この記事でわかること
- 業績が上がっても、埋まらない不安の層がある
- 紛らす対処ほど効き目が落ち、量が増えていく仕組み
- 物質面の不安を軽く見ず、層の違いとして知っておく意味
前回は、すでに持っているものに気づかない話を書きました。家を出た子どもが、我が家とも知らずに我が家へ戻ってくる譬えです。
気づかないままでいると、人はどうするか。外に探しに出ます。
では、探しに出れば、埋まるのか。
『禅の正門』は、第一章のいちばん最初で、その問いに答えを出しています。題は現代人の苦悩と病患です。
本の答えは、埋まらない、でした。物質生活がいくら充足されても、埋め尽くせない層がある。読んでみて、これは経営者にこそ効く節だと思いました。
豊かになっても、消えなかった
本は、まず物質面の不安から書き起こします。
科学技術が進み、経済が発展しても、物質生活の不安は現代人の苦悩の大きな部分を形成していると。その解決は政治や経済の領域とされているが、残りなく解決できる日はいつだろうか、と続けます。
そのうえで、こう書きます。
「のみならず、人間の心の中には、物質生活が如何に充足されても、」
「これによっては埋め尽されることのできない、無限に深い苦悩の深淵がある」
豊かになることと、不安が消えることは別だ、と言っています。
経営に置き換えると、身も蓋もない話になります。業績が良くなっても、不安は消えない。
売上が上がれば消えるはずだった不安が、上がったあとも残っている。この経験をお持ちの方は、少なくないと思います。
人生は、不安と苦悩の博覧会
本は続けて、人の一生をこう描きます。
「現代の人は、物質生活に関する不安とは別に、またはこれと絡み合って、」
「一生涯絶え間のない不安の連続と闘いながら生きているのである」
そして、具体的に並べます。
「もの心がついてから墓場に入るまで、入学難、試験地獄、就職難から生活難、」
「交通地獄に騒音、公害、果ては高血圧に癌の恐怖等々、瞬時もホッとする隙のない難、難の行列である」
この並びは、原著が書かれた当時のものです。いま並べ直せば、採用難、原価の高騰、後継者の不在、情報漏えい、といったところでしょうか。
顔ぶれは変わっても、行列は途切れません。
本は、古人の詩を引いてこう締めます。
「行路難、行路難、君自ら看よ」
そして——
「まことに、人生は不安と苦悩の博覧会といってよかろう」
博覧会。次から次へと展示が並び、見終わることがない。うまい言い方だと思いました。
図1 上は埋まる。下は埋まらない——本が分けている二つの層
紛らす、という対処
本は、大多数の人がどう対処しているかを書きます。
「しかも大多数の人は、このような不安とまともに対決して、これを解決しようとはせず、」
「一時的な刺戟を外に求めてこれをごまかそうとする」
そして、その対処の限界を、はっきり書きます。
「しかしながら、生の不安は、こうした官能の一時的陶酔によって解消することは絶対に不可能である。」
「不安の深淵は無限だからである。陶酔のさめた後の落莫たる空虚は、何物によっても満たされることができない」
ここで、詩が一つ引かれます。
「刀を抽いて水を断てば水更に流る」
「杯を挙げて愁を銷せば愁更に愁なり」
刀で水を斬っても、水はまた流れる。杯を挙げて憂いを消そうとしても、憂いはさらに憂いになる。
この対処がどこへ行き着くかも、本は書いています。
「こうして刺戟は更に強い刺戟を求め、空虚はニヒルとなり、」
「自己生存の無意義感となり、果てしない精神の荒野を放浪することとなる」
効き目が落ちるから、量が増える。構造としては、これだけの話です。
図2 紛らす対処は、一巡するごとに量が増える
経営者にとっての「刺戟」は、たぶん忙しさです
この一節を読んで思い浮かべたのは、経営者の方の手帳でした。
私は基幹システムの導入を支援する仕事をしていて、経営者や役員の方とお話しする機会があります。
予定が埋まっていることを、仕事が回っている証拠として話される方は、少なくありません。そして、落ち着いて考える時間がないという言い方も、よく聞きます。
本の書いている構造に当てはめると、こうなります。
予定を埋める。埋まっている間は、考えなくて済む。空くと、落ち着かない。だから、もっと埋める。
刺戟が酒や遊びだとは限らないのだと思いました。忙しさも、立派に刺戟です。しかも忙しさは、周りから褒められます。だからいちばん気づきにくい。
