この記事でわかること
- 菩薩の定義は「人のことしか考えられず、それが楽しみな人」
- 「やるべきだから、やる」はまだ途中だという見方
- 人間をやめず、普通の生活の中に持てる一つの話
前回は、どの波も同じ水だった、という比喩の話を書きました。比べているのは水面だけ、という話です。
では、水面の比べ合いから少し離れたとき、人は何をするのか。
ある年の暮れの集まりで、老師が短く話した言葉があります。菩薩(ぼさつ)とは何か。その定義は、よく知られたイメージと少し違います。人のことしか考えられない人で、しかも、それが楽しみになっている人。では、やるべきだからやるのと、何が違うのか。
「仏様の卵なんですよ」
老師は、集まった人たちに向けて、まずこう言いました。
皆さんが本当に、本当に自分ではね、普通の人間だと思って……違うんですよ。仏様の卵なんですよ。
そして、こう続けます。
人間でもいいんですよ。人間と同時に人間でありながら菩薩になる。
菩薩とは、仏教で、悟りを求めながら人を助けようとする人のことを指す言葉です。
人間をやめて菩薩になるのではない。人間のまま、菩薩になる。普通の生活をしながら、という前提で話されていることが、この一言から分かります。
菩薩の定義は、「楽しみになる人」だった
そのうえで、老師は菩薩をこう定義しています。
菩薩っていうのはね、人のことしか考えられない人なんだね。それでさ、楽しいじゃないですか。それが楽しみになる人を菩薩という。
前半だけを読むと、自分を犠牲にする人のように聞こえます。人のことしか考えられない。それは、ずいぶん苦しそうです。
ところが、後半が違います。それが楽しみになる人。
老師の定義の中心は、人のために動くことそのものではなく、それが楽しみになっている状態のほうにあります。私はここがいちばん大事だと読みました。
「やるべきだから」では、まだ届いていない
坐禅会では、別の回にも、これと重なる話が出ています。
俺は利他をやる、やるべきだからやるとかね、それやらないでいいんですよ。
気がついたらやってる。
利他(りた)とは、自分ではなく他人の利益を図ることです。
「やるべきだから、やる」。これは立派なことに聞こえます。けれども坐禅会では、それではまだ途中だ、という趣旨で語られていました。義務として意識しているうちは、まだ自分の側に「やっている私」が残っているからだ、と私は読みました。
気がついたら、やっていた。それが楽しみになっているから、意識しなくても手が動く。二つの言葉は、同じところを指していると私は読みました。
図1 人のために動く、二つの動き方——「べき」で動くか、楽しみになっているか
私の場合——子ども食堂の企画を手伝ったこと
私にも、思い当たることが一つあります。
子ども食堂の企画を手伝ったことです。振り返ると、やらされた、という感じはありませんでした。面白かった、という記憶のほうが残っています。
仕事で人のために動くときは、どうしても「やるべきこと」の顔をしています。締切があり、約束があり、責任がある。それ自体は大切なことです。
ただ、あの企画は違いました。義務の顔をしていなかった。老師の言う「楽しみになる」というのは、たぶんこういう手触りのことなのだと思います。
経営理念の「お客様のために」は、どちらで動いているか
経営に置き換えると、思い当たる形があります。
経営理念に「お客様のために」「社会のために」と掲げる会社は多いと思います。私もそういう言葉の大切さは分かっているつもりです。
ただ、その言葉が「やるべきこと」として貼られているうちは、図の左側にいるのかもしれません。守らなければ、と思うほど、意志が要ります。
理念が本当に効いているときは、たぶん誰も理念を意識していない。気がついたら、お客様のことを考えている。そういう状態を、老師は「楽しみになる」と呼んだのではないか、と私は読みました。
図2 人間のまま、菩薩になる——普通の生活の中に、人のことが楽しみになっている部分がある
「自分を犠牲にしろ」という話ではありません
一つ目。自分をすり減らして人に尽くせ、という話ではありません。老師の定義の中心は「楽しみになる」です。苦しいのに続けているなら、それは定義から外れています。しんどいときは、休むほうが先だと私は考えます。
二つ目。「楽しくないなら、やらなくていい」という話でもありません。仕事の責任は、楽しいかどうかとは別にあります。ここで言っているのは、人のために動くことの中に、楽しみになっている部分が一つでもあるか、という問いです。
まとめ——義務の顔をしていない一つを、見つける
- 老師の菩薩の定義は「人のことしか考えられない人。それが楽しみになる人」。中心は、楽しみになっている状態
- 「やるべきだから、やる」では、まだ途中。気がついたらやっている、のほうへ
- 人間をやめるのではなく、人間のまま。普通の生活の中に、そういう一つがあればいい
心を高める、経営を伸ばす。人のために動くことが義務の顔をしなくなったとき、二つは同じものになるのだと、この言葉を読み直して思いました。
呼吸ほど素晴らしいものはない、と老師は言います。なぜ、息なのか。次回は、息の話です。
明日、一つだけやってみる
人のために動いていることのうち、義務の顔をしていないものを一つ探してみてください。仕事の外の一つでも構いません。
よくある質問
Q. 楽しいから人のために動く、というのは自己満足ではないですか。
そう見えるかもしれません。ただ老師の言い方は「人のことしか考えられない」です。自分の満足を目的にしているのではなく、人のことを考えていることが、結果として楽しみになっている、という順番だと私は読みました。
Q. 仕事で「楽しみ」と思える場面がありません。
老師は、仕事で、とは言っていません。「人間でありながら」です。仕事の外でも構わないと私は考えます。私の場合、思い当たったのは仕事の外の一つでした。
Q. 宗教的な話として受け取るべきですか。
老師は仏教の言葉で話していますが、この記事が借りたのは、人のために動くことが、義務ではなく楽しみになっている状態という見方です。用語を外しても、見方は残ります。
出典
- 坐禅会(2019年12月)の録音記録。「仏様の卵なんですよ」「人間と同時に人間でありながら菩薩になる」「菩薩っていうのはね……それが楽しみになる人を菩薩という」は老師の発言(録音の12:37〜13:10)
- 坐禅会(2018年5月)の録音記録。「俺は利他をやる、やるべきだからやるとかね、それやらないでいいんですよ」「気がついたらやってる」(30:26〜30:37前後)。会話の中の発言で、話者を確定できないため、発言者を特定せずに書いた
- 引用は録音の文字起こしから。言いよどみや、意味が取れない部分は「……」で省いた
- 「菩薩」「利他」の語釈は、一般的な意味をもとにした筆者の補足です
- 子ども食堂の企画を手伝ったことは筆者自身のものです
- 本文中に坐禅会の関係者・老師・参加者のお名前は記載していません
- 本記事は坐禅会の録音のみを素材としており、書籍は使用していません
- 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません
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