この記事でわかること
- 「今年こそ毎日10分」と決めるほど続かなかった8年の話
- 分からなかった提唱が8年後に届いた、「俺がつく」という言葉
- 「毎日」を外し、抜けた日を数えないことで続いた理由
前回は、坐禅の数息観の話を書きました。吸って吐いて1つ、10まで数えて1に返る。私自身は、朝5分を週に数回。毎日ではありません。
そう書きながら、8年前の自分を思い出していました。同じ坐禅の場で、私はこう名乗っていたのです。今年こそ、毎日10分は座れるようにしたい、と。
その年も、坐禅は続きませんでした。理由が分かったのは8年後です。「今年こそ」という決意そのものに、「俺」がついていた。そして「毎日」を外したら、続くようになりました。
では、なぜ分かるまでに8年もかかったのか。
「今年こそ毎日10分」と、私は名乗った
2018年2月2日の夜。冬の接心の初日でした。接心とは、数日間こもって集中的に坐る、合宿形式の修行のことです。
その夜、参加者が一人ずつ名乗る時間がありました。録音が残っていて、私の番はこう始まります。
「冬の接心に参加、これで4回目となります」
続けて、私はこう話しています。毎年接心に参加して、1年の新しいリセットをして、今年1年頑張ろうと思っている。いい習慣化を目指している。
けれども、だいたい1ヶ月ぐらい経つと、毎日の坐禅が少しずつ減ってきてしまう——。
最後は、こう結んでいました。
「今年こそ1年間毎日10分は座れるように頑張っていきたいと思っております」
4回目ということは、その前の3年も同じことをしていたわけです。毎年リセットして、毎年減っていく。それを承知で、また「今年こそ」と言っている。立派な話ではありません。
いつの間にか、やらなくなっていた
その年も、いつの間にか、やらなくなっていました。
挫折した日はありません。やめようと決めた記憶もない。忙しい日が続いて、坐らない日が一日あって、それが二日になる。気がついたら坐っていない。
だから翌年も接心に行き、また名乗ることになります。
当時の私は、これを意志の弱さだと思っていました。決意が足りない、仕組みが足りない。そう考えて、決意をさらに固くしようとしていたのです。
「今年こそ」に力が入っていたこと自体が原因かもしれない。そんな見方は、当時の私にはありませんでした。
8年後、あの日の提唱を読み直した
分からなかった話が、年月を置いて意味を持つことがあります。
2018年2月3日の午前、接心の2日目に提唱がありました。提唱とは、老師が禅の古典を講じる講話のことです。
この日の題材は『無門関』の第6則でした。お釈迦様が大衆の前で花を一本ひねって見せ、迦葉という弟子だけがにっこり笑った、という公案(修行者を試すための問い)です。
その場の私には、ほとんど分かりませんでした。
今年になって、その録音を文字に起こして読み返しました。老師が何を話していたのか、ようやく分かったのはそのときです。
老師はこう言っていました。私たちが吸って吐いてやっている、その中身は、お釈迦様のそれと全く同じである。違いは一つだけ。私たちは「自分がやっている」と思っている、と。
そして、こう続けます。
「僕はね、1000億分の1秒で、すぐ俺がついてるんですよ。俺が今水を飲むんだ。俺が立つ。俺が座る」
迷いとは何か。老師の答えは「俺俺病」でした。
同じ日の話で、もう一つ刺さった一節があります。観念とは、ある事実を頭に描いた絵を説明しているだけで、立つという事実そのものを示してはいない——という趣旨でした。
読み返しながら、自分の名乗りを思い出しました。
「今年こそ1年間毎日10分は座れるように頑張っていきたい」
あれは事実ではなく、説明でした。しかも、その説明には「俺」がついていました。
図1 同じ呼吸の、二つの層——息は一つ。分かれるのは、受け取る側である
70年座って分かったのは、呼吸のことだった
老師がこの話をしたとき、坐りはじめてから70年が経っていました。
初日の夜、老師は自分の年月をこう話しています。16歳のときに始めて、その年で86歳。ちょうど70年になる。70年経って初めて、これこそ本当の教えだと思えるようになった、と。
提唱では、こうも言っています。70年坐ってきて、呼吸ほど素晴らしいものはないと思う。息は、生まれたときから死ぬ数秒前まで自分を生かしてくれていて、しかも何の報酬も求めない——。
