この記事でわかること
- 自分を「一つの波」と見て、高さを比べてしまう心の癖
- 数字や順位は、一瞬の波の高さを写したものにすぎないという見方
- 海の中から見れば、どの波も同じ水だという比喩の意味
前回は、五分の坐禅を歯磨きの隣に置く、という続け方の話を書きました。
坐禅会で語られた、一つの比喩があります。大きな波と、小さな波。短い話ですが、経営者にこそ効く比喩だと私は読みました。
数字や順位は、一瞬の波の高さを写したものにすぎない。海の中から見れば、どの波も同じ水です。では、比べること自体をやめればよいのか。
私たちは、自分を「一つの波」だと思っている
比喩は、こう始まります。
我々はどういうふうに自分のことを評価しているかというと、ちょうどこの海でいうと、一つ一つの波だと思ってるんですよ。
それで大きな波もある、小さな波もある、さざ波もある。
そして、その波同士が比べ合う様子が続きます。
大きな波の方がいいんだとか、金のある波の方がいいだとか、知識のある波の方がいいんだとか、常にその何かにひっついて、従って自分と他の波とを比較考慮して
お金のある波。知識のある波。大きな波。どれも、波の高さの話です。
「それは、たかだか一瞬のこと」
では、その高さは何で測られるのか。比喩はここで、具体的な言葉を出します。
数字とかランキングとか……試験の点数とかね。だけど、それはたかだか一瞬のことなんです。
波は、立ち上がって、崩れて、また次の波が来ます。いま大きく見えている波も、次の瞬間には別の波になっている。
数字やランキングは、その一瞬の高さを写したものにすぎない。そう言われると、私たちが毎月のように見ている表や順位が、少し違って見えてきます。
図1 水面では、波の高さを比べている——数字や順位は、その一瞬の高さを写したもの
海の中から見ると、全部同じ水
比喩は、ここで見る場所を変えます。
どの波もどの波も水だったってことなんです。
表面は別々だけど、こっちから見れば同じ海の中から出たり引っ込んだりしてる水
水面から見れば、波は一つ一つ別のものに見えます。大きいか小さいかも、はっきり分かる。
ところが、海の中から見ると、どの波も同じ水が、たまたま持ち上がっている形にすぎません。大きな波も小さな波も、中身は変わらない。
坐禅会でこの比喩が使われたのは、修行の古い教えのうち「深く悟る」とはどういうことかを説明する場面でした。どの波も水だったと、本当に分かること。それを、この会では「悟り」の説明に充てていました。
分かっていても、波にしがみつく
ただ、話はそこで終わりません。
大多数の人はその波に執着してるから、……波への執着を離さないと水だということはわからないですよ。
理屈としては、分かる。大きな波も小さな波も同じ水だ、と言われれば、頭ではうなずけます。
けれども、自分の波の高さが気になる。分かっていても、しがみつく。坐禅会でも、理屈としてはそうなのだけれど、どうしてもそう思えない、という趣旨のやりとりが続いていました。
図2 どこから見るかで、比較は消える——水面の違いと、中身の同じさ
私が比べてしまうのは、同業の評判
私の場合、経営者になってから、つい比べてしまうのは同業の評判や知名度です。
この比喩に当てはめると、評判も知名度も、まさに波の高さです。どちらが大きく見えるか。どちらが先に名前を挙げられるか。
しかも、評判は一瞬で変わります。次の波は、別の波です。いま高く見えている波を追いかけても、追いついたころには、もう違う形になっている。
経営をしていれば、比べることは避けられません。数字を見なければ、手も打てない。この比喩を、比べるなという命令として読むつもりはありません。
私が借りたいのは、比べているときに「いま自分は、水面を見ている」と気づくことです。波の高さを見ていると分かっていれば、その高さに一喜一憂しすぎずに済む。そう思っています。
「比べるのをやめろ」という話ではありません
誤解されやすい点が、二つあります。
一つ目。比べることそのものを禁じる話ではありません。比喩が指しているのは、波の高さを「自分そのもの」だと思い込むことです。
二つ目。大きな波を目指すな、という話でもありません。大きな波も、小さな波も、同じ水だと言っているだけです。どちらかを下に見ることのほうを、戒めていると私は読みました。
まとめ——水面を見ていると、知っておく
- 私たちは自分を「一つの波」だと思い、波の高さを比べている。お金、知識、数字、ランキング
- その高さは、たかだか一瞬のこと。次の波は、別の波になる
- 海の中から見ると、どの波も同じ水。比べているのは水面だけだと知っておく
心を高める、経営を伸ばす。伸ばす側では波の高さを見ざるを得ない。だからこそ、高める側では、それが水面だと知っておきたいと、この比喩を読み直して思いました。
坐禅会で老師が語った「菩薩」という言葉は、人のことしか考えられない人のことだといいます。それは、どういう人なのか。次回は、その話です。
明日、一つだけやってみる
数字や順位を見て心が動いたら、「いま自分は水面を見ている」と心の中で言ってみてください。比べるのをやめる必要はありません。
よくある質問
Q. 比べるのをやめたら、競争に負けませんか。
この比喩は、比べることを禁じてはいません。比べているのが水面の一瞬だと分かったうえで比べるのと、それを自分の価値だと思い込んで比べるのとでは、同じ数字でも受け取り方が変わる、という話です。
Q. 「どの波も水」なら、努力しても意味がないのですか。
そうは言っていません。大きな波も小さな波も、同じ水から立ち上がっています。立ち上がることを否定しているのではなく、高さで上下をつけることを戒めているのだと読みました。
Q. 宗教的な話として受け取るべきですか。
坐禅会ではこの比喩が悟りの説明に使われていましたが、この記事が借りたのは、比べているのは水面だけだという見方です。用語を外しても、見方は残ります。
出典
- 坐禅会(2018年7月)の録音記録。比喩の引用はこの記録による(録音の06:21〜11:06前後)
- 引用は録音の文字起こしから。言いよどみや、意味が取れない部分は「……」で省いた
- この比喩は、坐禅会で、修行の段階を説く古い教えのうち「深く悟る」段階を説明する場面で語られたもの。本記事は段階論には立ち入っていない
- 同業の評判・知名度をつい比べてしまう、という記述は筆者自身のものです
- 本文中に坐禅会の関係者・老師のお名前は記載していません
- 本記事は坐禅会の録音のみを素材としており、書籍は使用していません
- 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません
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