古典を読むだけでは、差がつかない——過去は「跳躍台」に変えられる

「道」を扱った記事(道01)は、道を知る出発点は自分の観察にあり、次に見るべきは自分と自社の来歴だ、という話で締めくくりました。また、差別化の原理としての温故知新には「故き」が二層ある、という話もすでに見ています(温故知新01)。第一層は人類の古典、第二層は自分と自社の歴史。今回は、その二層を、学び方の側から掘り下げます。古典を読むだけでは、なぜ差がつかないのか。そして、自分の過去を温ねると、何が起きるのか。

目次

第一層だけでは、差がつかない

温故知新の出典は『論語』為政篇です。故きを温ねて新しきを知る、以て師と為るべし。古いことをよく調べ、そこから新しい知識や考えを見つける。それができて、はじめて人の師となれる、と孔子は言いました。

ここで注意したいのは、多くの人が「故き」を第一層——古典や他人の成功例——だけで考えていることです。しかし、同じ本を読んだ全員は、だいたい同じ結論に着きます。読書会の場でも、こんな指摘がありました。天から与えられた本質は人によって違うから、その発動法則も人によって違う。だから、隣のうまくいった人の真似は、狭い世界でしか通用しない。ベンチマークした企業をそのまま真似るのがナンセンスなのも、同じ理屈です。

古典は、観る眼を磨いてくれます。それは不可欠です。けれども、眼を磨いただけでは、まだ何も掘っていない。掘るべき場所は、第二層——世界であなたにしかない過去——のほうにあります。

佐藤一斎は「過去を追想すべし」と書いた

第二層を温ねよ、と最も端的に説いた古典があります。佐藤一斎の言志後録の八「過去を追想すべし」です。読書会の第二シーズンで正面から扱われた条で、核心は「幼稚の時のことを思い起こすべし」という一行にあります。父母に養い育てられた恩、遊びたわむれたこと、教え諭されたこと。それらを一つずつ思い起こせ、というのです。

面白いのは、佐藤一斎が過去について、別の書きぶりもしていることです。言志録の九十には「過去は未来の手本」、言志耋録の百九十三には「過去は将来への起点」とあります。もっともな言葉ですが、読書会では、これらと後録の八とではレイヤーが違う、と整理されていました。手本や起点という捉え方は、過去から教訓を取り出すノウハウの話です。追想は、そうではありません。教訓を拾うためではなく、過去そのものを一つずつ思い起こす。その行為自体に、別次元の働きがある、というのです。

では、その働きとは何か。ここで、読書会に一つの言葉が登場します。

過去への三つの構え——追想は、教訓とはレイヤーが違う 思い出話 引退後にまとめて 配るもの 過去で完結する 教訓・起点 過去は未来の手本 (言志録90・耋録193) ノウハウを取り出す 追想 過去そのものを 一つずつ思い起こす (言志後録8) 過去を懐かしむ 過去から学ぶ 過去が跳躍台になる 「幼稚の時のことを思い起こすべし」——追想は教訓の抽出ではない 読書会では、手本・起点(ノウハウ)と追想とはレイヤーが違う、と整理された 思い起こす行為そのものに、別次元の働きがある

図1 過去への三つの構え——思い出話でも、教訓の抽出でもなく、追想だけが跳躍台につながる

自分史は、跳躍台である

岡本吏郎先生が読書会の資料で紹介した、紀野一義の言葉があります。「過去の自分の真実を1つずつ思い出すことが、次の飛躍への跳躍台になる」。過去の行いの確認——別の言葉で言えば、自分史の確認です。

自分史というと、引退した人が人生をまとめて知り合いに配るもの、という印象があるかもしれません。読書会では、それは本来の姿ではない、と繰り返し語られていました。自分史は、過去を懐かしむためではなく、次に跳ぶために書くもの。だから、書くのに適した時期は現役のど真ん中です(温故知新01)。読書会では、五十からの次のスタートへ跳躍するために、過去を追想しておくのだ、と語られていました。孔子の「五十にして天命を知る」とも重なる話です。