70年の結論が、呼吸でした。
初日の夜には、心に残った言葉がもう一つあります。老師は、参加していた経営者たちにこう語りました。皆さんには、自分の心を高め経営を良くしようという原点に立った修行の心(菩提心)がある。座ることと、その菩提心は裏腹なのだ、と。
坐ることと、経営を良くしたいという志は、別のものではない。私はそう受け取っています。
仲間と座れば十人前、二十人前の坐禅になる、とも老師は言いました。
図2 70年と、11年——長さは比べものにならない。それでも、どちらも「続いている」側にある
続かないときに、私がはまっていた3つの型
振り返ると、私のつまずきは3つの型に分かれます。教えるつもりはありません。同じところで止まっている方に、私の8年をお渡しします。
① 「今年こそ」と決めるほど、続かない
年の初めや研修の直後に目標を立てる。「毎日」と決める。一度抜けると、再開できなくなる。
決意そのものに、力みが入っています。続ける主体が前に出ると、できなかった日が「失敗」に変わる。
私は8年、これを繰り返しました。いまは「毎日」を外し、1日5分にしています。抜けた日は数えません。
② 分からないまま聞いた話は、無駄だったと思ってしまう
講話が理解できない。メモも取れない。自分には早かった、と足が遠のく。
けれども提唱は一方通行の話で、その場で腑に落ちることを前提にしていません。理解は、坐った年月の側に遅れて届きます。私の場合は、それが8年後でした。
③ 一人で完結させようとする
自宅だけで坐る。続かないことを誰にも言わない。場から遠ざかる。
老師は、仲間と座ると十人前、二十人前の坐禅になると言っていました。切磋琢磨は精神論ではなく、続けるための仕組みの話だったのだと思います。いまの私は一人で坐っています。だからこそ、あの接心の場が何だったのかが分かります。
まとめ——完全主義をやめたら、続いていた
- 「今年こそ」には、俺がついている。決意が固いほど、できなかった日が失敗になる
- 分からなかった話は、あとから届く。私の場合は8年後だった
- 毎日でなくてよい。抜けた日を数えないことで、はじめて続いた
ここ1、2年のうちに、完全主義をやめようと思う出来事がありました。それ以来、坐禅も「完全にやる」対象から外れています。いまは1日5分を、毎日ではなく、続けています。
8年前に「今年こそ毎日10分」と名乗った私より、いまのほうが坐っている日数は多いと思います。減らしたら、続きました。
心を高める、経営を伸ばす。その入口は、俺がつく前の一息でした。
坐禅の話は、これで3回目です。老師は坐禅の五分類を教え、そのうえで、分類にとらわれるなと言いました。分けておきながら、なぜとらわれるなと言うのか。次回は、その五分類の話です。
明日、一つだけやってみる
続けたい習慣を一つ選び、「毎日」を外して1日5分と決めてみてください。抜けた日は数えず、失敗としても扱わないでください。
よくある質問
Q. 毎日できないと、意味がないのでしょうか。
私は2018年の接心で「今年こそ毎日10分」と名乗り、その年もいつの間にかやらなくなりました。いまは毎日ではありません。それでも続いています。
老師は、毎日5分でも10分でも座ろう、そうしていくと不思議と新しい境地になっていく感じがする、と話していました。私に効いたのは、毎日かどうかより、抜けた日を失敗にしないことでした。
Q. 接心とは何ですか。
数日間こもって、集中的に坐る合宿形式の修行です。私が参加していたのは冬の接心で、2018年で4回目でした。無駄口をきかない、よそ見をしない、社交的な頭を使わない——老師は、この三つが接心中の一番正しい礼儀だと話していました。
Q. 提唱が理解できなくても、参加する意味はありますか。
私はほとんど理解できませんでした。それでも8年後に録音を読み直して、あの日の話が自分の「今年こそ」についての話だったと分かりました。その場で分かることだけが、学びの成果ではないのだと思います。
出典
- 坐禅会 冬の接心(2018年2月2日・3日)の録音記録。老師の発言はこの記録による
- 『無門関』第6則「世尊拈花」。提唱で参照された解説は、安谷白雲『[禅の心髄]無門関』(春秋社)による
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