私自身も、例外ではないだろうと思っています。
「だから業績はどうでもいい」ではない
ここは読み違えやすいところです。
本は、物質面の不安を軽く見ていません。それが現代人の苦悩の大きな部分を形成していると、はっきり書いています。解決は政治や経済の領域だ、とも認めています。
上の層は、上の層として、ちゃんと埋めるべきだという前提の上に立った話です。
つまり、業績を上げなくてよいのではない。上げても残るものがある、というだけです。
順番の話でもありません。層が違うという話です。
不安を、持ってこられるか
本は、この節に一つの公案を置いています。
達磨大師のところへ来た弟子が、こう言います。弟子の心は、まだ安らかではありません。どうか安心させてください。
達磨は答えます。その心を持って来なさい。安らかにしてやろう。
弟子は探します。そして——
「心を求むるに了に不可得」
探しても、どこにも見つからなかった。達磨は言います。お前のために、安心させ終わった。
狐につままれたような話です。ただ、紛らすのでも、埋めるのでもない三つ目のやり方が、ここに置かれていることは分かりました。中身は、この節では説明されません。
まとめ——埋まらない層があると、知っておく
要点は三つです。
- 豊かになることと、不安が消えることは別。業績が上がっても、残る層があります
- 紛らす対処は、効き目が落ちるから量が増える。経営者にとっての刺戟は、たぶん忙しさです
- 上の層を軽く見る話ではない。層が違う、というだけです
心を高める、経営を伸ばす。伸ばすほうをいくら進めても、高めるほうは自動では付いてこないのだと、この節から読みました。だから二つ並んでいるのだと思います。
では、その埋まらない層は、いったい何なのか。同じ本が、少し先で答えを出しています。次回は、その話です。
明日、一つだけやってみる
予定が空いたとき、ほっとするのか、落ち着かないのかを確かめてみてください。忙しさで何かを紛らしていないかを知る手がかりになるかもしれません。
よくある質問
Q. 忙しくするのが悪い、ということですか。
そうは読みませんでした。本が問題にしているのは、不安と対決せずにごまかすという使い方のほうです。
見分け方があるとすれば、予定が空いたときに何を感じるかだと思います。ほっとするのか、落ち着かないのか。
Q. 業績を追うのをやめたほうがよいのでしょうか。
いいえ。本は物質面の不安を軽く見ていません。それが苦悩の大きな部分を形成していると書き、解決は政治や経済の領域だと認めています。
上は上で埋める。そのうえで、下の層は別だと知っておく。それだけの話だと受け取りました。
Q. 不安があるのは、良くないことですか。
本はそうは言っていません。この節は、不安をなくすべきものとしてではなく、そこにあるものとして扱っています。
そして、この本の続きでは、その不安をむしろ別の名前で呼び直します。そこは次回に書きます。
出典
- 山田耕雲『新版 禅の正門』(春秋社)第一章第一節「序論」の「一 人間、特に現代人の苦悩について」。本文6〜8ページ
- 「のみならず、人間の心の中には……」は本文6ページ
- 「現代の人は、物質生活に関する不安とは別に……」「もの心がついてから墓場に入るまで……」「まことに、人生は不安と苦悩の博覧会といってよかろう」は本文7〜8ページ
- 「行路難、行路難、君自ら看よ」は、同書が古人の詩として引いているもの
- 「刀を抽いて水を断てば水更に流る/杯を挙げて愁を銷せば愁更に愁なり」は、同書が詩人・李太白の詩として引いているもの
- 「しかも大多数の人は……」「しかしながら、生の不安は……」「こうして刺戟は更に強い刺戟を求め……」は本文8ページ
- 達磨大師と弟子のやり取り、および「心を求むるに了に不可得」は、同書が本文7ページに公案として引いているもの。本記事では要旨と当該の一句のみを示し、公案の全文は引用していない
- 引用はすべて、同書のスキャン原本の該当ページ画像(400dpi)で字句を確認した(本文6・7・8ページ)
- 本文中に人名として記したのは、達磨大師のみです(李太白は出典欄のみ)。坐禅会の関係者のお名前は記載していません
- 本記事は書籍のみを素材としており、坐禅会の録音は使用していません
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