教では回光返照と呼ぶそうです。
光を回して、返して、照らす。自分が出している光を、自分のほうへ向け直すという言葉です。
同じ「探す」でも、向きが逆でした。片方は外に対象を置き、もう片方は対象を置かずに、見ている側そのものを見ようとします。
図1 外へ向ける精神と、内へ向ける精神——本が示した二つの向き
「東洋のほうが優れている」という話ではない
ここは読み違えやすいところだと思いました。
本は、西洋的精神を否定していません。むしろ、はっきりこう書いています。
「自然科学は西洋的精神の最も得意とし、本命とする世界である」
外へ向かう精神があったから、自然科学が育った。それは、本自身が認めていることです。
だから本の主張は、優劣ではありません。向きが違うのだから、届く先も違う、ということです。
外へ向けた光は、対象をよく照らします。ただ、その光は光を出している側には当たりません。
思考の枠から、出られるかどうか
違いは、もう一段深いところにも及びます。
「したがってまた、西洋的精神は、主観、客観の二元対立を基本構造とするものであって、」
「あくまで、思考の領域、思想の枠内から脱け出すことができない」
二元対立とは、見る側と見られる側を分けて考える構えのことです。分けるからこそ、正確に測れます。
一方で、分けたままでは届かないものがある、と本は言います。
「これに対して、東洋的精神は、究極的には、主観が主観そのものを直接把握しなければやまない」
見る側が、見る側そのものを見る。本はそれを、鏡が鏡自身を写すことはできないのと同じだ、と説明しています。
だから、考えて届く場所ではない。体験としてつかむほかない、という筋書きになります。
そのうえで、本は禅をこう言い切ります。
「禅は主体が主体を明らめる道であり、心が心を明らめる道であり、自分が自分を明らめる道である」
外を測る道具ばかりが、増えた
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしています。
この仕事を続けるうちに、外を測る道具は、ずいぶん増えました。売上の推移、在庫の回転、案件ごとの利益、同業との比較。以前なら手作業だったものが、画面を開けば出てきます。
それ自体は良いことです。測れるようになったから、打てる手も増えました。
ただ、道具が増えても出てこない問いが、ひとつ残ります。
この会社は、何をする会社なのか。
どれだけ外を測っても、この答えは出てきません。ベンチマークは、他社がどうかを教えてくれるだけです。
私はこれを、長いあいだ「まだ分析が足りない」と受け取っていました。もっと指標を、もっと比較を、と。
この節を読んで、見方が変わりました。足りないのは分析ではなく、光の向きかもしれない。
順番の問題でもあります。外から決めると、うちの会社は他社の引き算になります。内から決めると、外の数字は使い道のある道具になります。
だから私は、順番を固定することにしました。先に内、あとで外。
図2 内が先か、外が先か——順番を変えると、出てくる答えが変わる
まとめ——向きを決めてから、道具を持つ
今回の話を、三つに絞ります。
- 宗教という言葉は、輸入のときに中身の違いが混ざった。呼び名が一つだと、違いは見えなくなります
- 西洋的精神は外へ、東洋的精神は内へ光を向ける。優劣ではなく、届く先が違うという話でした
- 外へ向けた光は、光を出している側には当たらない。だから、自社が何かは外を測っても出てきません
心を高める、経営を伸ばす。この順番も、内が先で外があとでした。高めるほうを先に置くから、伸ばすほうが乗るのだと、あらためて読みました。
次回は、同じ第二節に出てくる法華経の譬え話を読みます。家を出て、外に探しに行った子どもの話です。
明日、一つだけやってみる
次の会議で、外の数字を出す前に、この会社は何をする会社なのかを先に話してみてください。順番を決めるだけなら、明日からできます。
よくある質問
Q. 内を見るというのは、具体的に何をすることですか。
本はここでは、方法まで書いていません。この節は原理の説明に絞られています。
ただ、光の向きという比喩は、そのまま手順に写せると思いました。会議で先に外の数字を出すか、先に自分たちの話をするか。順番を決めるだけなら、明日からできます。
Q. 外を測るのをやめたほうがよい、ということでしょうか。
そうは読みませんでした。本は自然科学を西洋的精神の本命の世界だと書いています。外を測る力そのものは否定されていません。
問題になるのは、外の物差しが、そのまま自社の定義になってしまうときです。順番の話として読むのが穏当だと思います。
Q. 経営に、東洋の考え方を持ち込む必要がありますか。
必要かどうかは、それぞれの判断だと思います。私も、持ち込むべきだと主張したいわけではありません。
ただ、自分が普段どちらの向きで考えているかを知っておくのは、役に立ちました。無自覚だと、片方しか使えません。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第一章第二節「禅(正しくは禅道仏法=仏道)による人間救済の原理」。本文23〜31ページ
- 「宗という文字は、大宗、宗家などと熟語して、大本、根本という意味である」は本文23ページ
- 英語のReligionが「宗教」と訳された経緯、および明治維新以降の事情についての記述は本文25ページ。同書はこれをある老師の慨嘆として記している
- 「一口で言うと、西洋的精神は……」以下の対比、および「自然科学は西洋的精神の最も得意とし、本命とする世界である」は本文30〜31ページ
- 「回光返照」「二元対立」「主観が主観そのものを直接把握しなければやまない」「禅は主体が主体を明らめる道であり……」は本文31ページ
- 鏡が鏡自身を写すことはできない、という説明は本文35ページ
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像(400dpi)で字句を確認した(本文23・25・30・31・35ページ)
- 本文中に人名は記していません。坐禅会の関係者のお名前も記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
- 本記事は特定の宗教や文化圏を評価するものではありません。記述はすべて同書の主張の紹介です
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