この記事でわかること
- 本当のことを言っても、相手が信じられないことがあるという話
- 言葉より先に、相手の場所へ降りて一緒にやるという入り方
- 自分も自分の価値を知らない一人だ、と覚えておく意味
前回は、他己の話を書きました。通訳してくれる人は自分である。自分にできないことを認めるところから、任せ方が始まる、という話です。
では逆に、相手に「本当はできる」と伝えても、信じてもらえないときは、どうするのか。
同じ日の坐禅会で、老師はそれに近いたとえ話を紹介していました。長者窮子(ちょうじゃぐうじ)と呼ばれる話です。
以前、本に引かれた同じたとえ話を書いたことがあります。そこでは、長者が名乗らずに、息子に掃除の仕事から段を踏ませていました。坐禅会で老師が語った形からは、長者の入り方が読めます。
「信じないんですよね」
老師は、話をこう始めています。
これはですね、昔の百万長者あの息子がですね、ホームレスになった話があるんですよ。で、ホームレスになっちゃってね、何ももう誰も相手にしないと。
で、そのホームレスをですね、だんだんと本当はお前は長者の息子だよと言うんだけど、信じないんですよね。
本当のことを言っても、信じない。
息子は、長者の子です。それは事実です。けれども、本人はそう思っていない。だから、いくら言われても信じられない。
「まず俺と一緒に」
では、長者はどうしたのか。老師の紹介では、長者は信じない息子と、まず一緒に暮らすところから始めています。
ここで目を引くのは、長者のほうが、息子の暮らしに降りていくことです。
言っても信じないから、まず一緒に過ごす。そのうえで、お前はもっと立派な人間なんだと伝える。最後に家の前に立たせ、長者に会わせる。息子はそこで、自分の本当の位を手に入れます。
図1 長者の入り方——言っても信じないとき、相手の場所へ降りてから伝える
窮子は、私たち自身だ
ただし、老師がこの話で言いたかったのは、長者のやり方そのものではありません。老師は、こう続けています。
本当の自分は百万長者だ。極楽の真ん中にいる極楽の百万長者なんだけど、その価値はみんな知らない。
窮子は、私たち自身だ、ということです。窮子とは、ここでは、自分が長者の子だと知らずに貧しく暮らす息子のことです。
本当は百万長者なのに、その価値を知らない。老師は、坐禅会に集まった人たちを含めて、我々はみなそうだと言っています。そして、その価値を知るために修行しましょう、と話を修行の決意へつないでいます。
私の場合——新しい役割と、一緒にやってみせる
私が「本当はできる」と伝えても、相手が信じなかった場面にいちばん近いのは、社員に新しい役割を頼んだときです。
そういうとき、私はまず一緒にやってみせることが多いです。
老師の紹介に当てはめると、これは長者の二番目の段にあたります。言っても信じない。だから、まず隣で同じことをやる。私はそう読みました。
図2 二つの立場で読む——自分も窮子であり、人を育てるときは長者の側に立つ
組織に置き換えると
社員に新しい役割を頼む。本人は、自分にはできないと思っている。こういうとき、「君ならできる」と言葉を重ねたくなります。
老師の紹介では、長者も最初は言葉で伝えています。けれども、信じない。そこで長者は、まず一緒に過ごすほうから入りました。
組織づくりに引き寄せると、相手の場所へ降りて、隣で一緒にやることが、言葉より先に来る場面がある。そういうことだと思います。言葉は、そのあとに届きます。
そしてもう一つ。老師の言う通り、窮子は私たち自身でもあります。人の本当の力を信じる前に、自分も自分の価値を知らない一人だと覚えておく。そうすると、相手を見下ろす位置から話さずに済むのだと私は考えます。
「相手を窮子と見下せ」という話ではありません
ここには、誤解されやすい点が二つあります。
一つ目。相手を、価値を知らない人として見下せ、という話ではありません。老師は「我々は」と言い、自分たちを含めています。窮子は、相手だけのことではありません。
二つ目。ずっと一緒にやり続けろ、という話でもありません。たとえ話の最後で、長者は息子を家の前に立たせ、息子は自分で位を手に入れます。一緒にやるのは入口であり、行き先は本人が自分の価値を知ることだと私は読みました。
まとめ——言っても信じないときは、隣に降りる
- 本当のことを言っても、信じられないことがある。息子は、自分が長者の子だと思っていない
- 長者は、まず一緒に過ごした。相手の場所へ降りてから、お前はもっと立派だと伝えた
- 窮子は、私たち自身でもある。だから、見下ろす位置からではなく、隣から話す
心を高める、経営を伸ばす。言葉の前に隣に降りることは、心の側の話であり、組織の側の話でもあると、この言葉を読み直して思いました。
坐禅会の接心の最後に、世話人の方が「掃除もサービスではなく修行だ」と話しました。掃除が、なぜ修行なのか。次回は、場の話です。
明日、一つだけやってみる
新しい役割に自信を持てない社員がいたら、言葉を重ねる前に一度、隣で一緒にやってみてください。「君ならできる」は、そのあとに伝えてください。
よくある質問
Q. 「長者窮子」とは、どういう話ですか。
老師の紹介では、百万長者の息子が、それと知らずに貧しく暮らしている話です。長者は、信じない息子とまず一緒に過ごし、最後に家の前に立たせて、息子に本当の位を手に入れさせます。
Q. 言葉で伝えることは、無駄なのですか。
無駄だとは言っていません。長者は、一緒に過ごしたあとで「お前はもっと立派な人間なんだ」と伝えています。老師の紹介でも、言葉は一緒に過ごしたあとに届いています。
Q. 宗教的な話として受け取るべきですか。
老師は修行の話としてこのたとえを紹介していますが、この記事が借りたのは、言っても信じない相手には、まず隣に降りるという見方です。用語を外しても、見方は残ります。
出典
- 坐禅会(2018年6月)の録音記録。「昔の百万長者あの息子がですね、ホームレスになった話があるんですよ」「本当はお前は長者の息子だよと言うんだけど、信じないんですよね」「本当の自分は百万長者だ……その価値はみんな知らない」は老師の発言(録音の05:14〜06:21前後)。長者が息子と同じ暮らしを一緒にする場面は、同じ箇所の老師の発言を趣旨で記したもの。書籍の朗読の合間の、老師自身の紹介の部分
- 話者は、会に出席していた筆者が確認した(2026年9月)
- たとえ話の名前は、文字起こしでは「長者郡侍」「長者寓事」と崩れているが、文脈から「長者窮子」と判断して表記した。たとえ話の筋は、老師の紹介の範囲で書き、原典の細部は補っていない
- 「窮子」の説明と読み方は、筆者の補足です
- 引用は録音の文字起こしから。言いよどみや、意味が取れない部分は「……」で省いた
- 社員に新しい役割を頼んだとき、一緒にやってみせる、という記述は筆者自身のものです
- 本文中に坐禅会の関係者・老師・世話人の方のお名前は記載していません
- 本記事は坐禅会の録音のみを素材としており、朗読された書籍の本文は引用していません
- 本記事は特定の宗教を評価・推奨するものではありません
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