そして先生は、この作業をやれている人とやれていない人の差は、手で表現できないほど大きい、とまで言い切っています。実際、バリ島でも久米島でも、一年がかりの自分史ワークショップが開かれてきました。過去の追想は、ちょっとやってみる作業ではなく、それだけの時間をかける大作業なのです。

なぜ、過去が跳躍台になるのか

不思議に思われるかもしれません。過去の事実は、一つも変えられないのに、なぜそれが次の飛躍の台になるのか。

鍵は、変わるのが事実ではなく、意味のほうだ、という点にあります。私たちの記憶は、放っておくと書き換わっていきます。実際には起きていないことまで、俺はこうしてきた、と語られてしまう。だからこそ、一つずつ思い起こして確認する。確認された過去は、無自覚に引きずるものから、自覚的に踏み切れる台へと、意味を変えるのです。過去の捉え方が変わる話は、ナラティブ01で見た通りです。本記事の主張は、その一段先にあります。捉え方が変わった過去は、ただ軽くなるだけではない。跳躍台になる。

ただし、条件があります。読書会で、参加者の一人が、振り返って自分の小ささがよく分かった、と語った場面がありました。先生の答えは明快でした。その自覚は、跳躍台になりません。小ささは、天から命ぜられた本質ではないからです。跳躍台になるのは、反省ではなく、自分がどのような性を与えられているのかという自覚だけ。追想は、自分を裁く作業ではなく、自分の素質を確認する作業なのです。

もう一つ、大事な注意があります。岡本先生はメルマガに、こう書いています。「もちろん、いきなりジャンプ台は現れない。しかし、ふと立ち止まれば、跳躍して着地した自分に気づくことになる」。追想した翌朝に、目の前に台が現れるわけではありません。気がつくと、いつの間にか跳んで着地していた。俺は変わったぞ、ではなく、ふと立ち止まったときに、あれ、と気づく。読書会の言葉で言えば、変化ではなく変容です。

なぜ、過去が跳躍台になるのか 過去の事実 一つも変えられない (記憶は書き換わる) 追想・確認 一つずつ思い起こす 性(素質)の自覚 跳躍台 意味が変わる 次の飛躍へ 跳躍台にならない自覚 自分の小ささが分かった、という 反省(本質の自覚ではない) 跳躍台になる自覚 自分はどのような性を 与えられているのか(素質の確認) いきなりジャンプ台は現れない——ふと立ち止まると、着地に気づく 追想は自分を裁く作業ではない。素質を確認する作業である(変化ではなく変容)

図2 跳躍台のメカニズム——事実は変わらないが、追想と確認によって過去の意味が変わる

どこを掘ればいいのか——透明な好奇心

とはいえ、過去は膨大です。どこから思い起こせばいいのでしょうか。読書会が示した目印の一つが「透明な好奇心」です。本当にピュアな好奇心は、誰もが子供の時に発見し、培っている。それは過去にある、というのです。

ただし、判定には注意が要ります。子供の頃に夢中だったものでも、周りのみんなが夢中だったなら、それは乗せられていただけかもしれません。ブームの中で好きになったものは、透明ではない。誰も見ていないときに、一人で好きだったもの。そこにヒントがあります。読書会では、あるプラモデルのシリーズを全部作った人の例が、透明な好奇心の典型として語られていました。

先生は、年末の挨拶で「さすらいから回帰」とも書いています。これをやれば儲かる、この型にはめればうまくいく。そういうものを探して外をさすらうのをやめて、自己の過去に回帰する。そのほうがずっと豊潤で、まさに跳躍台になる、というのです。当サイトが繰り返してきた内→外の順序が、ここでも顔を出します。

最後に、読書会の宿題を一つ、お借りします。天は人に対して分けへだてがなく、人はその素質によって受けるものが違う。ちょうど、植えられた場所と種類で育ち方が違う植物のように。そこで、こう問われました。「あなたは、どのような場所に植えられた、どんな木ですか?」。この問いに答えようとするだけで、追想は始まります。

どこを掘るか——透明な好奇心の見つけ方 透明ではない好奇心 ブームの中で好きになった 周りのみんなも夢中だった =乗せられていただけかもしれない 透明な好奇心 誰も見ていないときに 一人で好きだったもの =子供の時に発見し、培っている 「あなたは、どのような場所に植えられた、どんな木ですか?」 場所と種類で育ち方は違う——素質の確認から追想が始まる さすらいから回帰——型を探して外をさすらうより、自己の過去のほうが豊潤 内→外の順序は、掘る場所の選び方にも貫かれている

図3 掘る場所の見つけ方——透明な好奇心は過去にあり、植えられた木の問いが入口になる

まとめ——第二の「故き」を温ねる

  • 温故知新の「故き」を第一層(古典・他人の成功例)だけで考えると、差はつかない。本質と発動法則は人によって違い、他人の真似は狭い世界でしか通用しないからだ。
  • 佐藤一斎の言志後録の八「過去を追想すべし」は、教訓の抽出(手本・起点)とはレイヤーが違う。過去そのものを一つずつ思い起こす行為に、別次元の働きがある。
  • その働きを紀野一義は一言で言い当てた。過去の自分の真実を一つずつ思い出すことが、次の飛躍への跳躍台になる。自分史は思い出話ではなく、現役のど真ん中で書く跳躍台である。
  • 跳躍台になるのは、反省ではなく素質の自覚だけ。そして台はいきなり現れず、ふと立ち止まったとき、跳躍して着地した自分に気づく——変化ではなく変容として。
  • 掘る場所の目印は透明な好奇心。誰も見ていないときに一人で好きだったものの中に、自分の性のヒントがある。

過去と向き合い、自分の素質を確認する作業は、それ自体が内面を磨く営みです。心を高める、経営を伸ばす(稲盛00)——この統一軸の「心を高める」側に、追想はまっすぐつながっています。そして、確認の先には実践があります。過去を語り直す方法はナラティブ01に、私自身の追想の記録は実践07(私の学びの年表)に、それぞれ書きました。あなたの跳躍台は、あなたの過去の中で、思い起こされるのを待っています。

よくある質問

Q1. 自分史を書くのは、引退してからでは駄目なのですか。

駄目ではありませんが、本来の働きは失われます。自分史の確認は、次の飛躍への跳躍台になるものだからです。跳ぶ先のある現役のど真ん中——読書会では五十からの次のスタートのために、と語られていました——にこそ、書く意味があります。引退後の思い出話は、過去で完結してしまいます。

Q2. 過去を振り返ると、後悔や自己嫌悪ばかりが出てきます。それでも跳躍台になりますか。

なりません。読書会でも、自分の小ささが分かったという自覚は跳躍台にならない、と明言されていました。跳躍台になるのは、自分がどのような素質を与えられているのかという確認だけです。追想は自分を裁く作業ではありません。後悔が出てきたら、その出来事の中で自分の何が働いていたのかへと、問いを移してみてください。

Q3. 会社の歴史(自社史)にも、同じことが言えますか。

言えます。温故知新01で見た通り、自社の失敗や捨てられなかったこだわりは、第二層の「故き」そのものです。会社の過去の真実を一つずつ確認すれば、無自覚に引きずってきた癖は、自覚的に使える持ち味に変わります。それが自社にしかない発動法則の確認となり、次の一手の跳躍台になります。

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この記事を書いた人

Takuomi Mochidaのアバター Takuomi Mochida 株式会社ベンチャーネット代表取締役

株式会社ベンチャーネット 代表取締役
2005年に株式会社ベンチャーネットを設立後、SEOをはじめとするデジタルマーケティング領域のコンサルティングサービスを展開
広告・SNS・ウェブ・MA・SFAと一気通貫で支援を行っています
著書に『普通のサラリーマンでもすごいチームと始められる レバレッジ起業 「バーチャル社員」があなたを救う』(KADOKAWA、2020年)

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